ジョーン・エイキンは一九二四年にイギリスのイースト・サセックス州で生まれた。早くから書くことに目覚め、十六歳のときにはすでに長編を完成させていたという。ピューリッツァー賞受賞の詩人コンラッド・エイキンを父親に持つことを考えれば、不思議はないかもしれない。
ジャーナリストの夫ロナルド・ジョージ・ブラウンが結婚十年目に亡くなってほどなく、エイキンは作家としての本格的なキャリアをスタートさせる。ジェームズ二世のイギリス革命の時代を舞台にしながら、架空の地理や出来事をふんだんに取り入れた歴史改変物〈おおかみ年代記〉シリーズ、少女とカラスの起こす騒動を面白おかしく描いた〈アラベルとモーチマー〉シリーズをはじめ、大人向けのホラーストーリーや、ファンタジー短編集、詩、戯曲と、生涯にわたって百冊以上の本を出版した。一九六九年にはガーディアン賞、一九七二年にはエドガー賞を受賞している。
今回、このあとがきを書くにあたって改めて調べたところ、エイキンが亡くなったのはつい先日だったような気がしていたのに、もう一六年も経っていることに気づいて、寂しくなってしまった。子どものころ、『ウィロビー・チェースのオオカミ』や『ナンタケットの夜鳥』といった〈おおかみ年代記〉(当時は、十二冊あるうちの一部しか出ていなかったが、現在は新たにこだまともこ訳で〈ダイドーの冒険〉シリーズ(冨山房)として刊行中)や、毎回不思議な事件に見舞われるアーミテージ一家の物語『とんでもない月曜日』などを愛読していたから、大人になってから、エイキンがまだ存命で、次々作品を発表していることを知って、うれしい驚きを感じたのを覚えている。子どものときは、外国の「えらい」作家というのは、もう死んだ人だと思っていたせいかもしれないし、作品が歴史物だったりフェアリーテール調だったりしたためかもしれない。
だから、二〇〇四年にエイキンが亡くなったときには、もうこれで新しい作品が読めなくなるのだと、悲しくてたまらなかった。その後、エイキンが七〇歳の誕生日の記念に気に入っている短編を集めて編んだ〈A Handful of Gold〉(『心の宝箱にしまう15のファンタジー』竹書房 のちに『ひとにぎりの黄金』として文庫化)の存在を知り、子どものころからの憧れの作家の作品を訳すという幸運に恵まれた。
よく言われるが、翻訳は精読の作業でもある。エイキンの文章を繰り返し読むうちに、一行として無駄のないこと、一見平易な表現にユーモアや遊びや批判や哲学がこめられていること、また、独特な比喩や、自由奔放な想像力など、書き手としてのエイキンの力量にすっかり惚れこんでしまった。
先ほど、フェアリーテール「調」と書いたが、エイキンはしばしばフェアリーテールの語り口を用いて、現代を舞台とした物語を描く。本短編集も、フェアリーテールの雰囲気を持ちながらも、設定自体は現代の作品がほとんどだ。魔法や不思議な出来事が起こり、おとぎ話の味わいたっぷりだが、実は、スーパーのチェーン店、警備システム、土地開発、観光事業、相続といった、俗物的と言ってもいいような設定やテーマがそこここに顔を出す。ここできらりと光るのが、エイキンの批判精神だ。日本のマーケティング市場でも「バームキン」はたくさん見つかりそうだし、「代理の弁護士は?」とさけぶ相続人もごまんといそうだ。警備システムを取りつける家も、その音に文句をつける隣人も、ペットを巡る近所同士の裁判も、めずらしい光景ではない。森の宅地開発を巡る世代間の対立などという、ごく現代的な問題まで登場する。
そんな、世知辛いとも言える話を子ども向けに描くのか? と思われる向きもあるかもしれない。エイキンは『子どもの本の書きかた』というエッセイ集の中でこう言っている。
作家の任務とは、子どもたちにむかって、この世界は単純な場所ではないことを示すことだといえるでしょう。単純だなどとはとんでもない。この世界は途方もなく豊かで、奇妙で、混乱しており、すばらしいと同時に残酷で、神秘的で美しく、説明しがたい謎なのです。(略)自分がどこからやってきたのか、どこへ行くのかを私たちは知りません。私たちはどれほどつとめてみてもぼんやりとしか理解できない幾重にも重なった意味にとりかこまれているのです。そしてこのような事実を告げられる方が、子どもたちにとってはどれほど楽しいかわかりません。(猪熊葉子訳 晶文社)
J・R・R・トールキンは、「子ども向けにレベルを下げて書くようなことをしてはならない」と言った。子どもは確かに、知識は大人より少ないだろうし、意見や感想を言語化するのも得意ではないかもしれない。でも、だからといって、「この世界は単純」などと、決して思っていないのだ。
エイキンの物語が、子どもはもちろん、大人が読んでも味わい深いのは、彼女が決して「レベルを下げて書く」ような真似をしていないからだと思う。
エイキンは「自分がどこからやってきたのか、どこへ行くのかを私たちは知りません」と書いているが、この『月のケーキ』が彼女の晩年に編まれたことを考えると、より心に染み入るものがある。ここに集められた物語のいくつかに、死の気配が漂っていることを感じた方もいるだろう。「緑のアーチ」のように美しい余韻を残すもの、「羽根のしおり」のように残された者の心情に寄り添うもの、「森の王さま」に描かれる亡くなった肉親への憧憬。なかでも、筆者は「オユをかけよう!」のマンデーおばあちゃんが大好きだ。物語はおばあちゃんが亡くなったあとから始まるから、もちろん、おばあちゃんが直接登場することはない。けれど、仲良しの孫にしょっちゅうからかわれていたマンデーおばあちゃんは、この壮大なしかえしを綿密に計画していたのだろうと想像せずにはいられない。オウムにセリフを教えこみ、ティーバッグからマジックフラワーにいたるまで「オユをかける」品々を集め、そして、最後の仕掛けとなるこおりんしゃを用意する。おばあちゃんが、結末を想像してはクスクス笑っているようすが目に浮かぶようだ。きっと孫のポールの中には、いつまでも楽しいおばあちゃんとの思い出が生き続けるだろうエイキンの作品がいつまでもわたしたちの中で生き続けるように。
最後に、編集の小林甘奈さんに心からの感謝を! みなさまがどうかエイキンの珠玉の短編集を楽しんでくださいますように。
三辺律子
東京都生まれ。フェリス女学院大学、白百合女子大学講師。訳書にジョーンズ『呪文の織り手』、グレーシー『龍のすむ家』、ネルソン『君に太陽を』、フレミング『ぼくが死んだ日』など多数。共著に『12歳からの読書案内』などがある。