男は吐息をつくと、何か言いたげな女性を制して語り始めた。
(僕はトオリ、彼女はユウラといいます。〝キナリ〟と呼ばれる、金緑の谷に住む一族ですが、掟を破ったために、今は追われる身です) 
「では、あなたを追っているのは同族の方なのね」
(はい。僕らの一族は人としての寿命が尽きると、樹木に変わります。せっかく助けていただきましたが、剣で刺された傷が深く、もう〝樹化〟が始まっています。僕がこの姿でいられるのも、そう長いことではないでしょう)
 さゆき様は痛ましげな表情で彼をみつめた。
「あなた方の世界を、わたしたちは異界と呼んでいるけれど、異界から来た者たちは皆、今のあなたのように肉体を持っていないわ。だから、その怪我がそれ以上ひどくなることはないと思うの。身体を失った分、精神の力が強くなるから、あなたが心から望めば、まだ人の姿のままでいられるかもしれない」
 それを聞いたユウラが、喜色を浮かべた。だが、その表情から目をそらすようにして、さゆき様は言葉を継いだ。
「ただ、あなた方は食事をとることができないから、こちらで生きていくためには、この世界に属する生物から、生気をわけてもらわねばならないの。そうでなければ、やがて命が尽きて、跡形もなく消え失せてしまうのよ。だけど、わたしたちには、異界の方に生気を与える方法がわからない。もしかして、あなたが何か知っていればと思ったのだけれど……」
(いいえ、何も聞いたことはありません。ただ、昔から〝はざま〟の〝門〟を越えてはいけないとだけは言われていました。それはこういうことだったのですね)
 トオリは顔をゆがめ、苦しげに言葉を絞り出した。
(それじゃあ、このままでは僕だけでなく、彼女も死ぬかもしれないのですか?)
「残念ながら、そういうことになるわ。だから、あなたもせめて〝はざま〟まで戻って治療を試みたほうが、生き残る確率は高くなるだろうし、彼女も生きていくためにはそうするしかないと思うの」
 トオリは目を閉じて、苦しげにうめいた。
(僕はなんて愚かなことをしたんだろう。君をつれてくるべきじゃなかったのに)
 ユウラは瞳にいっぱい涙をためて、激しく首を振った。
 ちょうどそこへ、くろがねが戻ってきて、淡々と告げた。
「〝はざま〟の〝門〟はまだ開いたままでした。周囲を探ってみましたが、生き物の気配はないようです」
 だが、それを聞いてもトオリは、戻るつもりはないとさゆき様に告げた。
(御迷惑かもしれませんが、どうか、このままここに置いていただけないでしょうか)
「ここで消えるのを待つと言うの?」
(樹化はいちど始まってしまったら、もう止めることはできません。〝はざま〟で樹化した後で、谷の人たちにみつかったら、僕は即座に斬り倒され、焼かれてしまうでしょう。それは僕らにとって最も残酷で、屈辱的な処刑の方法です。それぐらいならいっそ、ここで消えるほうがいいのです)
 そこで、言葉を切ると、トオリはユウラに向かって言った。
(だけど、君には谷に戻ってほしい。僕にむりやり連れ去られたのだと言えばいいんだ。きっと、皆、受け入れてくれるだろう)
(いいえ。何があっても、わたしはあなたといっしょにいます)
 ユウラは繊細な外見とはうらはらに、とても意志の強い人のようだ。彼女は涙に濡れた緑色の瞳を、さゆき様に向けた。
(どうか、お願いです。わたしたちをこのままここに置いてください)
 さゆき様は悲しげな顔をされたが、それでもすぐにうなずかれた。
「あなた方が望む限り、ここにいてもらって構わないわ。でも、できることなら生きてほしいの。もし、故郷に帰りたくなったら、いつでも言ってちょうだい。お手伝いするわ」
 戻るつもりなら、早いほうが良い。〝はざま〟の〝門〟がいつ閉じてしまうかわからないからだ。だが、さゆき様がそれをおっしゃらなかったのは、おそらく彼女がけっして戻らないだろうと考えておられたからだと思う。
「ほむら、お願いがあるの。ふたりについていてあげて。何かあったら、すぐ知らせてね」
「はい」
 私は少し離れた所で、ふたりの様子を見守った。主にトオリが話しているようで、それに対してユウラは微笑んだり、時折、激しく首を振ったりした。おそらく、彼は帰るよう説得したいのだろうが、彼女の意志は固いらしい。
 夜になると、トオリはひどく疲れた様子で、うとうととまどろみ始めた。だが、ユウラのほうは一睡もせず、片時も彼から目を離さなかった。自分が眠っている間に彼が消えてしまうのではないかと、恐れているようだった。
 翌朝、陽が昇ると、トオリはかすかに目を開けたが、すぐに閉じてしまった。ユウラは立ち上がり、朝日に向かって大きく伸びをしたが、体が大きく傾いだと思うと、芝生の上に倒れた。
 私は駆け寄ったが、互いに実体がないゆえに、手を差し伸べて、抱き起こしてやることもできない。ただ、声をかけるだけだ。
「大丈夫ですか?」
 幸いにも意識までは失っていなかったようで、彼女はゆっくりと身を起こした。
(気に掛けてくださってありがとう。わたしは平気ですから、どうかお屋敷に戻って下さい)
「あなたについているよう、主に言われていますので」
(それでは、あなたが疲れてしまう……)
 言いかけて彼女はふと、今気づいたというように私をまじまじとみつめた。
(足が地面に着いていないわ。もしかして、あなたも肉体を持たないの?)
「ええ、そうです。わたしは竜卵石という石に宿る玉妖です。人間の気を受けて生まれた存在ですが、ここではあなた方と同じように実体を持ちません」
(そう言えば、まだお名前も聞いていなかったわね)
「ほむらと申します」
 私をみつめるユウラの瞳は、とても静かで穏やかだった。どうしても彼女の行動が理解できない私は、ずっとそうしているつもりかと尋ねた。すると、ユウラは微笑みさえ浮かべてうなずいた。
(わたしたちはずっといっしょにいると誓ったわ。だから、ここにいるの)
「でも、彼は本当にそれを望んでいるのかしら」
 凛とした声に振り向くと、さゆき様が立っていらした。
「彼の具合はどう?」
(もうあまり話す気力も残っていないようです。ほとんど眠っていますわ)
「そう」
 さゆき様は手にしていた籠を、ユウラに差し出すようにして言った。
「ここに食べ物があるわ。さいわい〝はざま〟はまだ開いている。どうか、そこで食事をとってちょうだい。わたしとほむらもいっしょに行くから」
 だが、ユウラは黙って首を振った。
「あなたはまだ生きることができる。命を投げ出してまで共にいることを、本当に彼が望んでいると思う?」 
 さゆき様は籠を地面に置いて、彼女の顔をのぞきこんだ。
「わたしも不治の病にかかっているの。まもなくこの世を去ることになるでしょう」
 それを聞いて、私は驚いた。俊之様は療養すれば良くなるとおっしゃっていたのだ。〝この世を去る〟という言葉の意味はわかっていても、それが示す事実を受け入れることができず、私は混乱するばかりだった。おそらく私の戸惑いを感じていらしたに違いないが、意見をさしはさむことを許さぬように、さゆき様はさらに語気を強め、言葉を継いだ。
「だからこそ、あなたに言いたいの。わたしは愛する人たちには少しでも長く生きて、幸せになってほしいと思う。彼も同じ気持ちなのではないかしら」
(ええ、トオリもそう言っています。でも、わたしはここにいたい。消えることが怖くないと言えば嘘になります。けれど、わたしにとって最も恐ろしいのは、トオリと離れることなのです)
 ユウラはせきを切ったように話し始めた。
(キナリの一族はご覧のように人間の姿をしていますが、人としての寿命は三十年ほどです。それが尽きると、皆、樹木に変わっていくのです。そうなれば百年近く生きることができますが、わたしたちの最も強い望みは、その樹木として長い年月を〝眠りの地〟と呼ばれる聖地で過ごすことなのです)
 彼女は切なげな表情を浮かべ、傍らで眠るトオリの顔をみつめた。
(本当なら、わたしたちもそこで眠りにつきたかった。けれど、眠りの地に入れるのは、外敵から谷を守る戦士の役を務めた者とその配偶者だけと決まっています。ですから、その役目を得るために、男たちは二十歳になると、試合で剣の腕を競います。そこで勝ち抜いた者だけが戦士となることができるのです。でも、トオリはその試合に勝つことができませんでした。敗者は妻を娶(めと)ることも許されません。わたしたちが共に生きるという未来は、閉ざされてしまったのです。だから、わたしは彼にいっしょに谷から逃げ出しました)
 ユウラの目から、とめどなく涙があふれた。
(けれど、追っ手にみつかり、彼らが放った矢で、トオリは傷を負いました。それでも、どうしても捕まりたくなかった。もし谷に戻されたなら、わたしは他の誰かと結婚させられるでしょう。子供を産んで育て、〝眠りの地〟で第二の生を送る。そんな生活を幸せというなら、今のわたしには必要のないものです)
 決然と答えるユウラを見ながら、さゆき様はひどくつらそうな顔をされた。見ているこちらまで胸が痛むほどだ。
 彼女は気づいていただろうか。いつのまにか目覚めたトオリが、今の話を聞いていたことに。私が知らせるより早く、彼はユウラの名を呼んだ。振り向いた彼女を愛おしげにみつめ、微かに笑みを浮かべてから、トオリはつぶやくように言った。
(ユウラ、すまない。僕はもう消えるけれど、どうか君は生きてほしい)
 その途端、紺色のズボンを突き破り、彼の両足から何本もの白い突起が飛び出した。それらは生き物のように伸び、尖った先端から地中に潜っていく。トオリは目を閉じたまま、何かにひっぱられたようにゆらりと立ち上がった。すると、全身が茶色の固い幹に包まれていき、ついには顔さえも見えなくなった。それと同時にどんどん丈が伸びていき、十尺を超える頃には、もはや人間であった痕跡など、どこにも残ってはいなかった。目の前にあるのは、両腕でしっかりと抱えられるほど細い幹の、明るい緑色の葉を枝いっぱいに茂らせた、一本の樹木でしかない。
 私には何が起きたのか、まったく理解できなかった。ユウラは立ち上がったものの、すぐに崩れ落ちるように地面にひざをつき、茶色の幹を呆然とみつめている。
 だが、トオリの変化はとどまることがなかった。
 樹木の全体が大きく揺れたと思うと、枝がさらに四方に長く伸び始めた。緑色の葉の間から、いっせいに開花した白い小さな花が次々と顔をのぞかせる。群れて咲くたくさんの花々は、トオリの木を覆う霞のようだ。
 だが、その幻想的な美しさもほんのつかのまだった。白い小花たちは満開になったところですぐに散り始め、息をのんで見守る私たちの上に降りそそいだ。
 ユウラは丸い花びらをそっと手のひらに受けた。だが、花弁はその手の上で、温もりで溶ける雪のようにはかなく消えてしまった。それでも、彼女はひるむことなく顔をあげ、花を降らせ続けるトオリの木をずっとみつめていた。
(キナリの中で、花を咲かせる者は〝有(ゆう)花(か)者(しゃ)〟と呼ばれます。樹化したら、年に一度、美しい花を咲かせる。それが〝有花者〟の誇りです。感受性が強く、体も心も繊細で、戦いには向かない。最初からわかっていました、トオリは戦士にはなれないと。それでも、わたしは彼を選んだ。そして、彼もその思いに応えてくれました。だから、これでいいのです、わたしたちは)
 まるで自分に言い聞かせるかのように、強い口調でユウラは言葉を発した。すると、それに呼応するように、トオリの木が再び枝を大きく揺らした。そして、すべての花を散らせた後で、跡形もなく消え失せた。あまりにも突然で、静かな最期だった。
(トオリ)
 ユウラは叫ぶように彼の名を呼ぶと、地面に突っ伏し、声をあげて泣いた。
 私とくろがねだけでなく、さゆき様もまたかける言葉がないようで、ただその場に立ち尽くしていた。
 やがてユウラはゆっくりと身を起こした。だが、周囲を見まわし、あらためてトオリがいないことを確認すると、放心したようにその場に座り込んだまま、身動きひとつしない。
 彼女の悲しみを思い、誰もが沈黙を守る中、まっさきに異変に気づいたのはくろがねだった。
「来たぞ」
 耳元でささやかれ、はっとして振り向くと、黒い鎧を身に着けた兵士たちが、背後から近づいていた。だが、やってきたのは三人ほどで、戦うつもりはないらしく、全員が剣を鞘に収めていた。
 彼らを目にした途端、私の中に自分でも驚くほどの、強い怒りの感情が生まれた。この美しく切ない別れの時を、彼らが乱したことが許せなかったのだ。そして、その怒りは瞬く間に炎のように熱く燃え上がった。
「トオリは死んだ。まだ何か用があるのか?」
 このような言い方を、今まで自分に許したことがなかった。だが、おさえきれないほどの強い感情を表現するには、これしかないと思った。
(我々は掟を破った者を許さない。その女を返してもらおう)
 兜をかぶったままなので、相手の表情をうかがい知ることはできない。だが、もうそんなことはどうでも良かった。
「ユウラも殺すつもりか?」
(そんなことはしない。ユウラはトオリにそそのかされただけだ。我々は危険を冒しても、ここまで彼女を迎えに来たのだ。その思いをくんでほしい)
 だが、私が答えるよりも早く、ユウラが叫んだ。
(違うわ。わたしは自分の意志でトオリを選んだのよ。あなた方もそれを知っているはずなのに、すべて彼のせいにするのね。そうまでしてわたしをつれて行きたいのは、戦士にあてがう女性の数が足りないからでしょう)
(わかっているなら、素直に従うが良い。我々の一族には圧倒的に女が少ない。戻って子供を産むのだ。谷の存続に関わる事態なのだ。己の義務を果たせ)
(お断りよ)
 ユウラの返答はこれ以上ないほど冷ややかだった。
(わたしが子供を産まなかったぐらいで存続が危ういというのなら、いっそキナリなど滅んでしまえばいい)
(なんだと)
 男たちはいきり立ち、腰の剣に手をかける。私はすかさず彼らの足元に、光の矢を打ち込んだ。
「彼女は嫌だと言っている。我が主の庭から早々に立ち去れ」
 それでも剣を抜いて向かってこようとする彼らに、今度は容赦なく矢を打ち込んだ。妖力を集めて作った矢は、鎧さえもやすやすと貫く。攻撃される前に相手を傷つけたことなど、これまでいちどもなかった。だが、私はもうこれ以上、彼らにここにいてもらいたくなかった。
 肩を射られ、ようやく男たちは背中を向けて我先にと逃げ出した。私は執拗に後を追い、手のひらから矢を放ち続けた。彼らが〝はざま〟に逃げ込んでも、波立つ感情は収まらず、さらに追跡しようとしたが、くろがねが〝門〟の前に立ちはだかった。
「そこまでにしておけ。さゆき様がお呼びだ」
 我に返った私は、彼についてさゆき様の許に戻った。
「止める間がなかったわ」
 さゆき様はため息をつくと、じっと私の目をのぞきこまれた。
「あなたがこれほど激情家だったとは思いもしなかった。炎の名前をつけたせいなのかしら。でも、できるなら、その激しさはしばらく眠らせておいてほしいわ。次の主になる人が、あなたのその強い感情を受け止められないかもしれないから」
「私の主はさゆき様です。私の行動がお気にさわったのなら改めます」
「そうじゃないのよ。わたしの前では今のままで構わないわ。けれど、わたしも永久にあなたの主でいられるわけじゃない。もしも、いつか他の誰かの許に行くようなことになったら、どうかその方のいいつけを守ってね」
 そのようなことはありえないと思った。だが、さゆき様があまりにも心配そうな顔をなさるので、私は素直にお約束しますと答えた。
 さゆき様はほっとしたようにうなずかれると、ユウラに話しかけた。
「彼らを追い払ってしまったけれど、本当にこれで良かったの?」
 ユウラの頬にはまだ涙の跡が残っていたが、潤んだ緑色の瞳は何の迷いもないように輝いていた。
(ありがとうございます。わたしの望みをかなえてくださって)
 だが、その後、私たちがどんなに話しかけても、ユウラは何も答えず、ただぼんやりと虚空をみつめるばかりだった。時折、視線が左右に流れるように動く。もうそこにはいないトオリの幻を追っているかのようだ。
「このまま死なせたくないのだけれど……」
 さゆき様はそうおっしゃったが、彼女の決意を翻すことは誰にもできなかった。
 ユウラがはかなくなったのは、翌朝のことだった。
 夜明けとともに庭に出ていらしたさゆき様、それにくろがねと私が見守る中、彼女は感謝の言葉と、透きとおるように美しい微笑みを残して消えた。それがとても幸せそうに見えたので、私はたいして悲しいとは感じなかった。本人の言葉通り、これで良かったのかもしれないとさえ思った。
 だが、さゆき様は涙がこぼれ落ちそうになるのを必死にこらえ、震える声で私たちにおっしゃった。
「もし、わたしなら、けっしてこんな風に自ら死を選んだりはしない。そんなことをしたら、先に逝った者がどれほどつらいかわかるからよ。愛する人が自分のせいで死を選ぶとしたら、わたしは自らの存在を呪い続けるでしょう。ふたりとも、どうか覚えていてちょうだい。そして、わたしがいなくなったら、俊之さんに伝えてほしいの。わたしは皆が生き続けて、幸せになってくれることを望んでいると」
 そう、この時の私は何もわかっていなかったのだ。さゆき様の言葉の意味も、〝死〟というものが残された者にどんな思いをもたらすのかも。