「日常の謎」あるいは「お仕事ミステリ」は、作家にとって厄介なジャンルではないか、と思っている。
この二つのジャンルについて簡単に整理しておこう。「日常の謎」とは、閉鎖空間での殺人といった犯罪の謎ではなく、日常の身近な所で発生する謎を解くことを主眼としたミステリのサブジャンルだ。読者が暮らす生活空間と同じ視点に立ちながら、謎と論理のアクロバットを提供する点が「日常の謎」小説の魅力である。謎解きに社会システムの矛盾や問題を盛り込んだ、いわゆる「社会派推理小説」とは別の方法で、読者にとってのリアルな物語を構築し、謎解きの楽しさを広めたことが「日常の謎」ジャンルの功績だろう。
さらに、その「日常の謎」にキャラクター小説の要素や情報小説の要素を加えたのが、犯罪が起きない(あるいは起きても軽微なものの)タイプの「お仕事ミステリ」だと考えている。日常生活を舞台にしながら、職業における専門的な知識や、それに根差す探偵役の独自な視点をフックとし、読者を惹きつける「お仕事ミステリ」は、まさに「日常の謎」の延長線上にあるジャンルだと捉えるべきだろう。
こうした「日常の謎」「お仕事ミステリ」は現在では一大ジャンルを形成し、そのフォーマットに則った多くのミステリシリーズが世に出ている状況である。しかし、謎解きを身近なものにした「日常の謎」「お仕事ミステリ」は、諸刃の剣でもある。というのも、読者に近い日常を舞台にするということは、その作家が日常生活においてどのような倫理観や価値観を持ち、現実世界を眺めているのかが如実に表れるということでもある。万が一、そこに書かれている価値観がアップデートされたものでなければ、それは現代を生きる読者にとって、リアルな謎の物語ではなくなってしまう恐れがある。「日常の謎」や「お仕事ミステリ」は実のところ「社会派推理小説」以上に、社会の規範や倫理の変化に対する鋭敏な感覚が求められるジャンルではないだろうか。
なぜ、このようなジャンル論を述べたのかといえば、〈ビストロ・パ・マル〉シリーズの第三作品集である本書『マカロンはマカロン』こそ、価値観の変化に対し作家はいかなるアンサーを出すべきか、という手本を示した「日常の謎」小説にして「お仕事ミステリ」であるからだ。
〈ビストロ・パ・マル〉シリーズをご存じない方のために説明しておこう。本シリーズはフランス料理店ビストロ・パ・マルを舞台にした連作小説である。ビストロ・パ・マルは下町の商店街にある小さな店で、従業員はわずか四人。ギャルソンの「ぼく」こと高築智行、スーシェフの志村洋二、ソムリエの金子ゆき、そして店長にして料理長の三舟忍である。三舟は長めの髪を後ろで結び、無精髭を生やした素浪人を思わせる無口な男だ。しかし料理の腕は確かであり、ビストロ・パ・マルで振舞う家庭料理風の気取らないフレンチの数々は、多くの客の舌を満足させている。そして三舟には料理のほかにもう一つ才能があった。それは名探偵の如き観察力で、店内で起こる小さな謎を解き明かしてしまうことだった。
〈ビストロ・パ・マル〉シリーズで描かれる謎は、本当に些細なものが多い。例えば「青い果実のタルト」では、一日に二人の客から「ブルーベリーのタルトはありませんか?」と聞かれたビストロ・パ・マルの面々が悩む、という話である。店の看板メニューでもないのに何故ブルーベリータルトを欲しがる、と思っているところに三舟が登場し、料理人ならではの視点から謎を解いてみせるのである。
また、本シリーズでは解くべき謎がぼんやりしたまま進行し、三舟の指摘によって初めて真の物語が浮上する、といった形式のエピソードも多い。「共犯のピエ・ド・コション」が代表例で、ここでは店の常連客の再婚を軸に、その子供と再婚相手との交流話が綴られていく。この話のどこに謎があるのか、と読者は訝しむだろうが、実は表面から窺い知ることの出来なかったドラマが隠されていたことが、三舟の推理で判明する。探偵役によって行われる物語の再解釈がサプライズを生み出す、という「日常の謎」の真髄がここにはあるのだ。
その再解釈の取っ掛かりとなるのが、三舟の持つ料理人の眼だ。「お仕事ミステリ」においては、職業人としての知識や技能が事件の謎を解く鍵となる。〈ビストロ・パ・マル〉シリーズが秀でているのは、その知識や技能に関する描写を簡潔に留めながらも、三舟という探偵役にしか成すことの出来ない推理をしっかりと書き込んでいる点だ。ほんの些細な指摘が人生を浮かび上がらせる「コウノトリが運ぶもの」が良い例だろう。もし読者の中に「お仕事ミステリ」の創作に挑もうと考えている方がいたら、ぜひとも参考にすることをすすめる。三十頁に満たない短い紙数の中で、必要最低限の情報を盛り込んで推理とキャラクターを膨らませる手際を見習って欲しい。
〈ビストロ・パ・マル〉シリーズでは、登場人物の行動が意図せぬ形で他人に影響を及ぼしてしまうことをたびたび描いている。他人同士のすれ違いやずれをテーマにした「日常の謎」ならば他にも作例はあるではないか、と思う人はいるだろう。しかし、近藤作品の場合、単にすれ違いやずれを描くだけに留まっていない。その向こうに存在する、社会の慣習や規範が作り上げた無自覚なバイアスを、近藤はミステリの形を借りて抉り出してみせるのだ。
この点をもう少し掘り下げてみたい。〈ビストロ・パ・マル〉シリーズで描かれるような「無自覚なバイアスが他者に影響を及ぼす」例を、近年は間近に見て取れることが多い。例えば、マスメディアやSNS上における広告やオピニオンが、差別的な表現を孕んで炎上した時のことを思い浮かべよう。この時、表現を発信した側が謝罪を行う際に、「差別的な意図はなかった」「傷つけるつもりはなかった」という発言をして、事態が鎮静化するどころか更に炎上するパターンを見かける。差別的な発言を誘発しかねない価値観が内在していることの不味さを指摘されているのに、表現する側は「意図的な悪意の有無」が問題だと捉えてしまう。そこにある埋まらない溝とよく似た構図を、近藤は〈ビストロ・パ・マル〉シリーズで描いているのだ。
ひとつ断っておきたいのは、別に近藤は、無自覚な差別意識が世間で指摘されるようになったから作品に取り込んだ、というわけではないことだ。〈ビストロ・パ・マル〉シリーズの最初の一編「タルト・タタンの夢」が雑誌「ミステリーズ!」に掲載されたのは二〇〇三年のこと。つまり、SNS社会によって「無自覚なバイアス」が顕在化される前から、近藤はこの問題に対して鋭敏であり、〈ビストロ・パ・マル〉シリーズやその他の作品に織り込んでいた、という認識が正しいだろう。
そして、現時点における最新作品集『マカロンはマカロン』では、「無自覚なバイアス」を炙り出す地点から、更にその先を見据えた短編が収録されている。それが「追憶のブーダン・ノワール」と表題作である「マカロンはマカロン」の二編である。この二つの短編は単に問題を顕在化させるだけではなく、その問題をどのように受け止めるべきなのか、という一つの回答を提示する内容になっている。特に後者は、探偵役の三舟の台詞から作品タイトルに至るまで、これまで近藤が積み上げた思いが隅々まで行き届いた集大成である。そして、同時代に生きる人々への道標のような一編でもあるのだ。
さて、近藤は今後、どのように〈ビストロ・パ・マル〉シリーズを紡いでいくのだろうか。それに関して、自身のツイッターアカウントで次のような発言をしていた。
「仕事終わりました。パ・マルがコロナ禍でテイクアウトをはじめる話を書いたよ」(2020.4.29)
「今連載してる他の話は、過去のこの時代と明言してるものが多いので、今の状況を考えなくてもいいけど、ちょっと今、何も起きてない状態のフランス料理店を書く気にはなれなかった」(2020.4.29)
周知の通り、新型コロナウイルスの感染拡大を受けて日本政府は二〇二〇年四月七日に緊急事態宣言を発令した。感染防止のための「外出自粛要請」(何度見ても変な言葉だ)や三密対策が叫ばれる中、各産業の経済活動は大打撃を受け、飲食店も営業中止や閉店を余儀なくされている。近藤はこのようなコロナ禍の状況を、〈ビストロ・パ・マル〉シリーズの新作に反映させたと発言しているのだ。この解説原稿を書いている二〇二〇年五月末時点では新作短編は未発表である。しかし、それはシリーズ史上、最も読者のリアルに寄り添った物語になる予感がする。
新型コロナウイルスがもたらしたものは、生活様式の変化だけではない。それこそ〈ビストロ・パ・マル〉シリーズが描いてきた「無自覚なバイアス」が、今度は社会の分断をはっきりと生み出し、その分断が誰にも等しく影響を及ぼす恐れがある時代になりつつある。その時にミステリ作家、特に「日常の謎」や「お仕事ミステリ」に求められるのは、生活のすぐ隣に起きてしまう分断を如何に描くべきか、ということではないだろうか。というよりも、読者にとってのリアルな舞台を前提とするミステリを描くためには、避けて通れない課題だろう。そして、社会の規範や価値観に対する鋭い目を持った作家、近藤史恵ならば、きっとその課題を華麗にクリアしてみせるに違いない。
◆若林踏(わかばやし・ふみ)
1986年千葉県に生まれる。ミステリ小説の書評などを中心に活動するライター。『週刊新潮』文庫書評欄・『ミステリマガジン』海外書評などを担当。杉江松恋氏とのYouTubeの国内ミステリ書評番組「ミステリちゃん」に出演中。
◆若林踏(わかばやし・ふみ)
1986年千葉県に生まれる。ミステリ小説の書評などを中心に活動するライター。『週刊新潮』文庫書評欄・『ミステリマガジン』海外書評などを担当。杉江松恋氏とのYouTubeの国内ミステリ書評番組「ミステリちゃん」に出演中。