SFの故郷

大森 望
 Nozomi OHMORI



 フレドリック・ブラウンはSFファンの心の故郷である。
 まあ、正確には〝短編SFファンの〟と言うべきかもしれないが、ジャンルSFの本籍地がSF雑誌(に発表される短編SF)だという前提に立てば、ブラウンを故郷と見なすことに(少なくとも四十代以上のSF読者のあいだでは)そう異論は出ないだろう。
 突拍子もない発想ひとつを中心に組み立てられる短編、いわゆるワンアイデア・ストーリー──という和製英語(たぶん)も、最近めったに見なくなりました──は、一九四〇年代にアメリカのSF雑誌で誕生し、五〇年代にソフィスティケートされ、六〇年代日本SFのいしずえ(のひとつ)になった。そのワンアイデア・ストーリーの形式を確立した名匠がフレドリック・ブラウン。彼は、たったひとつのシンプルなアイデアが持つ可能性を最大限に引き出す天才だったのである。
 そのためか、SFを読みはじめたばかりの頃にブラウンと出会うと、効果は絶大。最初に読んだブラウンがなんだったのか、いまとなってはよく覚えていないが、最初に手にした一冊は、中学一年生のとき、高知市帯屋町の古本屋・井上書店で買った創元推理文庫SFマークの短編集、『天使と宇宙船』だったと思う。いちばんの衝撃は、もちろん「ミミズ天使」。ライノタイプがなんなのかさっぱりわからないし、英単語もろくに知らない時分だったが、だからこそ〝世界が記述されている〟というアイデアがリアルに思えたし、そこから生じる現象の奇怪さにぶっ飛んだ。すごいこと考える人がいるなあ──というのが率直な感想。この「ミミズ天使」こそ、ぼくにとってはSFの故郷かもしれない。それだけに、安原和見さんの生き生きしたフレッシュな新訳でお目見えした『フレドリック・ブラウンSF短編全集1 星ねずみ』に、「天使ミミズ」のタイトルで収録されているのを見たときは、それこそ天と地がひっくり返ったような気がしたもんですが、原題は“The Angelic Angleworm”だし、翼が生えて昇天するミミズは、どう考えてもミミズ天使じゃなくて天使ミミズなので致し方ない。
 ……という繰り言はともかく、それ以後ブラウンのSFをかたっぱしから古本屋で買い漁り、短編集を読みつくすと長編を読み、SFを読みつくすとミステリに手を広げた。ブラウンのミステリはとにかくタイトルがかっこいいのが特徴で、『死にいたる火星人の扉』とか『手斧が首を切りにきた』とか『彼の名は死』とか『3、1、2とノックせよ』とか貪るように読んだ記憶はあるけれど、内容は一ミリも覚えていない。
 それと対照的に、ブラウンのSF短編は、異様にはっきりと記憶に残っている。本書で言えば、吾妻ひでお『不条理日記』「しっぷーどとー編」で言及(「そこにはいない階段の上の小人に足をひっかけられる」)された「ユーディの原理」とか、「宇宙大作戦」(スタートレック)の原作に採用された「闘技場」(藤子・F・不二雄の短編「ひとりぼっちの宇宙戦争」の元ネタとも言われる)とか。そのころ読んだ短編集収録作の邦題と内容が分かちがたく結びついているものも多い(以下、括弧内は本書でのタイトル)。
「シリウス・ゼロは真面目にあらず」(不まじめな星)「狂った星座」(夜空は大混乱)「気違い星プラセット」(狂った惑星プラセット)……。ちなみに「ウェイヴァリー」は、福島正実編のアンソロジー『おかしな世界』を先に読んでいたせいか、「ウァヴェリ地球を征服す」じゃなくて「電獣ヴァヴェリ」の印象が強く、いまだについ〝ヴァヴェリ〟と読んでしまうし、ウルトラ怪獣っぽいイメージが頭にこびりついている。
 ひさしぶりに読み返しても、アイデアだけでなくストーリー展開まで細かく覚えていて自分でも驚くが、あらためて感服したのは、ブラウンの書くディテールのうまさ。たとえば、「ウェイヴァリー」で、大規模な電波障害にともなうさまざまな珍現象を列挙する中に、〈はっきりした理由は不明だが、アラバマ州モービルでは釣り針の需要が急上昇した。金物屋でもスポーツ用品店でも、ほんの数時間で品切れになったほどだ〉という一節が混じっている。なんだそりゃと思わず笑ってしまうが、〝とにかくたいへんなことになってる〟感が鮮やかに表現されている(ような気がする)。
 とはいえ、これら一九四〇年代から五〇年にかけて隆盛を誇った、ワンアイデアに集約されるタイプのSFは、アイデアが出尽くしてしまうと書きにくくなる。アメリカのSF情報誌〈ローカス〉が実施した二十世紀オールタイムベストSF投票のショート・ストーリー部門だと、ブラウンの作品としては、前巻の序文でマルツバーグも言及しているショートショート「回答」が九十六位にランクインしているが、いまこういうショートショートを書いて読者に同様の驚きを与えることはまず不可能だろう。
 そのため、一九七〇年代以降、アイデアで勝負するSFは流行らなくなり、アイデアそのものよりも、それをどう組み合わせてどんなふうに語るかが重視されるようになってきた。したがって、本書に収録されているような短編は、心の故郷ではあっても、ときどき引き出しの奥からひっぱりだして懐かしむ、古き良き時代の記念品でしかない──とまあ、そんなふうに、わりと最近まで思ってたんですが、劉慈欣『三体』を読んで考えが変わった。英訳されてヒューゴー賞を受賞し、世界的なベストセラーになった中国SFの長編だが、次々に起こるありえない出来事に思いがけない真相があるという構造はまさに「天使ミミズ」的だし、同書で主人公が見舞われる怪現象は、本書収録の「夜空は大混乱」によく似ている。アイデアSF黄金時代の(フレドリック・ブラウン的な)面白さを大量に放り込むことで、『三体』はSFのわくわく感を現代に復活させたのである。
 さまざまなジャンルを自在に書き分けたブラウンは、各ジャンルの文法について自覚的な作家でもあった。ブラウンは、『天使と宇宙船』の序文で、たいていのファンタジーは、超自然的要素を削って科学的(っぽい)説明を足せばSFにつくり変えられると述べ、実際に、ギリシャ神話のミダス王の逸話(触れたものすべてを黄金に変える力を与えられる)をSF風に語り直してみせている。
 いっぱしのSFマニアを気どりはじめた二十代の頃は、「いやいや、SFってそんな単純なもんじゃないでしょ。そういう考えかたは、現代SFにはもう通用しないね(だからブラウンはもう古いんだよ)」とか思ってたわけですが、最近は一周まわって、ブラウンのこのいたってプラグマティックな考えが正しいんじゃないかという気がしてきた。実際、純文学誌とSF誌の両方に寄稿する円城塔は、両者の違いは結局のところ語彙だとあるトークイベントで語っていて、神を異星人に置き換えれば神話もSFになるというブラウンの主張と通底する。すべて技術的な問題だとするなら、圧倒的にすぐれた技術を持つブラウンに学ぶところが多いのは当然だろう。現代SFに対する理解を深めるためにも、この短編全集を座右に置いて、故郷に帰る回数を増やしたほうがよさそうだ。



【編集部付記:本稿は『フレドリック・ブラウンSF短編全集2』解説の転載です。】



■大森望(おおもり・のぞみ)
1961年高知県生まれ。京都大学文学部卒。翻訳家、書評家。他の編著にオリジナル・アンソロジー《NOVA》シリーズ、主な著書に『21世紀SF1000』『現代SF1500冊(乱闘編・回天編)』『特盛! SF翻訳講座』『狂乱西葛西日記 20世紀remix』、共著に『文学賞メッタ斬り!』シリーズ、主な訳書にウィリス『航路』、ベイリー『時間衝突』ほか多数。