『あの本は読まれているか』は、アメリカの作家ラーラ・プレスコットのデビュー作です。アメリカやイギリスの出版界では、ある作品を刊行する際、原稿がオークションにかけられる場合があります。この作品は、発売が決まる前から本国で大きな話題を呼び、23社による熾烈(しれつ)なオークションとなりました。そして、老舗のクノップ社が200万ドル、日本円にしてなんと約2億円で出版権を獲得し、2019年9月に20万部を初版として刊行したのです。さらに、本作品は世界各国で次々と翻訳出版され、その数は30か国語以上におよぶ予定で、映像化の企画も進んでいるそうです。2020年3月現在、アメリカ探偵作家クラブ主催のエドガー賞最優秀新人賞の最終候補作にもなっており、四月末に出る結果を楽しみに待っているところです。

 本書の舞台は、1950年代後半の冷戦時代。アメリカのCIA(中央情報局)にタイピストの職を求めてやってきた女性が、思いがけずスパイの才能を見こまれます。そして、タイピストとして働きながら秘かに訓練を受け、ある特殊作戦の一員に抜擢(ばってき)されました。その作戦とは、共産国であるソ連で出版禁止となっている小説をソ連国民の手に渡し、ソ連政府がどれほど非道な言論統制や検閲を行なっているかを知らせ、政治体制への批判の芽を植えつけようというものです。特殊作戦の武器となったのは、ソ連の有名な詩人であり小説家のボリス・パステルナークの渾身作、『ドクトル・ジバゴ』でした。のちにノーベル文学賞を彼にもたらすこの作品は、ロシア革命の混乱に翻弄(ほんろう)されつつ生きる主人公ジバゴと、恋人ラーラの愛を描いています。ドクトル・ジバゴ作戦はCIAが実際に行なった戦略のひとつで、ペンの力、文学の力を信じた人たちの物語であることが、本書の大きな魅力となっています。

 こうした歴史的事実を踏まえつつ、歴史の陰に埋もれていた人々やオリジナルの登場人物が生き生きと臨場感たっぷりに描写され、見事なフィクションに仕上がっている点も、本書の魅力です。西側と東側の物語が交互に語られるのですが、西側では、CIAで働くタイピストたちの日常を追いながら、豊かな自由社会にも存在する女性差別やハラスメントが浮き彫りにされます。東側では、『ドクトル・ジバゴ』の著者パステルナークと、愛人オリガの関係を通じて、愛のせつなさばかりか、ソ連の秘密警察の恐ろしさや矯正収容所の悲惨さが描かれます。歴史の陰のそのまた陰に生きた、本書では名前もない人たちの生き方にも、胸を打たれることと思います。読み応えたっぷりの本書を、お楽しみいただければ幸いです。

 そもそも、わたしがこのような素晴らしい本と出会えたのは、エリザベス・ウェイン著の『コードネーム・ヴェリティ』『ローズ・アンダーファイア』という、戦争に翻弄される女性たちの絆と闘いを描いた作品を東京創元社さんに持ちこんで訳させていただき、結果として、これらの作品が読者のみなさんから好評をもって受け入れられたことがきっかけであるように思います。担当の編集者さんから、本書を翻訳しませんかというお話をいただいたとき、わたしはあらすじを聞いただけですっかり気に入りました。登場人物たちと自分が一体化するほどに、のめりこめそうな気がしたからです。主人公が女性であれ男性であれ、圧倒的な力を持つ作品に恵まれるのは、翻訳者にとってとても幸運なことです。

 まさしく、わたしは物語の冒頭からストーリーに引きこまれました。文学が人の心を変え、世界を変えられる、ペンが武器になるという信念に命をかける人たちに魅了されたのです。作家のパステルナークがどれほど純粋であったか、彼を愛したオリガがどれほど一途であったかに感動したのです。わたしはひとりひとりの人物に愛情を抱きながら、その姿を想像しながら、読者の方々の心に届くかしらと確認しながら、言葉を選んでいきました。翻訳作業は長く続き、苦しいときもありましたが、こうしてお手元に届けることができてほっとしています。

 著者のラーラ・プレスコットはアメリカのペンシルベニア州グリーンズバーグ出身で、ワシント ンDCのアメリカン大学で政治学を、ナミビアと南アフリカで国際開発を学んだあと、政治キャンペーンのコンサルタントをしていました。このとき、言葉が心を変え、人々に影響を与えることを 実感したといいます。本書を執筆したきっかけは、2014年に父親が送ってくれたワシントンポストの記事で、そこにはこうあったそうです。「冷戦中、CIAはソ連を崩壊させる道具として『ドクトル・ジバゴ』を使用した」と。その年、CIAはドクトル・ジバゴ作戦に関する99の書類を機密解除したのでした。ラーラ・プレスコットは『ドクトル・ジバゴ』が世に出るまでの話を読んで興味を持ち、機密解除された書類に目を通しました。ところが、それらの書類は人物名に手を加えられていたり詳細の一部が黒塗りされていたりで、すべてが明るみに出されたわけではありませんでした。そこで、彼女は不足している部分をフィクションで埋めることにし、膨大な文献を読み、執筆にかかったのです。

  ラーラがテキサス大学オースティン校のミッチェナーセンター・フォー・ライターズで3年間の創作奨励金を受け、本書を書き始めたのは、2015年です。はじめのころ、「だれもロシアには興味を持たない」と言われたそうです。ラーラは悩みましたが、信念を曲げずに、CIAの極秘文書をタイプしながら秘密を守った女性たちを主人公として、書き進めました。そして、2017年、ミッチェナーセンターのアドバイザーであるエリザベス・マクラッケンに褒められるまでになり、2018年、3年の創作奨励期間が終了した2週間後に、冒頭に書いたオークションが行なわれたのです。

  このデビュー作をめぐって、大西洋両岸の出版社が競り合いました。いくらほしいかと尋ねられたラーラは、さらに3年間フルタイムで執筆するあいだの生活費として、10万ドル(日本円で約1000万円)いただければ嬉しいと答えたそうです。これほどの話題作なのに、謙虚ですね。作品の素晴らしさのおかげで、結局は200万ドルで売れたわけですが、これがオークションの最高額だったというわけではないというから、驚きです。「将来、縛りのある厳しい契約に苦しみながら仕事をしたくない」ので、クノップ社に決めたそうです。作家志望の人たちに向けてラーラはこう述べています。「書く本当の理由を常に忘れないこと。宣伝やレビューやお金のために書かないでください。(中略)あなたを愛し、支えてくれる人、泣くための肩を貸してくれる人を大切にしてください」と。

  さて、本書をお読みになったみなさんのなかには、「ラーラ・プレスコットって本名なの?」と疑問を持たれる方がいらっしゃるかもしれませんね。はい、そのとおり、ラーラ・プレスコットは本名です。母親が映画〈ドクトル・ジバゴ〉のファンだったので、ヒロインの名にちなんで「ラーラ」とつけたとのことです。ラーラは子どものころ、お母さんの宝石箱のオルゴールのネジを何度も巻いて、〈ラーラのテーマ〉を聴いたそうです。ラーラ自身、映画も好きでしたが、本を読んで初めて強いつながりを感じたといい、「冬の夜、窓に置いたロウソクのように、それは時空を超えてわたしのほうへ手を伸ばしてきました」と書いています。本書に登場するパステルナークの愛人オリガは、『ドクトル・ジバゴ』のラーラのモデルだと言われていますから、ここには三人のラーラがいるのですね。ついでながら、訳者のわたしも、大学生のころに映画館で〈ドクトル・ジバゴ〉を観て感動した覚えがあります。それからウン十年経ったいま、ラーラに再び出会えて、とても幸せです。

  現在、ラーラ・プレスコットはテキサス州オースティンにある二十世紀なかばに建てられたランチハウス様式の家に、夫、猫二匹、保護犬の子犬と住んでいます。ゆったりした快適な環境で、すでに次のテーマを見つけているかもしれません。事実をもとにフィクションを膨らませて登場人物を生き生きと描き、立体的・重層的なスケールで作品にできる作家ですから、これからも楽しみです。
 
 最後になりましたが、こうして本書が形になるまでに力を貸してくださった方々に、心からお礼を申しあげたいと思います。どうもありがとうございました。

  二〇二〇年三月

▪️吉澤康子(よしざわ・やすこ)

津田塾大学学芸学部国際関係学科卒業。英米文学翻訳家。アン・ペリー『護りと裏切り』『偽証裁判』、エリザベス・ウェイン『コードネーム・ヴェリティ』『ローズ・アンダーファイア』(以上、創元推理文庫)、『夜ふけに読みたい不思議なイギリスのおとぎ話』『夜ふけに読みたい奇妙なイギリスのおとぎ話』『夜ふけに読みたい数奇なアイルランドのおとぎ話』(以上、共編訳、平凡社)など訳書多数。