img_komori


 サマセット・モームの『アシェンデン』を継いで、エリック・アンブラーとグレアム・グリーンのふたりが、そのリアリスティックな筆致によって、ファナティックな冒険小説と化したスパイ小説から脱して、「恐怖小説への転生」(各務三郎)を果たします。アンブラーの『恐怖の背景』『ディミトリオスの棺』『あるスパイへの墓碑銘』、グリーンの『密使』『恐怖省』――スパイ小説からははずれますが、いつ戦争に突入するか分からないという時代背景を全面的に生かした『拳銃売ります』――といった作品が、その成果です。ここで注意が必要なのは、これらの作品は、戦間期か第二次大戦中に書かれていて、東西冷戦を背景にしてはいないことです。連合国対枢軸国という決定的な対立と、その対決の結果が、第二次世界大戦でした。戦争は国力をあげて行う総力戦となり、市民はいつ兵隊にとられるか分からない一方で、戦闘員と非戦闘員の区別が厳格化される。ソヴィエトの成立からスペイン内戦を経て、1948年のベルリン封鎖を、東西冷戦の始まりとするにして、実は、このふたりの作家は、それ以後の状況にすぐに反応できたわけではありませんでした。アンブラーは40年代を通じて沈黙を守り、『デルチェフ裁判』で復帰したのちも、冷戦構造下のスパイ小説を書くことを、当初、慎重に回避しているかのようでした。グリーンは映画「第三の男」の脚本で、冷戦前夜におけるスパイ=フリーランスの政治的犯罪者を、ウィーンの下水道に葬ってみせましたが、その後は『ハバナの男』の喜劇的なタッチや、ジャーナリスティックな取材力を発揮した『おとなしいアメリカ人』といった作品が並びます。イアン・フレミングが『カジノ・ロワイヤル』を書いたのは、そんな時でした。
 かつては『007号の冒険』という書名だったと思いますが、現在は『007/薔薇と拳銃』となっている短編集は、石上三登志が解説を寄せていて、好事家が注目する作家だったフレミングが大ブームとなる過程の、当時の感覚を伝える文章となっています。その中でも『ドクター・ノオ』の映画化で、竜が火を吹くのが「キチンと描かれるのか?」を問題にするところが、この筆者らしく、騎士の竜退治という神話まで遡って意識して書かれた冒険小説としてのフレミング評価なのでした。石上三登志の評価より多かったのが、ハードボイルド(ハメット、チャンドラーのみならず、スピレーンも加えて)の影響を見る人たちでしたが、いずれにしても、冒険小説としてのスパイ小説の復権、ジョン・バカン(紙芝居)を現代的に(大人の鑑賞に耐えるもの)洗練させたものとして、読まれたのです。もちろん、それは、『カジノ・ロワイヤル』に始まる長編小説と、その映画化に対しての評価でした。
 では、短編ミステリにおけるイアン・フレミングとは、何だったのか? その『007/薔薇と拳銃』を読んでみましょう。
 巻頭の表題作「薔薇と拳銃」は、英国通信隊の伝書使の制服姿の男が、早朝のパリを疾走するところから始まります。すぐに、男は、本物の伝書使を射殺する。ボンドはⅯにこの事件の解決を命じられるのです。犯行の描写を始めに置いて、主人公がその解決に乗り込む。倒叙の形ですが、倒叙ミステリを読んでいる気にならないのは、前半の犯行描写に解決の伏線がないためでしょう。真相は微笑ましいほど冗談すれすれです(電撃フリントが似たような発想を実際に画面で見せていました)が、それを「まるでお伽話のなかの景色だった」とぬけぬけと書いてみせます。それに続く「読後焼却すべし」は、フォー・ユア・アイズ・オンリーと原題名がカタカナのルビで付いています。冒頭でジャマイカに住む老夫婦虐殺を描き、この犯人たち(実行犯とそれを指示したバチスタ政権に寄生するドイツ人スパイの黒幕)をボンドが暗殺する話です。カナダ国境近くのアメリカの別荘に住むターゲットのところへ、米カ両国の情報機関の協力のもと、ボンドが潜入すると、老夫婦の娘もボウガンを手に復讐に来ているという趣向です。
 倒叙ふうの対敵探索と、非合法の潜入暗殺作戦。形式的にはディテクションの小説とクライムストーリイということになるのでしょう。『007/薔薇と拳銃』の各編は、大ヒットの途上かブーム到来ののちに書かれたものと思われますが、ボンドを主人公にしさえすれば、あとは、ミステリのパターンやヴァリエーションを存分に使うことで、一編を成立させてしまう。それはシャーロック・ホームズの行き方を連想させます。おかげで、ボンドは様々な事件に首をつっ込むことになり、Ⅿは本来の仕事(諜報活動)以外に部下を使われることを嘆くに到ります。捜査関係者ではないしろうと探偵が事件に首をつっ込む不自然さを、このころのミステリは世界的に廃していきますが、唯一例外となったのはスパイでした。
 三番目の「危険」は、イタリアを舞台に、麻薬輸入ルートの黒幕を探るために、情報を売ろうとしている(つまりスパイになろうとしている)男に、ボンドが接触します。もっともスパイ小説らしいこの話が、しかし、肝心の部分でもっとも甘いというのが、フレミングの通俗性を示しています。「珍魚ヒルデブランド」でのボンドは、休暇中にアルバイト的に雇われた船乗りにすぎません。アメリカの富豪が税金逃れのために、研究目的の財団を作るという、裏話暴露(ちょっとアーサー・ヘイリーっぽいですか)があって、ヒルデブランドという幻の魚を捕獲するという話です。任務のためには殺人も辞さないボンドが、税金逃れのために魚を大量に殺すことには躊躇を感じるというのが、ミソでしょうか。最後の「ナッソーの夜」に到っては、ボンドは話の聞き役にすぎません。当時から、「ナッソーの夜」は、フレミングがストレートノヴェルに色目を使っただとか、これが書けるのは、ジェイムズ・ボンドが絵空事なのをフレミングが承知しているからだとか、賛否あったようです。私には、そのどちらでもない、平凡な因果噺――モームの南海ものと比べてください――の聞き手が、たまたまボンドであっただけのように思えます。

『オクトパシー』には、イアン・フレミングが功成り名を遂げたのちに書かれた3編が収録されています。
「ベルリン脱出」は、射撃場で試射をしているボンドの姿から始まります。東ベルリンに潜入しているスパイが、西ベルリンに逃げてくる。情報漏れがあって、逃走計画が敵の知るところとなっています。逃げてくるスパイを射殺するであろう、相手のスナイパーを、逆に狙撃するというのが、ボンドに与えられた指令なのでした。少々安直に作った感のある設定ですし、現地でボンドが照準越しに見つける女性に関心を持つのも、その後の展開を予想させやすくしていて、型通りに話が進んでいくのは否めません。そういう意味で並みの作品ではあるのですが、結末で、ボンドが相手に与えたダメージを測るところに、リアリスティックで現代的なスパイ戦の冷徹さが出ているように思います。
「所有者はある女性」(007号の商略)も、「ベルリン脱出」同様、シンプルな問題の状況を設定し、その一点に物語の焦点を集中しています。情報部にソヴィエトから送り込まれたスパイの女性がいます。ところが、初めから、彼女がスパイであることがイギリス側には分かっていて、わざと暗号情報を入手できる部署につけて、そこからニセの情報をつかませることで、敵のスパイ活動をコントロールしていたのです。その彼女に長年の活動に対する報酬が、ソヴィエトから支払われることになる。高価な美術品を相続したことにして、彼女に送り、ロンドンで競売にかけるのです。その落札価格が彼女への報酬となる。有名なコレクションのひとつなので、落札者はほぼ予想できる。あとは、競り合うことで値をつりあげて、彼女への充分な報酬にするのですが、ということは、競合者でありながら落札直前で降りた者はソヴィエトのスパイだと分かる。ボンドはコレクションの落札予定者に接触し、会場にいるであろう、値を吊り上げるための参加者の特定を試みます。競売の実際(商品の説明文なんて出てくる)を取材したであろうこと明白な一編です。
「オクトパシー」は、ミステリマガジンに掲載された際には「007号の追求」という題名でした(正しくは追及でしょうが)。これなど、ボンドはほとんど登場しないようなものです。第二次大戦中の軍の情報部にいた男が、職務の途中でドイツ軍の隠した金塊を発見し、私してしまう。それを資産に、戦後は悠々自適の生活ですが、妻に先立たれ、自らも二度の心臓発作を経験したところで、過去の犯罪を追及にやって来たのが、ボンドなのでした。
こうして読んでいくと、一応はスパイ小説としての形を成している「ベルリン脱出」「所有者はある女性」で描かれる事件そのものよりも、「オクトパシー」でボンドが追う、老いた犯罪者の在りよう、それも、カサゴの毒と、タコがそれでもなお、カサゴを食べるかに関心を持っているという、退役したジェントルマンの在りようにこそ、フレミングの筆が発揮されていることに気づきます。

 スパイ小説について考えるときに、エリック・アンブラーとグレアム・グリーンを抜きにすることは、まず無理です。グリーンについては、スパイ小説に限らず、秀れた短編小説の書き手として、のちにまとめて読むことにします。それに、自らのアンソロジーに「I spy」を選んだアンブラー(前回紹介した『スパイを捕えろ』です)は、グリーンが書いたスパイ短編は、これ一つしかないと断言していますからね。
 そのアンブラー自身、短編ではスパイ小説を書いていないからと、『ディミトリオスの棺』の一章を、短編として収録するという挙に出ています。もっとも、アンブラーには、それらしき短編が、ふたつ翻訳されています。丸谷才一のアンソロジーに採られた「影の軍団」と、ミステリマガジンの20周年記念号に掲載された「血の協定」です。
「影の軍団」は丸谷才一がいたく感心してみせた(終り方が大切)一編です。語り手は作家らしいのですが、妻の親戚である友人の外科医が、一年前にベルグラードへ国際会議に行った折に奇妙な体験をして、それを小説ふうに書いたものを読むという体裁です。ベルグラードからの帰り道、スイスのドイツ国境付近の雪の中で、運転する自動車がエンストしてしまう。助けを求めて見つけた山小屋が、実は反ナチスの地下組織のアジトで、そこで宣伝用のパンフレットを印刷していたのです。パンフレットは危険を冒してドイツ国内に運び、撒いていたのでした。知られたからには帰せないと、イギリス人医師には不穏な展開となりますが、そこに、ドイツへ入っていた仲間が撃たれて負傷しながらも生還してくる。
 一切の説明抜きに――また、説明は不要ですが――雪の山中での事件を描いて、終始します。医者の経験した事件と、その手記を作家が読むまでの、タイムラグが一年。その間に英独開戦が挟まるのを、そうとは書かずに示してみせた佳品でした。もっとも、丸谷才一が「終り方が大切」と称賛した結末のニュアンスは、この訳では生きていない気がしますが。
「血の協定」は、南米の架空の国のクーデターを描いています。独裁的な左翼政権の大統領に反して、軍部が中心となってクーデターを起こします。気配を悟っていた大統領の誤算は、クーデターが自分がアメリカに行っている留守ではなく、国内にいるときに起きたことでした。クーデターの段取り――どこを占拠するのか――の筆致が細かいのは、さすがです。海外のプレスを引き連れて、クーデターを率いる将軍は、大統領に権限移譲のサインを求めます。そこで、大統領のとった反撃とは……という話。スパイ小説というよりは、のちの『ドクター・フリゴの決断』あたりを想起させる政治小説ですが、大統領の策略の細部に、呑み込めないところが残ります。
 エリック・アンブラーの二編は、それなりに楽しめますが、それでも、アンブラーの長編ほどの魅力はありませんでした。
 グリーン、アンブラーといった人たちに限らず、スパイ小説は、歴史的に長編が主導してきました。それでも、007が大ブームになれば、フレミングにはボンドを主人公にした短編を求める声が聞こえたことでしょう。まして、ブームに乗ろうとする作家が出るのは当然で、エドワード・D・ホックのシリーズキャラクターにさえ、スパイは存在するのです。あるいは、パトリシア・マガーにも。セリナ・ミードという才媛の女スパイのシリーズを、マガーは長編を含めて、多数書いているそうですが、節目の作品は邦訳があります。
 まずシリーズ第一作の「危険の遺産」は、ブームのさなか1963年に書かれました。イギリス保安部Q課の部員である夫サイモンの死から始まります。突然の死は他殺ですが、Q課によって事故死に見せかけられ、そう発表されます。一方で、死の原因をつきとめるため、妻のセリナは夫の死の直前の様子を思い出そうとします。
「危険の遺産」は凡庸な短編でしたが、このシリーズの本邦初紹介の「旅の終り」は、1968年に開催された、EQMMのMWAコンテスト第一席作品として、ミステリマガジンに掲載されました。EQMMが60年代後半に行ったCWAとMWAに作品を募ったコンテストは、のちにまとめて振り返ります。とくにCWAコンテストは、クリスチアナ・ブランドやP・D・ジェイムズの活躍が無視できません。それはともかく、マガーの「旅の終り」は、「危険の遺産」で死んだサイモンとのなれそめを書いたものでした。ヴァッサー大学卒業を目前にしたセリナが、西ドイツの空港で、東側の人間らしい見知らぬ男からマッチ箱を渡されます。彼女が選ばれたのは、目についた最初のアメリカ人だったからでした。マッチ箱の中にはマイクロフィルムがあり、イギリス人を装っていた怪しげな男が近づいてくる。これぞ恐怖小説に転生したスパイ小説ならではの展開です。「旅の終り」は、ご存じセリナと彼女が女スパイとなるきっかけを作った亡夫との出会いの一編として読まれるべきものなのでしょうが、如何せん、本邦においては、これが初紹介でした。窮地に陥ったセリナが、わずかに交わしたサイモンとの会話から、手がかりを得ていくサスペンスに面白さはありますが、ロマンスの甘さがスパイ事件に巻き込まれる怖さを相殺しているのも事実でした。
 さらに1976年の「ロシア式隠れ鬼」では、病床にあるかつてのヴァッサー大の同級生――帰化ロシア人二世――の頼みから、モスクワ旅行を敢行し、共産主義国家の偉大な詩人である祖父の晩年の詩を持ち帰ることになります。いかにも危険な匂いのする、このプライヴェートな旅行は、再婚相手(そもそもサイモンの連絡係だった)に内緒なのです。ツアー旅行とはいえ、共産圏への潜入を果たし、合言葉を待つというサスペンスを見せる一方で、それを使ってきた相手はQ課だったのでした。
「旅の終り」のセリナは確かにスパイとしてアマチュアの女性ですが、ふたりめのQ課員の夫を持ち、自身もその仕事をしながら、「ロシア式隠れ鬼」でのふるまいは、さすがに少女探偵そこのけの甘さでしょう。ある傾向のミステリがブームになれば、そのブームに乗ってナンシー・ドルーが書かれる。そのスパイ小説での例でした。80年代から90年代に女性探偵がブームになったとき、スー・グラフトンを読んで、同じように感じたことが、私にはあります。日本では叙述に凝った長編ミステリで、その名が知られるパット・マガーですが、こういう流行に乗る一面もあったのでした。


※ EQMMコンテストの受賞作リスト(最終更新:2014年11月5日)