アイスランド・ミステリ作家のトップランナー、アーナルデュル・インドリダソンの捜査官エーレンデュルシリーズ、邦訳五番目の作品『厳寒の町』を訳し終えた。これは今までの四作品とは異なり、過去に遡るのではなくまさに現代のアイスランド社会に鋭く切り込む作品である。
 学校帰りの十歳の男の子の死。最初は事故死と思われたが、すぐに他殺、それも小さな体の腹部を鋭い刃物で刺されて殺されたということがわかる。そしてその子は外国人、それもアジア人だということが、第一章の第一ページに「黒髪が半分凍りついていた」という描写で暗示される。どの国の出身かと、国名を数え上げて推察する同僚の捜査官シグルデュル゠オーリを、「当面、アイスランド人ということでいいじゃないか」と抑えるエーレンデュル。だが、シグルデュル゠オーリは「この少年を見つけた子ですが……(中略)その子もまた……有色、なんです。(中略)移民の子です……」と口ごもる。
 この口ごもりに、移民はアイスランド社会においてセンシティヴな存在であることが表れている。そしてこのアイスランド人の戸惑いこそが、アーナルデュルがこの『厳寒の町』で真正面から取り組むこの本のテーマである。
 事件の現場はレイキャヴィクの町外れのエレベーターもない六階建てのアパート付近。住人の多くが高齢者、貧しい若者、そして外国人だ。厳寒のその日、アパートの建物の近くで冷たい体で発見されたのは十歳の少年エリアス。母親はタイ人、父親はアイスランド人だが離婚していて、母親のスニーは菓子工場で働き、母国からもう一人の息子を呼び寄せ、そのアパートの五階で三人で暮らしていた。エリアスが殺された理由は不明で、犯罪現場には手がかりがまったく残されていない。エーレンデュルらはエリアスが学校帰りだったことから、さっそく彼の足取りを調べ始める。
 エリアスとその父親違いの兄ニランの通う学校は基礎学校で日本の小学校と中学校に当たり、六歳から十六歳まで通しの義務教育の学校である。およそ三百人の生徒のうち〝外国のバックグラウンドをもつ子ども〞は三十人ほど。一割である。エリアスの担任教師が「私たちの学校では、移民という言葉は使わず、外国のバックグラウンドをもつ子どもという表現をします」と言うとおり、近年、移民という表現を避け、新しくアイスランド市民となった人、外国のバックグラウンドをもつ子という言い方が使われている。父親がアイスランド人でアイスランド生まれのエリアスだが、アイスランド語はあまり得意ではなく、家では母親や兄とタイ語で話していた。別居している父親オーディンとエリアスは交流があるが、父親はタイ語が話せず、息子エリアスがタイ語を話すことに不満と疎外感を感じていた。オーディンの母シグリデュルはスニーを信頼し、孫のエリアスを可愛がり、ニランともうまくいっていた。働き者でアイスランドが気に入っているスニーはアパートの住人にも好感を持って受け止められていた。しかし、彼女もアイスランド語が得意でなく、十年以上もこの国に住んでいるのだが学校や警察とのやりとりには通訳が必要だ。
 アイスランドにはどれほどの移民が住んでいるのだろうか。この作品はアイスランドの人口が増え始めた二〇〇五年に書かれている。アイスランド統計局によれば二〇〇四年のアイスランドの人口は約二十八万人、二〇〇七年は約三十万人、その十年後の二〇一七年には人口が一割以上増え約三十四万人になっている。アイスランドの合計特殊出生率の平均は他の北欧諸国より高く約一・八だが、それでもこの十年間に人口が一割以上増えたのは、自然増加ではなく移民によるところが大きいと見ることができる。北欧五カ国の中で一番小さい国土(北海道より少し大きい程度)に一番少ない人口のアイスランドも、現代の二億人を超える世界的な人口移動の目的国の一つだ。結婚、就業、勉学が理由でアイスランドに来る外国人がそのまま残って移民となる、また戦争や飢餓を逃れてアイスランドに保護を求める難民など、アイスランドに移り住んだ外国をバックグラウンドとする市民は二〇一五年の時点で人口の七%を超えている。二〇〇三年にはそれが三・五%、約一万人だったことを見ても、その急激な増加がわかる。
 北欧五カ国はドイツと並んで今まで人道的・経済的理由から移民を多く受け入れてきた、いわば世界の模範国だった。人口一千万人のスウェーデンは第二次世界大戦後に主に労働力として、そして政治的・人道的理由で移民を受け入れ始め、現在四人に一人が外国をバックグラウンドとする人(国外で生まれたか、両親のどちらかが国外生まれ)である。しかし、同じく人道的または経済的理由から移民・難民を受け入れてきた他の北欧国デンマーク、ノルウェー、フィンランド、そしてアイスランドも、次第に移民受け入れを厳しく制限し始めた。デンマークはかなり前から移民受け入れを拒んでいる。今ではスウェーデンもこの方針に切り替え、移民難民の数は少なくなっている。理由としては移民を引き受けることによる国の経済的負担、社会における文化的分裂と隔絶、そして「移民は労働せずに恩恵だけに預かる、福祉を食い物にしている」という国民の不満の声などが挙げられている。本書の舞台アイスランドでも、移民を受け入れてきた政府の対応の裏に、人々の移民に対する戸惑い、不安と不満が渦巻いていることがわかる。特に非ヨーロッパ圏出身の人々と在来のアイスランド人の間に溝ができてしまっていることが、繰り返し言及される生徒たちの間の緊張感や衝突で表されている。
 本書にはそんなアイスランドの人々の当惑や不安感が、学校の教師たち、エーレンデュル、シグルデュル゠オーリ、エリンボルクたち警察官、そして子どもの親たちの〝移民の子殺害事件〞に対する反応からうかがえる。
「あいつらをアイスランドに入れるべきではないんだ。問題を起こすばかりなんだから」という極端な移民排斥主義者の教師もいる。しかし中には、貧困から逃げてきてここでいい暮らしができたらそれはそれでいいではないか。だれにでもよりよく生きる権利はあるのだから、という教師もいる。同じ教師が「だからと言って、俺たちがアイスランドの文化を保持してはいけないということにはならない。それどころか俺たちはあらゆるところで、とくに学校でアイスランドの文化をしっかり守らなければならない。俺は移民が多くなれば多くなるほど、俺たちはアイスランドの歴史と文化を彼らに教えなければならないと思う。(中略)つまり、外国から人々が移住してきても、俺たちは俺たちの文化を大切に育てるということは当然の最低条件だということだよ」と言う。また別の教師は「外国から人が移り住んでくるのは良いことだと思っている。犯罪者でもないかぎり、どのような理由でアイスランドに移住してくるのかなどどうでもいいと思う。ヨーロッパから移り住んでくるのか、アジアからなのかもかまわない。アイスランドは彼らを必要としているし、彼らは私たちの暮らしを豊かにしてくれるんです」と言う。そして移民の子たちと従来のアイスランド人の子たちの間に不平等があってはならない、これは教師にとっては神聖な、侵してはならない原則と言い切る。
 嫌悪感をあらわにし拒絶する者、受け入れてアイスランドの文化と社会システムに順応することを求める者、平和に共存できれば自由に生きていいという者。移民に対するアイスランド人の反応は複雑である。移民は二〇一九年の現在でもアイスランドにおける重要課題の一つだ。そしてこれはよその国の問題ではない。日本を含むいわゆる経済先進国が対処しなければならない喫緊の世界課題であることは言うまでもない。
 日本はいつまで日本に渡来して居住し働く人々を〝外国人労働者〞という枠に閉じ込めて扱うのだろうか。日本政府は決して彼らを移民とは呼ばない。移民という枠がないのだ。外国人労働者は日本で暮らす〝市民〞ではなく、在日外国人という位置付けである。
 二〇一九年の四月に改正された「入管法」は外国人労働者の在留資格に「特定技能」を新設し向こう五年間に新たに三十四万五千人の外国人を新規に受け入れると決めた。これらの人々はあくまで期間限定の〝外国人労働者〞〝ゲストワーカー〞であり、移民ではないという位置付けだ。移民と認めれば様々な権利――教育を受ける権利、労働・職業選択の自由、福祉の享受、政治参加など――をどうするか、という問題に対処しなければならない。もちろん納税の義務も伴うわけだが、移民、すなわち外国から移ってきた新しい市民と位置付けて、これらの人々にどのような権利を与えるかという論議が日本ではほとんど行われていない。北欧諸国、ヨーロッパ諸国そしてアメリカが今まで受け入れてきた移民の多くは主に経済を理由として移り住んできた人々である。日本が国際社会の一員ならば、地球上で二億を超えると言われる国際移住民への対応を、これ以上先延ばしすることはできないのではあるまいか。

 エリアスという一人の少年が殺されたのはしかし、黒い髪の毛だから、外国をバックグラウンドとする子だから、移民の子だからという理由ではなかったことが、救いようのないこの事件の唯一の救いである。しかし、最後にその本当の理由がわかると、言いようのない絶望感に襲われる。これは日本でも起こりうる、いや、実際にもう起きていることだ。

 今回はマリオン・ブリームが登場する最後の巻である。読者の皆さんは気付かれただろうか。今までの巻でもエーレンデュルのかつての同僚マリオン・ブリームは決して代名詞で表わされることがなかったことを。つまり、彼とも彼女とも呼ばれることがなかったのだ。常にマリオン、またはマリオン・ブリームという名前で言及された。マリオンという名前は男性にも女性にもある名前である。思えば二〇一〇年に作者のアーナルデュルにお会いしたとき「日本語は会話するときに男性と女性の言葉遣いは違うか」と訊かれたことがあった。「違うけれども中性的な言葉遣いにすることはできます」と答えたのだが、実際に訳してみると、中性的な言葉遣いで全ての会話を表現することは、じつにむずかしかった。どんなにぶっきらぼうな言葉遣いにしても、話し手が男性か女性かが言葉遣いに表れてしまう。そこで、マリオンの言葉は気をつけながらも結局男性の言葉遣いで訳したのだが、今回、死の床に臥したマリオンが枕元の小テーブルに置かれた鏡に手を伸ばすシーンがあってドッキリ。しかし、最後までアーナルデュルはマリオンの性別を明らかにしてはいない。
 次回はシリーズ第六作Harðskafi(凍てつく夜)をお届けします。ご期待ください。

  二〇一九年七月
                                                                       柳沢由実子