鏡月の間は階下にあり、中庭に面していた。障子は開け放たれ、時折、涼しい風が吹き抜けていく。
 部屋の奥に金屏風を立て、薄紅色の布を敷いた舞台が設えられていた。扇を手にした若い女性が三人、琴の音に合わせて、壇上で舞を披露している。顔立ちはあまり似ていないが、皆そろいの桃色の着物を着て、結い上げた髪の形も、使っている髪飾りもまったく同じ物にしていた。
「向かって右からさつき、あやめ、もみじと申します」
 藤春は邪魔をしないようにとの気遣いからか、小声で紹介すると、そっと部屋の中に入った。ふたりの遊女が舞台の前に座り、稽古を見てやっていたが、藤春と雪白に気づくと、席を譲って脇に控えた。
「どうぞ」
 藤春は雪白とかぐやを中央に座らせ、自分はその後ろに回った。亮輔も声を掛けられたが辞退し、入り口の近くで胡坐(あぐら)を組んだ。成り行きでついてきただけで、舞にはたいして興味がなかったからだ。
 舞い手は三人とも黒い髪と目をしていて、少し離れた所から見れば、人間と変わらないように思える。玉妖というのはたいてい髪や目、あるいは衣装などに、自分の石の色を入れたがるものだが、それをしていないのは主である藤春の意向なのだろう。おそらく、お客に奇異の感を抱かせないために違いない。
 玉妖たちの舞はとても軽やかだった。やはり実体をもたないせいか儚(はかな)げで、風に揺れる花のようだ。風情があるとも言えるが、亮輔の目にはどこか物足りなく映った。
 彼らは実体がないゆえに、地に足をつけているように見えても、実際はわずかに宙に浮いている。だから、移動する時は歩くのではなく、すべるような動きになる。舞であれば、そのことが有利に働くかとも思ったのだが、床を踏みしめていないぶん緩急に欠け、ふわふわと漂うような頼りなさを感じてしまう。
(まあ、座敷を盛り上げる役目というなら、これくらいでちょうどいいんだろう。華やかではあるしな)
 だが、そう思いながら、琴の調べに合わせて舞い続ける彼女らを眺めるうちに、しだいに違和感を覚えるようになった。
 中央で舞う玉妖が、どこか他のふたりとは異なるような気がしたからだ。小さな顔にふつりあいなほど目が大きく、三人の中ではいちばん幼く見える玉妖だが、同じ動きをしていても、彼女だけがずっと力強く見えた。すっと伸ばした腕がまるで空を斬るように鋭く旋回する。曲が進むにつれ、その印象はますます強くなった。
 白い頬が紅潮し、瞳が生き生きと輝き出す。彼女だけがその場で浮かび上がるように、くっきりとあざやかに見え、他のふたりの存在を忘れさせてしまうほどだ。
 だが、亮輔が抱いたのは感嘆の念ではなく、何か異質なものを見た時に感じる警戒心だった。
(おかしい)
 どこがと問われても答えることはできない。確かに胸に残る、見事な舞だ。だが鬼気迫るものを感じて、どうにも胸が苦しくなる。
 亮輔はそっとかぐやの傍らに移動して、小声でたずねた。
「真ん中で舞っている娘(こ)は、他のふたりとどこか違わないか?」
「そうですね」
 かぐやは彼女たちをみつめたまま、軽くうなずいた。
「何かわかりませんが、とても強い感情を抱いているように思えます。それに囚われることがなければ良いのですが」
「そうか……」
(どうにも気になる。藤春さんに頼んで、後で話をさせてもらおう)
 その思った時、ふと、かぐやの隣にいる雪白太夫が、ひどくはりつめた表情を浮かべているのに気づいた。うかつに大丈夫かとも聞けないほど、全身が異様な緊張感に包まれている。
 時折、苦しげに眉を寄せるも、彼女は青白い面をあげ、唇をきっと引き結んで、食い入るように玉妖たちの姿をみつめている。それは舞の名手が、まだ未熟な弟子を見守るといった鷹揚な態度ではなく、もっと切羽詰まったもののように感じられた。
(なぜ、太夫がこんなにもつらそうな顔をするのだろう?)
 亮輔は疑問に思いながら、そっと彼女を観察し続けた。
 琴の最後の一音が、じゅうぶんすぎるほどの余韻を響かせて消えていく。三人の玉妖が扇をたたみ、壇上で正座をして頭を下げると、ようやく雪白の全身にみなぎっていた緊張感が消えた。
「すばらしい」
 藤春が拍手をしながら、満足そうに何度もうなずいた。
「特にあやめが良いな」
 藤春の賛辞に応えるように、中央の玉妖が再び軽く頭を下げた。
「いかがかしら」
 雪白は微笑を浮かべながら、かぐやにたずねた。先ほどに比べ、表情はずいぶんと緩んでいるものの、まるで疲れ切ってしまったとでもいうように、ひどくけだるげな様子だ。
「とても可愛らしいと思いますわ」
「あら」
 雪白は興味をそそられたように、かぐやに向き直った。
「面白いわ。ほとんどの方はきれいだとおっしゃるけれど、あなたは少し違うようね」
「美しいという言葉は、何かふさわしくないような気がしたものですから」
「おや、それは聞き捨てならない。どこが不足なのでしょうか?」
 藤春が横合いから口をはさんだ。穏やかな口調ではあったが、自慢の玉妖たちをほめてもらえなかったことに不満を感じているようだ。
「申し訳ありません。わたしの言い方が良くなかったようです」
 かぐやはあくまでもにこやかに、軽く頭を下げた。
「見せていただいた舞はとても素敵でした。ただ、やはり玉妖ですから、人が舞うのとはまた違うと思ったのです」 
 藤春が何か言おうとしたが、それをさえぎるように雪白がおもむろに立ち上がった。
「わたくしの部屋へ戻りましょう。お茶を一服、さしあげたいわ」
 ここには舞い手の玉妖だけでなく、他の遊女たちもいる。話の続きはそちらで、ということなのだろう。
 すると、ふいにあやめが立ち上がり、舞台から下りてきた。
 亮輔は軽い驚きを持って、彼女の行動を見守った。心のどこかで、水月楼の玉妖は藤春の言いつけがなくては、自ら動いたりはしないと思っていたのだ。その場にいる他の者も皆、同じ思いを抱いたらしく、何かはっとしたような表情で、あやめを見ている。彼女はかぐやの前に立つと、険しい口調でたずねた。
「人と違うとはどういうことでしょうか?」
「重みがないのですよ」
 かぐやはあくまでも穏やかに、だが、毅然とした態度で答えた。
「玉妖には実体がないのですから、当然のことでしょう。ですが、それだけではありません。人はおそらく舞う時に、何らかの感情を込めるものだと思うのです。それが情感となって観る者の心を動かすのでしょうが、あなた方の舞からは、そういうものが何も伝わってはこないのです」
 まるでほめているのかと錯覚しそうになるほど、かぐやはにこやかだったが、ずいぶんと手厳しいことを言っている。
「それは仕方がないことだろう。生まれてまだ日も浅いことだし」
 亮輔は思わず口をはさんだ。普段なら、かぐやはもっと言葉を選び、柔らかい話し方をする。それがここまではっきりと意見を述べるのは、何か理由があってのことだろう。だが、主である藤春の感情まで傷つけることになるのではと危惧したのだ。亮輔の思いを察したのか、かぐやはすぐさま彼の発言に大きくうなずいた。
「おっしゃる通りです。それに、風に舞う花のように軽やかに舞えるのは、玉妖ならではでしょう。人と違うということは、必ずしも悪いことではないと思いますわ」
 だが、あやめは激しく首を横に振ると、雪白の前でひざまずき、震える声で哀願した。
「何がいけないのか、わたしにはよくわかりません。どうか、太夫の舞を見せて下さいませ」
「あやめ、よしなさい。太夫を煩わせてはいけないよ」
 藤春に叱られても、あやめはその場を動こうとしない。亮輔は彼女の態度に不穏なものを感じ、ふたりのあいだに割って入ろうとした。だが、あやめのほうが素早かった。ふいに立ち上がり、雪白の手を取ったと思うと、すぐに姿を消した。それと同時に、雪白がくずれるように畳の上に倒れ伏した。まるで霞がかかったように、その体の輪郭が全体的にぼやけて見える。
(しまった)
 亮輔は思わず唇をかんだ。
「太夫、太夫」
 真っ青になった藤春が、ひざまずいて雪白を軽く揺さぶったが、何の反応もない。
「伊上様、これはどういうことなのでしょう」
「あやめに〝郷〟へ連れていかれたんですよ」 
 彼女の行動を予測できなかった自分自身に腹が立つ。亮輔はため息をつくと、雪白の体を抱き上げた。
「ともかく部屋に戻りましょう」
 藤春が自ら敷いた布団に、雪白の体を横たえると、亮輔はすぐにあやめの竜卵石を持ってくるよう、彼に頼んだ。
 茶色の小箱に収められていたのは二寸足らずで、中心が紫紺の石だった。色が濃く、発色も良い。中央の色があざやかで美しいほど、妖力が高いと言われている。あやめも相当な妖力の持ち主と考えられた。 
「なぜ、あやめはこのようなことをしたのでしょう?」
 藤春は当惑しきっている。目の前で起こったことが、にわかには信じられないようだ。
「心当たりはありませんか?」       
「いえ、まったく。練習熱心で素直ないい子だと思っていました。ただ……」
 初めて思い当たったというように、藤春が口ごもりながら答えた。
「自分も梅花天を決める競い合いに出たいと申しまして。無邪気な心から出た望みだと思い、私も笑いながら、人間ではないからだめだと申したのです。そのとき、ひどく悲しそうな顔をしまして、玉妖でありながらよくここまで人らしく育ったものだと思ったのですが……」
「まさか、自分が雪白太夫の代わりになれると思ったわけじゃないだろうな」
「けっしてそのようなことは。いくら舞がうまいとはいえ、雪白と比べられるものではありません。じつのところ、太夫よりも、玉妖の舞のほうが美しいという噂が流れたことがございます。中でも特にあやめがすばらしいと。むろん、口さがない者どものたわごとですよ。単なるやっかみに過ぎません」
「けれども、あやめはそれを信じたのだろうと思いますわ」
 ふいに、かぐやが口を開いた。
「わたしには彼女が、これほど上手に舞えるのに、なぜ認めてもらえないのかという憤りを持っているように感じられました。ですから、あえて厳しいことを言わせていただいたのですけれど、それが逆に、彼女を追いつめることになったのかもしれません」
「何も気に病むことはないさ。こうなったのは、少なくともおまえのせいじゃない」
 あやめが日頃から、そのような激しい感情を胸に秘めていたなら、かぐやの言葉がなくとも、いずれこうした事態を引き起こすことになっただろう。おそらく、彼女はまだ、己の心に湧きあがってくる感情とうまくつきあう術を知らないのだ。だが、そう理解したところで、同情することはできない。玉妖が人間を無理やり〝郷〟に連れ込むなど、けっしてしてはならないことだ。亮輔は心を決めて、藤春に告げた。
「このまま待っていても、あやめが太夫を帰してくれるとは思えません。今から俺たちが、あやめの〝郷〟に行って連れ戻してきます。ただ、藤春さんには覚悟をしていただきたい。やむを得ない場合は、あやめを浄化させてもらいます」
 〝浄化〟というのは、玉妖の左胸にある〝心芽(しんが)〟というものを壊して、その玉妖を消滅させることだ。そうすれば同時に〝郷〟も消え、連れて行かれた人間をつれ戻すことができる。
 あやめを失うことになるかもしれないと聞き、藤春ははっと息をのんだが、やがて大きくうなずいた。
「伊上様にすべておまかせいたします。どうか、雪白を無事に連れ戻してくださいませ」
「わかりました」
 亮輔は銀細工の腕時計にはめ込まれた青い石にふれながら、
「飛鷹(ひおう)」
と、呼びかけた。すると、どこからともなく、二尺ほどの長さの太刀が空中にあらわれた。それを右手でつかむと、亮輔はもう一方の腕をかぐやに差し伸べた。
「行くぞ」
「はい」
 かぐやが体内に入ってくると、いつも体中が温かくなり、ふわりと浮き上がるような感じがする。だが、対照的に手足は自分のものではないように重くなり、なかなか思うように動かせない。ぎこちない仕草で、あやめの石にふれると、目の前の世界が反転した。

   *

 かぐやが体内から抜けたのを感じ、目を開けると、そこは水月楼の一階の座敷にそっくりだった。玉妖の中には、外の世界で自分が住まう環境に似せて〝郷〟を作る者も多い。ついたてを中央に置いて仕切り、ひとつの部屋にふたりの遊女が眠るのが普通だが、ここには誰もおらず、ついたても部屋の隅に片づけられている。
「かぐや、ふすまを開けてくれ」
〝郷〟の中では玉妖も実体を持つ。亮輔が太刀を構えるのを確かめて、かぐやは奥の間に続くふすまの引手に手をかけた。だが、その時、左側の壁にいきなりどこか別の部屋の映像が映し出された。そこは鏡月の間のように舞台が設えられていたが、広さは倍以上あった。
 舞台の上では雪白太夫が正座したまま、まっすぐ前をみつめている。あやめはまるで観客のようにその正面に座り、雪白を見上げていた。だが、彼女にまったく動く気配がないので、しびれを切らしたように立ち上がり、その腕をつかんで舞台から下ろすと、代わりに自分が舞台に立った。雪白は逃げる気力もないのか、その場に座り込んで、ただあやめのすることをけだるげに眺めている。
 どこからか琴の音が聞こえてくると、あやめは扇を手にして舞い始めた。薄桃色の無地の着物に、それよりも少しだけ色を濃くした帯を締めた彼女は、野に咲く花のように愛らしかった。だが、その舞は先ほど見たものとはずいぶんと違って見えた。
 〝郷〟の中では実体があるせいなのか、いつものような軽やかさが失われ、力強くはあるものの、全体的に荒々しいばかりで繊細さに欠ける。しかも、拍子を先取りするようなせわしい動きで、ゆったりとした間がなく、央風の舞で尊ばれる優雅さが損なわれていた。
 舞ううちに、あやめは陶然とした顔つきになり、ただ狂ったように激しく踊り続けた。そこには玉妖の持つはかなさなどみじんもなく、ただ押しつけがましいほどの圧力を感じさせた。
「その部屋に行けるか?」
 亮輔は壁の映像を見ながら、かぐやに聞いた。
「難しいと思います。ここの空間は閉じられているようで、どこにもつながっていませんから」
「どういうことだ?」
 首をひねりながら、亮輔は奥へと続くはずのふすまを開けてみた。すると、まるで逆戻りしたかのように、まったく同じ部屋の光景があらわれた。何度ふすまを開けてみても、同じことのくり返しだ。 
「なるほど」
 亮輔とかぐやはこの〝郷〟において招かれざる客だ。早々に追い出すために、あやめはこのような手段を取ったのだろう。ここから先へは行かせないという、彼女の強い意思を感じる。
「きりがないな。どうする?」
 亮輔の問いに対し、かぐやは右手をあげ、この部屋で唯一の調度品であるついたてのほうに向けた。
「自分の〝郷〟の物を壊されれば、当然、彼女は怒るでしょう。わたしたちを排除しようと、自ら姿を現わすかもしれません。手荒な方法ですが、試してみる価値はあると思います」
「わかった」
 疑問を感じないわけではなかったが、過去の経験からして、玉妖の〝郷〟では自分が考えるより、かぐやの意見に従ったほうがうまくいくことが多い。
 亮輔は太刀をふりあげ、ふすまを斜めに切り裂いた。かぐやの手のひらからは金色の光が発し、それが矢となってついたてをつらぬいた。いくつもの穴が開いたついたては、見るも無残な姿となり、ついには大きな音を立てて倒れた。すると、ふいに壁に映し出されていた映像が消えた。
 破れたふすまを蹴り倒して、亮輔が次の間へ向かうと、何事もなかったようにまた同じ部屋があらわれた。うんざりしつつも、また室内を荒らし、次へと進む。それを三回ほど繰り返した時、いきなり地面が大きく揺れた。
「うわっ」
 亮輔はとっさに太刀を畳に突き立て、ひざをつきながらもなんとか体を支えた。だが、足もとから強い風が巻き起こり、全身が宙に浮いたと思うと、次の瞬間にはあっという間に畳の上に叩きつけられていた。
 必死で体をひねり、背中から落ちることは避けられたが、それでも左肩をしたたかに打った。実体はなくとも、高い所から落とされれば痛いものだという認識が自分自身にある限り、現実の世界で体に受けるのと同じような苦痛を感じてしまう。
 いっしょに突風に巻き込まれたはずのかぐやは、いち早く風の渦から脱け出していたようで、うめきながら肩を押さえる亮輔の隣にふわりと降り立った。そして、近くに落ちていた太刀を拾い、彼に差し出した。
「大丈夫ですか?」
「ああ、畳の上だったからな」
 亮輔は太刀を受け取ると、ゆっくりと立ち上がった。
 ふたりが飛ばされたのは、先ほど映像で見せられていた部屋のようだった。
 あやめはすでに舞台を下り、じっとこちらをにらむようにしてみつめている。その傍らに雪白太夫がいたが、緑色の細い紐で上半身を縛められていた。亮輔とかぐやの姿を認め、彼女は微かに笑みを浮かべた。
(まさか縛りつけるとはな)
 亮輔は怒りを覚えたが、冷静さを装って、あやめに話しかけた。
「ずいぶんと乱暴なことをするものだ」
「あなた方がやってこなければ、ここまでするつもりはありませんでした」
 あやめはさも相手に非があるような言い方をした。自分が悪いことをしたとはつゆほども思っていないのだろう。
「早くここから出て行ってください。わたしは争うつもりはないのです」
「だったら、太夫を帰してくれ。俺たちだって、あんたと戦いたくはないんだからな」
「わたしはただ、舞を見せて下さるよう、お願いしていただけですわ」
「違うな。それだったら、わざわざここへ連れてくる必要はないはずだ。なぜ、太夫をさらった?」
 すると、ふいにあやめの顔が、まったく別の女のものに変わった。白粉(おしろい)を厚く塗り、唇に真っ赤な紅をひいた、妖艶な美女だ。薄笑いを浮かべながら、細い目で亮輔をじっと見すえている。化粧の仕方から見るに、おそらく水月楼の遊女のひとりだろう。
「どうして、いつも雪白太夫が梅花天になるのでしょう? この方がいらっしゃらなければ、次はわたしが選ばれるかもしれませんわ」
「おまえは誰だ?」
「ご存じでしょう? わたしはあやめですわ。ここはわたしの〝郷〟ですもの」
「では言い換えよう。いったい、おまえは誰の思いを受けて、そのような話をするんだ?」
「それは……」
 あやめは口ごもり、思案するようにうつむいたが、次に顔をあげた時にはもう、遊女の影は消えていた。
「すべて、わたしが考えたことですわ。玉妖だから選ばれないなんておかしいですもの。わたしの舞が太夫よりすばらしいと、おっしゃってくださる方もいらっしゃいますのに。ねえ、そうでしょう?」
「ええ、それは本当のことですわ」
 同意を求められた雪白が、物憂げに口を開いた。
「お客様の中には、わざわざこの子たちを呼んで舞をさせる方もいらっしゃいます。そのあいだ、わたくしはお隣に座り、お酌をするのですわ」
 突き放すような冷たい言い方だった。今語られた出来事に対し、太夫がかなりの屈辱を感じていることが、亮輔にもじゅうぶん理解できた。
「そんな酔狂な客はそうそういるものじゃないだろう。酒の席で少しばかりほめられたからと言って、すぐに調子に乗るのは、おまえがまだ幼い証拠だ」
 得意げな表情を隠そうともしないあやめに、亮輔は容赦なく言った。
「太夫も太夫だ。野暮な客のために、いちいち心を揺らすな。梅花は薫り高く、高雅なものだ。その称号まで得た太夫が、つまらぬことを気にするようでは、藤春さんが嘆くぞ」
 あやめがこうも自信を持っているのは、誰かはわからないが、あの一瞬だけ顔が浮かんだ遊女の強い思いを受けてしまったせいに違いない。ここまで深く思い込んでしまったのでは、他者の言うことになど耳も貸さないだろう。
 亮輔は太刀を抜き、その切っ先をあやめに向けた。
「これが最後だ。もう一度だけ言う。太夫をここに閉じ込めておくことは許されない。すぐに解放して、主に詫びろ。そうすればとりなしてやる」
「嫌です」
 あやめは眉をつりあげて甲高い声で叫ぶと、両手を大きく広げた。すると、突然、空中に何本もの剣があらわれた。それらは刃先を下に向け、宙に浮いたまま、あやめの前で横一列に並んだ。
「かぐや、俺があやめの注意をひきつける。その間におまえは太夫をつれて、ここから出るんだ」
「はい」
 亮輔の指示に、かぐやがうなずいた瞬間、数本の剣が切っ先をこちらに向けて、次々と襲いかかってきた。
 飛んでくる剣を太刀で払いのけると、それらは力を失ったように畳のうえに転がり、すぐに消えてしまった。次の一本を体をひねってよけると、傍らにいたかぐやが光の矢を放つ。攻撃を受けた剣は空中で消滅し、再びあらわれることはなかった。
 あやめは立て続けに剣を出すことはできないようで、五本から六本の剣を飛ばした後、わずかではあるが、空白の時間が生まれる。その間隙を縫って、かぐやは高く跳躍すると、そのまま空を飛んで、太夫のすぐそばに下りた。だが、あやめがすかさず太夫を自分の後ろに隠すようにして、ふたりのあいだに割って入った。
 攻撃が止んだのを見計らい、亮輔もそちらに駆け寄ろうとしたが、いきなり地面からあらわれた白い手に足首をつかまれた。倒れそうになったところを、また別の白い腕に後ろから羽交い絞めにされた。身動きの取れなくなった亮輔の正面に、あやめとそっくりな女が立ちはだかり、手にしていた両刃の細い剣を、亮輔の右胸に突きつけた。
 絶対的な優位を確信したように、あやめは微笑さえ浮かべて、かぐやに言った。
「ここからすぐに出て行きなさい。でないと、あなたの主を刺します」
 だが、かぐやはまったく焦る様子もなく、優雅さを感じさせるほどのゆったりとした動きで右手をあげ、その手のひらを相手の左胸に向けた。
「あなたがそうする前に、わたしは心芽を破壊します」
「そんなことをしたら、わたしは消えてしまうのよ。あなたも玉妖でしょう? 同族を殺せますの?」
「やめろ、かぐや」
 亮輔は大声で叫んだ。玉妖は同族の者を傷つけると、生理的な嫌悪感を覚えると聞く。それが浄化などしたら、どれほど大きな衝撃を受けることになるかわからない。
 だが、かぐやには少しの迷いもないようだ。しごく当たり前のことを言うように、淡々とした口調であやめに告げた。
「わたしはどのような時も、あの方を守ると心に決めています。ですから、たとえ相手が同じ玉妖であっても、危害を加えようとするのであれば、ためらいなく討ちます」
 かぐやの態度は平静そのものだったが、右腕が淡い金色の光に包まれている。妖力を集め、いつでも光の矢を出せるという証だ。あやめは気おされたようにじりじりと後退すると、いきなりしゃがみこんで雪白を抱きしめた。かなり激しく動揺しているようで、それが彼女の分身にも影響を与えたらしい。亮輔に剣を突きつけていた女がいきなり消え、彼を捕らえていた白い手の力がゆるんだ。亮輔はすっと身を沈め、束縛から逃れると、太刀を呼んで、目の前にいたあやめの分身らしき女を斬り倒した。
「きゃああっ」
 悲鳴を上げ、苦痛に顔をゆがめながらも、あやめは雪白の体をしっかりと抱きしめて離さない。
「嫌よ。太夫は渡さないわ」
 かぐやが肩に手をかけて、引き離そうとしてもむだだった。あやめの思いを受けてか、緑色の紐がいっそうきつく、雪白を締めつける。
「かぐや、離れろ」
 駆け寄った亮輔が、背を向けるあやめを後ろからためらいなく一突きした。
 仲間の驅妖師には、できる限りの説得を試み、極力浄化をしないで助けようとする者もいる。しかし、亮輔は主の言いつけを守らず、攻撃を仕掛けてきた玉妖に対して容赦はしない。善悪を理解することなく、無茶をする玉妖を止めるのが、自分の仕事だと考えているからだ。
 あやめの胸から、竜卵石と同じ紫紺の丸い玉が転がり落ちる。彼女の心芽だ。すでに無数のひびがはいっており、地面に落ちるが早いか、粉々に砕け散ってしまった。それと同時に、世界が暗転した。
 
   *

 目を開き、自分の世界に戻ってきたことを確かめると、亮輔はすぐに起き上り、雪白の枕元についていた藤春に告げた。
「申し訳ないが、あやめを浄化させてもらった」
 覚悟していたのか、藤春はただ無言で頭を下げただけだった。だが、雪白が身を起こし、紫紺の竜卵石を手に取って、青ざめた顔で尋ねた。
「では、ここにはもう、あやめはいないのですね」
「そうです」
「わたくしがもっとしっかりしていれば、このようなことにはならなかったでしょうに。かわいそうなことをしました」
 つぶやくように言った後で、彼女ははっとしたように亮輔を見た。
「申し訳ございません、あなたのお仕事のことを言ったのではないのです。わたくしの心の弱さが招いたことと思ったものですから」
「べつに何も気にしていません。それに、今回のことはあなたのせいではありませんよ。おそらく、あなたに代わって梅花天になりたいと、強く願った者がいたのです。その思いを、あやめが受け取ってしまったのでしょう」
 あやめの〝郷〟で見た遊女の顔を思い浮かべながら亮輔が言うと、藤春がすぐに思い当たったように話し始めた。
「瑞月(みづき)という遊女がおりました。舞の上手な子で、生まれたばかりのあやめを預けておりましたが、死病にとりつかれ、ふた月ほど前に亡くなったのです。まだ十九でした。おそらく、その無念の思いがあやめに伝わったのかもしれません。わたしはそのことに気づきさえしなかった。悪いのはわたしだ。だから、太夫が気に病むことはない。どうか、一日も早く元気になっておくれ」
 だが、雪白は肩を落としてうつむいたままだ。
「亮」
 かぐやが横合いからそっと亮輔に声をかけてきた。
「雪白様をわたしの〝郷〟におつれしてもよろしいでしょうか? あやめの〝郷〟でおつらい思いをされたでしょうから、少しでもお慰めしたいのです。もちろん、お疲れにならないよう、早めに帰ってまいります」
「俺もそれが良いと思う」
 亮輔はおそらくかぐやがそう言うだろうと、予想していた。同じ玉妖が犯した過ちに対するつぐないを、少しでも自分ができればと考えているのだろう。亮輔が問うように藤春に目をやると、彼も身を乗り出すようにして言った。
「太夫、ぜひそうさせてもらいなさい」
 皆の了承を得たことで安心したのか、雪白も顔をあげて小さくうなずいた。かぐやは彼女の手を取り、〝郷〟へと導いた。