その沃野の極致と言えるのが、エリック・マコーマック『雲』(柴田元幸訳 東京創元社 3500円+税)である。本書は狭義のミステリには該当しないが、明かされる秘密があり、不可思議な出来事もあるので、広義のミステリではあるだろう。
主人公が出張先のメキシコで偶然見つけた、19世紀の古書には、スコットランドのある町での不思議な雲のことが記されていた。その町に深い想い出のある主人公は、その古書のことを調べ始める。自らの来歴を振り返りながら。
この物語は、主人公ハリーの人生そのものを縦糸として進む。かなりの貧困の中でも、愛情たっぷりの両親に育てられた彼は、やがて悲劇に見舞われて、悲恋も経験し故郷を離れる。スコットランドやUKはおろか、ヨーロッパすら飛び出した後も、彼の人生は山あり谷ありである。そして、数々の出会いと別れに彩(いろど)られている。それらの一々が大変に味わい深い。主役ハリーはもちろん、他の登場人物もその性格と人生が鮮(あざ)やかに写し取られている。
中短篇の名手マコーマックらしく、本作はエピソード集積型の長篇だ。各部どころか各章が、それ自体で一つの物語を成しており、さながらオムニバス形式の連作短篇の様相すら呈す。ただしいつもと違って幻想小説風味は抑え気味であり、雲に関する古書の内容を除き、超現実的な要素はほぼない。ただいずれにおいても、マコーマックの美しく格調高く、ユーモラスで、だが時に奇怪な筆致で綴(つづ)られている。主役の感傷と、彼と彼に係わった人物の人生模様が、小説ならではの手法で描き出されていく。なんと豊饒(ほうじょう)な作品世界だろう。
最後に『パリのアパルトマン』(吉田恒雄訳 集英社文庫 1150円+税)を紹介したい。『ブルックリンの少女』で日本の読者にも鮮烈な印象を残したギヨーム・ミュッソの翻訳第2弾である。
舞台はクリスマス間近のパリ。元刑事マデリンと、劇作家ガスパールとは、急死した天才画家ショーンの旧宅での宿泊をそれぞれ予約していたのだが、トラブルでダブルブッキングとなってしまった。心ならずも同じ屋根の下で暫(しばら)く過ごすことになった二人は、諸般の事情から、ショーンの遺作を一緒に探すことにした。
と、このように粗筋を書き始めると、まるでロマンス小説のように映る。巴里(パリ)、降誕祭、互いに見知らぬ男女、偶然の同居。女性の前職は極端にお堅い一方で、やさぐれ男は業界人で活躍は華々しい。なんというか、構成要素はとても典型的だ。しかしそこはミュッソ、一筋縄では行かない。
まず雰囲気からして予想に反する。冒頭から相当にシリアスなのだ。主役二名がそれぞれ抱える個人的事情が、かなり深刻なものであるからだ。マデリンは何か深刻な健康問題を抱えているようであり、ガスパールは創作が思うに任せず自己実現が図れないストレスを強く感じている。クリスマスらしい浮(うわ)ついた空気は、ほとんど感じられない。また、遺作の調査が進むにつれ、ショーンと彼の家族を見舞った悲劇がクローズアップされる。やがて、遺作に込められたメッセージが浮かび上がってくる。
その後の展開はまさしく意外なものである。いつの間にか、想像すらしなかった所まで連れて行かれるのは、ミステリ読者冥利(みょうり)に尽きるというものである。今回の一推し作品はこれにします。