前回のイデ『IQ2』は文体上、贅言(ぜいげん)を尽くしていたとすれば、フェルディナント・フォン・シーラッハ『刑罰』(酒寄進一訳 東京創元社 1700円+税)は完全に真逆で、極限まで無駄を削った簡素な文体で、各短篇の主役の心を襞(ひだ)の部分まで余すところなく描き抜く。直接描写することなく、登場人物の言葉では表現しづらい微妙な感情や感傷すら行間で描いてしまうのである。
 冒頭の「参審員」では、ある女性が刑事裁判の参審員を務める。まず物語は彼女の半生を淡々と語り始め、彼女の性格を読者に何となく悟らせる。彼女が参審員として臨(のぞ)んだ事件で、夫に関する妻の証言、それに対する彼女の反応に、読者は違和感を覚えないはずだ。たった十数ページで、主役の人格が理解できているからである。そしてやや衝撃的な出来事が起き、残り三行で読者に忘れられない読後感を残す。小説技法の上で特に凄いのはラスト一行で、これがあるとないとでは、物語の深みや印象の度合いが全く違う。舌を巻く他ない。

 所収十二篇は全てこの調子である。シーラッハの実力を知る読者ならば先刻ご承知だろうが、書評から内容を推測する時間があるなら、実際に読んだ方が早い。充実した時間が過ごせることは保証しよう。

 最後に紹介するのは今回のメイン・ディッシュ、クレア・ノース『ホープは突然現れる』(雨海弘美訳 角川文庫 1360円+税)である。本作は2017年の世界幻想文学大賞受賞作であり、本コーナーでは変わり種だ。



 主人公ホープは、他人の記憶に残らない特異体質を持っている。会話は可能だが、席を外すなどで別れた途端に、彼女は相手の記憶から完全に消える。ホープが望もうと望むまいと、絶対にそうなってしまうのだ。学生時代、両親にすら忘れられた彼女は家を出て、以降は泥棒として高級品を盗む日々を送っていた。だが彼女がドバイでやったダイヤモンド盗難が、大企業プロメテウスの逆鱗(げきりん)に触れ、追われる身となる。人間の記憶には残らなくとも、機械やネットワークは彼女の行動を記録する。追手がそれを辿ることは可能なのだ。その逃避行は、やがて、プロテウス社が提供する、ユーザーに完璧な人生をもたらすアプリ《パーフェクション》の闇につながる。

 ストーリーでは、窃盗、追跡劇、企業犯罪、(詳細は書けないが)テロリズムが交錯する。その様はクライム・ノベルとして大変良質であり、だからこそ本コーナーで取り上げたわけだが、そのいずれでも、ホープの特異体質がうまく活かされている。彼女ならではの特殊な犯行手口や、敵による彼女への対処法、更には複数回話し合わねばならない場合の会話の続け方などは、読んでいるだけで楽しい。作者自身、考えている時は楽しかったのではないか。

 しかし本書の凄みは、ホープの体質を、そういった外面的な事象のみならず、内面描写やテーマ掘り下げにも活かしている点にある。常に忘れられるホープの孤独感と諦念(ていねん)である。そして知識欲が強く博識なホープは、世界に忘れられる自分の人生の意味を問い、哲学の海に沈む。それだけならホープという、あまりに特異で現実にはいない人間固有の問いに過ぎなくなる。だがこれが、利用者に画一的な幸福を押し付ける《パーフェクション》の問題と響き合って、意外や普遍性を帯びるのだ。物語にもたらされた、この決定的な奥行きを見よ!