アーサー・コナン・ドイル『失われた世界』解説
日暮雅通 masamichi HIGURASHI
 コナン・ドイルという作家は、どうしても「シャーロック・ホームズの生みの親」として思い出されることが多い。一方、この『失われた世界』が同じドイルの『バスカヴィル家の犬』やジェラール准将ものに匹敵する素晴らしい冒険小説であり、SFというジャンルが確立されていない時代にそのサブジャンルをつくり出した画期的な作品だということは、残念ながら一般読者のあいだにあまり浸透していないようだ。
 『失われた世界』が発表された一九一二年当時、知られざる世界を扱った小説はすでにいくつかあった。だが、現実の南米探検によるエピソードを使い、人跡未踏の地やそこで生きる古代生物を生き生きと描写することによって、本作は「ロスト・ワールドもの」と呼ばれるサブジャンルを確立し、多くのフォロワーを生んだのである。
 コナン・ドイルは一八五九年に生まれ、一九三〇年に七十一歳で亡くなった。つまり、人生の半分強は十九世紀のヴィクトリア時代、残りは二十世紀のエドワード七世とジョージ五世の時代に過ごしたことになる。本作が月刊誌〈ストランド・マガジン〉に連載され、単行本として刊行されたころは、二十世紀に入ってすでに十年以上が過ぎていたが、ドイルはまだ途切れ途切れにホームズものを書いていた。シリーズの第四短編集『シャーロック・ホームズ最後の挨拶』に収録される七作のうち六作を一九〇八年から一九一三年の六年間で発表し、そのあいだの一九一二年に本作を発表して、チャレンジャー教授シリーズをスタートさせたのだ。チャレンジャー・シリーズは全五作。本作のあとは「毒ガス帯」(中編、一九一三年)、『霧の国』(長編、一九二六年)、「地球の悲鳴」(短編、一九二八年)、「分解機」(短編、一九二九年)の順である。
 一九〇六年に妻ルイーズを病気で亡くしたドイルは、同年に歴史冒険小説『ナイジェル卿の冒険』を刊行したが、評判はあまり芳しくなかった。その後一九一二年に本作を刊行するまで、長編小説から六年間遠ざかっていたことになる。
 遠ざかったのは、小説の評判がよくなかったからというより、実生活の忙しさのためと言ったほうが正しそうだ。たとえば、この一九〇六年から翌一九〇七年にかけてと一九一〇年から一九一二年にかけて、ドイルはジョージ・エイダルジとオスカー・スレイターという二人の男の冤罪を晴らすための活動をしている。政治・社会面では、一九〇六年に二度目の国会議員選挙出馬で落選したほか、一九〇九年には離婚法改革同盟の会長に就任し、コンゴ植民地におけるベルギーの圧政に反対して『コンゴの犯罪』を出版した。私生活の面でも大きな転機であり、一九〇七年には、ルイーズが亡くなる前から交際していたジーン・レッキーと再婚。一九〇九、一九一〇、一九一二年と連続して、三人の子をもうけている。社会的・政治的活動と私生活の両方において、多忙な六年間だったわけだ。
 しかしドイルは、一九〇七年の再婚当時すでに、新たな種類の小説を書きたいという意欲をもっていた。その後ふたたび長編小説を書こうと思い立ったとき、〈ストランド〉の編集長だったハーバート・グリーンハウ・スミスに宛てて、次のような手紙を書いた(*1)。
「私は、シャーロック・ホームズが探偵小説の世界に対して与えたのと同じことを、少年向けの本でやりたいという野望をもっているのです。二つめの成功を勝ち取れるかどうかはわかりませんが、そうなりたいと思っています」
 もっとも『失われた世界』は、児童文学として書かれたわけではない。新聞記者エドワード・ダン・マローンを語り手として、けんかっ早くて尊大で偏屈な動物学者の主人公チャレンジャー教授と、彼の学問上のライバルであるサマリー教授、それに有閑貴族の冒険家ロクストン卿の四人が南米へ探検に行き、一種のタイムカプセルとなった秘境に生きる古代の生物を発見する冒険物語だ。だが、本書のエピグラフである「なかば大人の少年となかば少年の大人に/ひととき楽しんでもらえれば望外である」を読めば、ドイルがグリーンハウ・スミスに書き送ったことの意味がわかるだろう。
 またドイルは、本作を書くにあたって、現実世界の本当にあった話として読んでほしいと思っていた。そのために彼は、歴史小説を書くときと同じように、細かな点まで事実を把握しようとした。外交官のロジャー・ケイスメントと知り合うと、ペルーのゴム業者による原地住民への搾取と虐待を調査しに行く彼に宛てて、一九一〇年八月に手紙を書いた。『失われた世界』のアイデアを彼に教え、「奇怪なことや不思議なことに出会ったら、ぜひ知らせてほしい」と頼んだのだ。それ以外にも、本作に出てくるテーブルマウンテンのモデル候補であるロライマ山に初登頂した植物学者エヴェラード・イム・サーンの講演会に出ているし、もうひとつの候補であるリカルド・フランコ・ヒルズを探検したパーシー・フォーセットからも現地の情報を得ていた。
 このケイスメントとフォーセットは、本作の冒険家ジョン・ロクストンのキャラクターをつくる際のモデルになったと言われている。同じく新聞記者のマローンのモデルは、コンゴの圧制を暴露したことが前述の『コンゴの犯罪』の執筆につながったジャーナリスト、エドマンド・モレルだとされる。
 では肝心のチャレンジャー教授のモデルは誰かというと、ドイル自身、彼のエディンバラ大学時代の生理学教授、ウィリアム・ラザフォードだと言っている。「息を呑むほどの巨躯」で、ずば抜けて大きな頭にアッシリアの牡牛のような顔と鬚、「吠えるように低く轟く声」といった、シャーロック・ホームズとは対照的な人物だ。ただ、両者には共通点もある。エキセントリックなキャラクターでありながら、科学的手法を使って謎にアプローチする真実の追究者であり、他人が自分のことをどう言おうといっこうにかまわないという点だ。
 ただ、チャレンジャー教授のモデル候補も、ひとりではない。好戦的な大言壮語の輩といえば、ドイル伝に必ず出てくるドイルの友人、ジョージ・ターナヴィン・バッド医師がいて、彼もチャレンジャー教授のキャラクターづくりに一役買ったと言われている。そして、チャレンジャー教授の「まともな面」を代表するモデルが、一九〇七年まで大英自然史博物館の博物学部長を務めたエドウィン・レイ・ランケスターだ。ドイルは彼と親交があり、彼の著書『絶滅した動物たち』(一九〇五年)を参考にしていた。本作の第四章で教授が書架から取り出してきて「これは才能豊かなわが友人、レイ・ランケスターによる素晴らしい論文だ!」と言う本である。
 このチャレンジャー教授というキャラクターに対し、ドイルはホームズに対するのとは正反対の愛着心を見せた。前述のように、本当にあった話として読ませたい、つまりは「偽のリアリティ」(*2)をつくり出したいという気持ちが強かったにせよ、ほとんどプラクティカル・ジョークを仕掛けるような乗りで、みずからチャレンジャー教授に扮して写真におさまったのだ。
 あご髭をかなり長くして、髪の生え際を額より低くした「人間ゴリラ」とドイルの言う教授の扮装写真や、教授以下四人の探検隊員に扮した集合写真が、〈ストランド〉の挿絵や英国版単行本初版の口絵に使われた。集合写真のほうでは、連載時のデザイナーだったイラストレーターのパトリック・フォーブズがひとり二役でロクストンとサマリー教授に変装し、写真家のW・H・ランズフォードがマローン記者に扮したのだった(本書九ページに採録)。
 ただ、これだけ「偽のリアリティ」に固執したコナン・ドイルであったが、多くのホームズ作品と同様、小説内ではっきりとした年代を記さなかった。その点については、ロイ・パイロットとアルヴィン・ローディンが、『注釈付き失われた世界』の中で考察している。第十五章でマローンが「二十世紀の円錐形炸裂弾」という表現を使っていることと、八月十八日が火曜日という記述があること、ランケスターの著作がすでに刊行されていることから、一九〇八年の出来事だったというのだ(*3)。
 『失われた世界』〈ストランド〉の一九一二年四月号から十一月号に連載されたあと、同年十月十五日に単行本として刊行された(ご存じのように月刊誌の月号は前倒し)。本書にはその〈ストランド〉版の挿絵が使われている。アメリカでは〈アソシエイテッド・サンデー・マガジンズ〉、つまりアメリカ各地の新聞雑誌が同じ〈サンデー・マガジン〉という名前を使って出していた複数の雑誌に掲載された。ホームズ物語の場合も、アメリカではこうしたシンジケートによる配信が行われていた。
 雑誌連載が単行本になる場合、かつては一回の連載分が一章ないし二章分といった、切りのいい終わり方になることが普通だった。ところが『失われた世界』の場合は、雑誌のどこかの回で「クリフハンガー的な」(ハラハラドキドキの)終わりかたをしても、それが章の終わりにならないことがけっこうあった。逆に、雑誌の回の最後に書かれた部分が単行本では削除されたケースもある。たとえば〈ストランド〉十月号の回(十四章の途中から十五章の途中まで)について、キャサリン・クックは次のように指摘している(*4)。
 「『すでに僕らの心と期待は故郷の大都市にむいている。そこでは大きな反響があると確信している』(本書二八六ページ)というのは単行本の十五章後半だが、〈ストランド〉十月号では、次のような続きがあった。『とはいえ、これからどんな冒険が僕らを待ち受けているか、それはわからないのだ。僕の直感は、この冒険の最後の章はまさしく奇妙な、とんでもないものになるだろうと告げている』。つまり、登場人物はほぼ安全な状態にいるが、この先はわからないので、次号をぜひ読まれたい、と言っているわけである」
 本作はドイルがまだ存命中の一九二五年に初めて映画化され、一九六〇年にもアーウィン・アレン監督で制作された。一九二五年版は、原作にないポーラ・ホワイトという女性を登場させて南米まで同行させ、マローンと恋愛をさせるという、いかにもハリウッドらしいものだが、ウィリス・オブライエンのストップモーション手法による恐竜の映像は、画期的なものだった。彼はこの技術をのちの映画『キングコング』(一九三三年)に生かして成功をおさめた。
 最新のSFXに慣れてしまった現代の観客の目には、いささか古臭く、ぎごちないものに映るかもしれないが、当時の人たちには非常に斬新なものだった。その証拠に、一九二二年に催された米マジシャン協会のディナーで、ドイルがこの映画のラッシュ(下見用プリント)をいきなり見せたところ、本物の恐竜の映像だと思い込む者が続出したという。
 その後、一九二五年版のオリジナルフィルムは紛失したが、今世紀に入って発見されたフィルムと最新技術をもとに修復されたブルーレイ版が、二〇一六年にFlicker Alleyからリリースされた。それを見ると、SFXの黎明期にいかにすばらしい映像をつくり出していたかがよくわかる。

*1 日付は不明。トロント公共図書館所蔵。
*2 "Creating Reality―Conan Doyle's concern to present fiction as
fact in The Lost World" by Catherine Cooke (2019)
*3 The Annotated Lost World by Conan Doyle, Roy Pilot and
Alvin Rodin (1996)
*4 Catherine Cooke, 前掲