ロバート・トゥーイは、第12回EQMMコンテスト――アヴラム・デイヴィッドスンの「物は証言できない」が第一席を獲得し、前回読んだミリアム・アレン・ディフォードが傑作「ひとり歩き」で臨んだ回でした――で、「死を呼ぶトラブル」が処女作特別賞を得て、デビューしました。もっとも、この年は、コンテストもその使命を終えようとしていて、処女作特別賞は22編という大盤振舞い。調べたかぎり、邦訳があるのは、そのうち三作だけですが、トゥーイは、その中のひとりでした。
「死を呼ぶトラブル」は、フロイド・ウィーバーという、警察沙汰すれすれが生業らしい男に、大陪審からの召喚状が来て姿を消している、彼の悪事の証人となる男を、一万ドルで消してやるという電話が来るところから、始まります。電話が切られると、一転して、電話をかけた主ルー・ビーズが、問題の証人ジャック・ハイドを偶然に見つけた経緯が語られます。そして、自分の正体を知られているとは思っていないハイドをビーズは殺し、かくして、請負殺人は完了したかに見えますが……。ふたりの登場人物双方に意外性を用意するのが、新人作家自慢のアイデアかもしれませんが、意外性の質は、作為の手つきが目立つもので、水準作といったところでした。
トゥーイの作品の多くを、まず日本に紹介したのは、太田博時代のミステリマガジンで、法月綸太郎が『物しか書けなかった物書き』の解説で、日本でトゥーイを愛好した先達として、小鷹信光、森英俊と並べて各務三郎(太田博)を挙げたのは、そのことを踏まえているのかもしれません。ただし、そのころの作品から短編集に採ったのは、表題作くらいのものでした。確かに、あまり芳しい作品はありません。「トランク」は、シカゴからサンフランシスコにやって来た老婦人が、家を借りています。彼女はシカゴで夫殺しの嫌疑をかけられていますが、実際に手をくだしていて、しかも、そのことで甥に強請られていたのでした。借りた家には、死体を隠すにはおあつらえ向きのトランクがあって、そこへシカゴから甥が追跡して来る。彼女は甥を殺して、トランクに詰め込みます。平均的に意外なオチは、ある意味で「死を呼ぶトラブル」と似たパターンでした。それに比べると「ギンガム犬とキャラコ猫」は、やや見どころがあります。主人公の弁護士は、隣家の夫婦喧嘩がうるさく不愉快なことに、妻ともども悩まされています。一度、それとなく苦情を言うと亭主から逆ねじをくらい、ますます不愉快です。日曜の午後、例によって、喧嘩が始まりますが、今回は十分ほどで静かになる。不思議に思っていると、当の家から電話です。妻を殺してしまった、高名な顧問弁護士はたまたま不在なので、かわりに来てほしいと。かつて苦情を言ったときと同じ尊大な隣人の態度――しかも、自分は替わりの弁護士です――に、殺意が生じて……という話。オチはあっと驚くほどうかつなものですが、このあたりからトゥーイらしさが出てきているとも言えるでしょう。
『物しか書けなかった物書き』に選ばれている、同時期の作品にしても「おきまりの捜査」や「階段はこわい」は、さして買えるものではありません。前者は、死体があると通報を受けてやって来た巡査が遭遇する、不条理な出来事です。死体というのはパジャマを着た骸骨で、しかも、周囲の人たちは、それをパパと呼んで当然のこととしているのです。思いつきとして楽しいのは確かなのですが、そのアイデアが膨らまない、あるいは深まらないままに終わっていました。「階段はこわい」は、すでに何人も妻が階段から落ちて死んでいる男がいて、しかし、彼はあくまでも、それを恐ろしい偶然だと主張している。のみならず、それを怪しむ刑事に、自分はそういう悲劇的な偶然を引き寄せる人間なのだと嘯くのでした。そして、彼は次の偶然の犠牲者を見つけ、結婚します。オチは「死を呼ぶトラブル」「トランク」を思い出させる、トゥーイお得意のパターンでした。
こう書くと、60年代のトゥーイの短編には、めぼしいものがないかのように思われるかもしれませんが、そうではないのです。
短編集『物しか書けなかった物書き』の中の白眉は「そこは空気も澄んで」という一編でしょう。この一本が、圧倒的にずばぬけているというのが、私の考えです。
「ベンはタクシーに乗りこんだ。おじのアルがベンのあとから体をおしこみ、運転手に『ブロックフォード・タワーズだ』と唸るように告げた」という文章で、小説は始まります。奇を衒ったところのない、簡潔な描写です。ベンは有力者のところに連れていかれるところで、彼は取り立てられ、未来が拓けようとしているのだと、徐々に分かっていきます。引き合わされる相手は、ミスター・コスト。ビルの17階に居を構える彼は、ベンの父親のことを憶えていて(おまえの親父さんは、虎だった)、入会の儀式のときから、ベンに気がついていたというあたりで、それまで予感にすぎなかった、これはマフィアのような組織の話だと、読者は気づきます。ベンの父親とは異なり、おじのアルは虎ではなかったために、引き立てられなかったのでした。小説は、この三人の会談の場のみで成り立っているようなものですが、巧みな会話のやりとりから、おじのアルの立場が浮かび上がり、ミスター・コストは具体的な説明をすることなく、ベンに「この事態を解決しろと命じた」と言います。ベンは説明を求め食い下がります――それでも、もちろん、自分が何を求められているのかは、端から分かっているのです――が、ミスター・コストは明快な指示を出しません。それがなくても、事を成すことが出来なければ、組織で生き残っていけないのです。会談は終わり、下界へ降りて行きながら、アルは甥の未来の成功を信じて疑いません。しかし、ベンには「下に行くと空気がどんどん悪くなる」ように感じられるのでした。ラストの一行は、ベンが決断したことを暗示して終わりますが、一連の会話の陰に隠された人間関係と、それがもたらす悲劇の様相が導く緊張が、その間、一瞬たりとも緩みません。とぼけたとかオフビートといった評価をされることの多いトゥーイですが、ここにあるのは、そんな変化球投手の姿ではありません。洗練を極めたかのような、クライムストーリイの書き手が、そこにはいました。
この秀作が1969年の作ですが、同年の短編で、太田博時代のミステリマガジンに掲載されたのが「さよなら、フランシー」というクライムストーリイです。私が最初に読んだトゥーイですが、これも秀作の名に恥じません。クイーンのつけたリードには「〈あいもかわらぬ三角関係〉を、〈異なる〉視点から描く」と書かれていました。フランシーは、ジョン・ウェンデルの恰好のいいあごひげをはやした写真が大好きで、と小説は始まり、続いてすぐに、ジョンが妻のレオナに「ひげをはやそうかと思うんだ」と言っています。あっという間に、三角関係と妻への愛が冷めている夫の在りようを描いて、その間6行です。ジョンは過去に一本だけ台本を書いたことのある劇作家(兼俳優)ですが、いまは、夫はお芝居を書いているんですと、妻が自慢げに紹介できるという一点で、妻の金が自由になる身なのでした。小説はジョンの二重生活を描いていきますが、フランシーとの愛の巣に借りた部屋では、ご近所の彼に対する評判は良いものの、夫婦でないことがバレバレで、ひげをはやすはずのジョンは、舞台の仕事で知り合った店から付け髭を買ったりして、微妙に辻褄があわない。そうするうちに、ジョンの妻殺しの企みが徐々に露になっていきます。
クイーンが「〈異なる〉視点」と書いたのは、凡庸な作家なら、フーダニットやハウダニットとして仕上げるであろう犯人のトリックを、クライムストーリイに仕立てることで、新鮮でなおかつ読者に驚きを与えるものにしたことを示しているのでしょう。実際、誰がやったのかとか、どのようにしてやったのかという、手垢のついた謎とは異なり、ジョンの行動の謎めいた違和感で、読者の興味をつないでいく巧みさは一級品の腕前でしたし、それゆえに、そこだけを取り出せばインパクトに欠けるオチも、洒落たものになっていました。
ミステリマガジン初出のもので、唯一短編集に採られたのが、表題作である「物しか書けなかった物書き」でした。74年作品で、同年二か月後の翻訳という素早さです。この作品の美点は、ひとえに、落ち目になりつつある作家が、一心不乱にタイプを叩くと、その物が実際に現われ、そして彼は「物しか書けない」という着想にあります。実現させた「物」を換金して成り上がっていくというのが、とてつもなくユーモラスな上に、その生活の変化が妻への殺意を育み、クライムストーリイへ雪崩れ込むという展開も見事でした。ファンタスティックな設定を持ち込んだクライムストーリイという行き方は、トゥーイのお家芸となりますが、その代表がこの作品になるだろうことは、誰の眼にも明らかでしょう。
先に、トゥーイの作品を、最初に積極的に紹介したのは、太田博時代のミステリマガジンだと書きました。ただ、奇しくも、その時期は、トゥーイがフルタイムの作家からタクシー運転手兼業に戻っていた時期に重なっているらしく、そこから復帰したトゥーイの翻訳掲載の場となったのは、早川書房から光文社にEQMMの特約が移ったのちのEQでした。同時に、それはアメリカの短編ミステリの栄光が翳りを見せ始めたころでもあり、まもなく、EQMMの下で、戦後アメリカの短編ミステリの発展をリードしたフレデリック・ダネイが亡くなります(82年)。
『物しか書けなかった物書き』は、フルタイム復帰後の70年代後半から80年代前半にかけての短編を、多く集めています。ヴァラエティに富み、オフビートな感覚を前面に出した作品群という意味で、トゥーイらしい短編を集めたとは言えるでしょう。
「拳銃つかい」は腕利きの殺し屋が、仕事に行ってみると、相手は早撃ちの名手で、逆に撃ち殺されるという話。トゥーイお得意の表向きのストーリイとは反対側にも殺意があったというパターン(すでに、あげた作品のいくつもに該当します)ですが、話のサゲをそこにせずに、そもそもの動機となった主要人物の呼称を使って、別のところに持って行ったのが、オフビートなところでしょう。
「支払い期日が過ぎて」「家の中の馬」のジャック・モアマンを主人公とする二編は、警察を罠にはめることが生きがいであるモアマンの、周到でしつこいいたずらを描いたものですが、愉快な反面、警察もここまで愚かなのだろうかと考えないではありません。
「墓場から出て」「予定変更」は、この世の者とは思えない登場人物を出すという、ファンタスティックな設定で、クライムストーリイを書くという意味で、「物しか書けなかった物書き」を、ホラー寄りに展開させたと見ることも可能でしょう。「いやしい街を…」の、小説のキャラクターが、小説世界を飛び出して、酔っぱらってしまっている作家と対決するという着想も、ファンタスティックなものでした。この三作の中では、まともに死者を蘇らせてみせた「墓場から出て」を、私は推します。
突然、主演映画の話が消滅した俳優に、危難が次から次へと襲いかかる「ハリウッド万歳」。エラリイ・クイーンが電話越しながら登場する楽屋落ちの「犯罪の傑作」。競馬の八百長でさえ、階級格差があるという、苦い認識のもとに、競馬で身を持ち崩す男を淡々と描いた「八百長」と、達者でヴァラエティは豊富ですが、ひと昔前にトゥーイが持っていた鋭さは、もはや感じられません。「今回は収録を見送った」という「エレガント・ホテル」は、見送られるだけの作品でしかありませんでした。巻末の「オーハイで朝食を」は、MWA賞の短編賞候補だったこともあって、法月綸太郎も「力作」と評していますが。どうでしょう? 主人公が巻き込まれた謎の夫婦による奇妙な接待の果てに待っていたものは……という話ですが、事件のからくりを主人公に説明する警官が、なぜ、その解決に到ったのか、さっぱり分かりません。ここには、巧みに小説を組み上げることで、真相を語らずに伝えてしまった「そこは空気も澄んで」の文章力も、主人公の違和感を巧妙に読者に提出した「さよなら、フランシー」の構成力も、影を潜めています。この作品がMWA賞を獲れなかったことを、ローレンス・ブロックという相手が悪かったと、法月綸太郎は書いていますが、ブロックの受賞作そのものが、すでに往年のMWA賞のレベルを下回っているのではないでしょうか?
奇妙な発想によるクライムストーリイをいくつも書くことで、ロバート・トゥーイはオフビートなミステリ短編作家としての定位置を、確保したのかもしれません。しかし、1968年の二本の短編で見せた輝かしさは、そのこととは秤にかけることの出来ないもののように、私には思えてなりません。
※ EQMMコンテストの受賞作リスト(最終更新:2014年11月5日)