*
目を開き、自分の世界に戻ってきたことを確かめると、亮輔はすぐに起き上り、雪白の枕元についていた藤春に告げた。
「申し訳ないが、あやめを浄化させてもらった」
覚悟していたのか、藤春はただ無言で頭を下げただけだった。だが、雪白が身を起こし、紫紺の竜卵石を手に取って、青ざめた顔で尋ねた。
「では、ここにはもう、あやめはいないのですね」
「そうです」
「わたくしがもっとしっかりしていれば、このようなことにはならなかったでしょうに。かわいそうなことをしました」
つぶやくように言った後で、彼女ははっとしたように亮輔を見た。
「申し訳ございません、あなたのお仕事のことを言ったのではないのです。わたくしの心の弱さが招いたことと思ったものですから」
「べつに何も気にしていません。それに、今回のことはあなたのせいではありませんよ。おそらく、あなたに代わって梅花天になりたいと、強く願った者がいたのです。その思いを、あやめが受け取ってしまったのでしょう」
あやめの〝郷〟で見た遊女の顔を思い浮かべながら亮輔が言うと、藤春がすぐに思い当たったように話し始めた。
「瑞月(みづき)という遊女がおりました。舞の上手な子で、生まれたばかりのあやめを預けておりましたが、死病にとりつかれ、ふた月ほど前に亡くなったのです。まだ十九でした。おそらく、その無念の思いがあやめに伝わったのかもしれません。わたしはそのことに気づきさえしなかった。悪いのはわたしだ。だから、太夫が気に病むことはない。どうか、一日も早く元気になっておくれ」
だが、雪白は肩を落としてうつむいたままだ。
「亮」
かぐやが横合いからそっと亮輔に声をかけてきた。
「雪白様をわたしの〝郷〟におつれしてもよろしいでしょうか? あやめの〝郷〟でおつらい思いをされたでしょうから、少しでもお慰めしたいのです。もちろん、お疲れにならないよう、早めに帰ってまいります」
「俺もそれが良いと思う」
亮輔はおそらくかぐやがそう言うだろうと、予想していた。同じ玉妖が犯した過ちに対するつぐないを、少しでも自分ができればと考えているのだろう。亮輔が問うように藤春に目をやると、彼も身を乗り出すようにして言った。
「太夫、ぜひそうさせてもらいなさい」
皆の了承を得たことで安心したのか、雪白も顔をあげて小さくうなずいた。かぐやは彼女の手を取り、〝郷〟へと導いた。
*
かぐやの〝郷〟は夜の世界だった。濃藍の空に、冴え冴えとした満月と、数多(あまた)の星々がきらめいている。月明かりのもとで、大地が緑におおわれているのがわかる。
はるか先には、空に届くかと思うほどの切り立った崖があった。その頂上から大量の水が流れ落ち、激しい落差のある滝を作り上げていた。しかし、実際に見えるよりも遠くにあるのか、水音はいっさい聞こえてこない。ただ、滝のふもとから流れてきた小川の、涼やかなせせらぎの音だけが周囲に響いている。
かぐやは夜空と同じ濃い藍色の振袖に、銀色の帯を結んでいたが、その姿は降りそそぐ月光によって形作られたように輝かしく、神秘的だった。どこからともなく飛んできた蛍が、着物の袖や裾にまとわりついた。夜の闇に浮かび上がるような、その淡い金色の光が、さらに幻想的な雰囲気を生み出している。
「とても美しいわ」
雪白は思わず感嘆の声を上げた。
「ええ。蛍の灯す明かりは優しい色合いで、とてもきれいです」
「違うわ。わたくしが言っているのはあなたのことよ」
「ありがとうございます」
かぐやは微笑んで、優雅に一礼した。
「伊上様もよくこちらにいらっしゃるの?」
「いいえ。亮はあまり興味がないようです」
「まあ、もったいないこと」
雪白はそこでふと気づいたというように、かぐやにたずねた。
「そう言えば、あなたは伊上様のことを〝亮〟と呼んでいるのね。彼はあなたの主ではないの?」
「わたしは主だと思っているのですが、あの方が対等の立場でいたいから、そう呼んでほしいとおっしゃるのです」
「あなたの御主人は良い方ね。他人にかしずかれて、増長してしまう人ばかりを見てきたから、そうでない方もいるのだということを忘れていたわ」
雪白はため息をつくと、少しだけ悲しそうな顔をした。
「あやめの〝郷〟で言っていたわね、どんな時でも伊上様を守ると。それがあなたの覚悟なの? いつも穏やかでいながら、凛としていて動じることがない。あなたが迷わないのは、心を決めているからなのかしら」
「覚悟と言って良いのでしょうか?」
かぐやは小首をかしげた。
「大切な方を失いたくない、その気持ちだけですから。ただ、あの方を守るというのは、わたし自身が決めたことです。その決意を貫き通すことが、わたしの誇りとなるのではないかと、そう思っているのです」
「誇り……」
雪白ははるか遠くをみつめるような目をした。
「そのようなこと、とうに考えなくなっていたわ」
「疲れていらっしゃるのでしょう」
かぐやの口調は雪白をいたわるように、穏やかで優しかった。
「どうか、ここでは気兼ねなくおくつろぎください。他には誰もいませんから。もしお望みなら、わたしも消えます」
「いいえ、あなたがいっしょのほうが楽しいもの。もっと、いろいろと見せてほしいわ」
「では、どうぞ、こちらへ」
かぐやが下流に向かって歩き出すと、蛍はいっせいに離れ、小川の上空を飛び交う。雪白はその光景をじっくりと眺めてから、かぐやの後を追った。
やがて前方に小高い丘が見えた。その頂上に桜の巨木が立っていたが、花は今まさに満開で、樹木全体が薄桃色の霞をまとっているようだった。
雪白とかぐやが木の下に立つと、風が吹いて、はらはらと桜が散った。すると、風に乗って漂う花びらを追うように、かぐやが長い袖をひるがえして舞い始めた。
とうに風が止んでも、桜の花はさらに散り続け、かぐやの舞もどんどん激しさを増していった。銀色の髪がきらきらと光り、ひと房の金色がさらなる彩りを添える。降りしきる桜の中で、ほとんど黒に近い藍色の着物がくっきりと映え、まるで一幅の絵のように美しく、幽玄だった。
雪白はただ、その光景に見惚れた。技術など何もない、ただ散る花びらとともに舞うだけのかぐやがとても楽しげに見えて、目が離せなかったのだ。
やがて、かぐやは足を止め、少し離れた所にいた雪白のもとへ歩み寄った。
「ご一緒しましょう」
雪白は紅色の打掛を肩から落とし、地に落ちなんとする花びらを片手で受け止めた。
「桜花は枝にある時はあざやかで美しく、散る時ははかなげで繊細だわ。そんな風に舞えたら、どんなに良いでしょう」
そうつぶやくと、雪白は花びらの動きを追って、夢中で体を動かした。どれくらいの間、舞い続けたことだろう。ほんのひと時にも、ずっと長い時間が過ぎたようでもあった。
その時を区切るように 時を止めるように その時を止めるように、かぐやが右腕を高く上げた。すると、再び突風が吹き、色を失った白い花びらを巻き上げた。それらが風に押し付けられるようにして巨樹の幹にはりつくと、鏡となって周囲の景色を映し出した。
落花とともに舞う己の姿を見て、雪白はその場に立ち尽くした。それでも、鏡の中の彼女は舞うのをやめなかった。桜を恋うような潤んだ目をして、口元を微かにほころばせ、うっすらと頬を染めて舞い続けている。
「こんなにうれしそうな顔をしていたのね、わたくしは」
「ええ」
「以前、わたくしの舞を見ていると楽しめない、緊張してしまうからと、お客様に言われたことがあったの。それからずっと悩んでいたわ。お客様を楽しませるのがわたくしたちの務めならば、玉妖たちのように舞うべきなのかもしれないと。そんな迷いのせいか、手足が思うように動かず、お師匠様からは厳しいお叱りを受け、どうして良いのかわからなくなっていたのよ」
雪白の声が今にも泣き出しそうに震えた。だが、ほどなくして傍らにいるかぐやを振り返った時、彼女の表情は別人のように引き締まっていた。
「ありがとう、舞う喜びを思い出させてもらいました。でも、これは違うわ。わたくしが見せたいものではないの」
そう言うと、雪白は首筋を伸ばし、両肩を下げた。まっすぐ水平に上げた手を、空間を斬るように鋭く回転させると、雪白は静かに舞い始めた。笛や琴の伴奏もない。ただ、自身の内に宿る律動にしたがって、拍子を取って踊るだけだ。それなのに、まるで楽の音に合わせて舞っているように雅やかだった。
どこにも力が入っていないような、自然でなめらかな動き。だが、それでいて指先のひとつにまで、みじんの揺るぎもない。漂う花びらを追っている時の、軽やかではあるが、どこか頼りない動きはなりをひそめ、動作のすべてに彼女の意志が込められているような力強さがある。ゆったりとした旋律を奏でるような優雅さと華やかさ、さらに凛とした気品さえも兼ね備えた、見事な舞だった。満開の桜が咲いて散る時のような華々しさだけでなく、寒中に屹立する梅の木の静かなたたずまいまで表現されているようだ。
「なんと美しい舞なのでしょう。心が震えてしまいます」
舞い終えた雪白に、かぐやが惜しみない拍手を贈った。
「書画であれ、音楽であれ、素晴らしいと言われる作品に出会いますと、はっと胸をつかれ、身の内が引き締まるような気がいたします。対峙する者にも覚悟を求めるような、そんな緊張感を覚えるのです。そのようなものが芸術と呼ばれるのだと、わたしはそう理解しています。どうか、ご自身でお確かめになってください。あなたがどれほどすばらしい美を生み出しているのかを」
桜の幹の鏡面に、たった今、雪白が披露した舞が映し出された。彼女はそれをくいいるようにみつめている。その横顔に、かぐやは静かに語りかけた。
「おわかりでしょう? あなたの舞は繊細で美しく、それでいて力に満ちあふれています。ご自身が理想とされる美を、あなたは自ら体現していらっしゃる。わたしは思うのです、それは誰にも真似のできない、唯一無二のものなのだと」
驚いたような顔で、じっとかぐやをみつめた後で、雪白はうれしそうに破顔した。それはわずかな翳りもない、晴れやかな笑みだった。
「そこまでほめてもらえて光栄だけれど、わたくしはまだまだ未熟だということがわかったわ。でも、ここで終わりじゃない。きっと、もっとうまくなれると思うの」
雪白は微笑を浮かべたまま、かぐやに向かって手を差し伸べた。
「わたくしにも譲れないものがあったのだわ。気づかせてくれてありがとう。早く戻って、また稽古を始めなければ」
「はい」
うなずいて、かぐやがその手を取った途端、世界が反転した。
*
かぐやの提案に同意はしたものの、〝郷〟に行ったところでどうにかなるものかと、亮輔は正直、半信半疑だった。だが、戻ってすぐに起き上った雪白を見て、その変化に驚かされた。頬に血の気がさして、瞳にも強い光が宿っている。
「ご心配をおかけしました。わたくし、もう大丈夫ですわ」
藤春に向かい、深々と頭を下げた後で、彼女は亮輔をじっとみつめながら言った。
「野暮な客のためにいちいち心を揺らすなという、あなたのお言葉が身にしみました。わたくしは梅花天であることの誇りを忘れていたように思います。それを守るためにも、また日々精進してまいります。この度は本当にありがとうございました」
雪白だけでなく、藤春にも涙ながらに礼を言われ、亮輔はたまらなく居心地が悪くなり、早々にその場を辞去した。
帰る道すがら、亮輔は以前からかぐやに言おうと思っていたことを思い出した。彼女はすでに自分の石に戻っていたが、主である亮輔が名前を呼べば、姿を現わさなくても話ができる。
「いいか、かぐや。例え〝郷〟の中で俺がまずいことになっても、代わって玉妖を浄化しようなんて考えるな」
「それはなぜでしょう?」
すぐに、不思議そうなかぐやの声が聞こえてきた。
「おまえに嫌な思いをさせたくないからだよ。くれぐれも無茶なことはしないでくれ」
「それでしたら、あなたがご自身の命を、他人のものと同じか、それ以上に大切にしてくださるとうれしいのですが。そうすれば、わたしが無茶をすることもなくなるでしょう」
「……俺を脅しているのか?」
「いいえ、お願いしているのです」
今まで自分の命を粗末にした覚えはないが、たいして価値のあるものだと思ったこともない。誰かを助けて死ぬのなら、それはそれで良いのではないか。かつて、愛した人を失ってから、そう考えるようにもなっている。かぐやの指摘は、そのような思いを察してのことだろう。心配してもらうのはありがたいが、申し訳ないような気分にもなる。
「わかった。気をつけよう」
亮輔は素直にうなずいた。
数日の後に、亮輔は要から、雪白のたっての願いで、あやめの竜卵石を彼女に預けたと聞かされた。
「再び玉妖が生まれたら、舞を教えてやりたいそうですよ」
「そうか」
それを聞いて、亮輔はなんとなく救われる思いがした。
そして、雪白太夫が四年連続で梅花天に選ばれるという、神崎では初の快挙を成し遂げたという報せがもたらされたのは、それから、さらに数か月後のことだった。
<了>