いささか不思議な経緯で紡がれた本作について、まずは語ろう。
 二〇〇六年──この年、サンライズ制作のアニメーション作品『ゼーガペイン』がTV放映された。本小説はその『ゼーガペイン』と同一の世界観で展開される。
 『ゼーガペイン』の舞台は二〇二二年の舞浜。主人公のソゴル・キョウと友人のトミガイのキスシーンを、映画研究部のカミナギ・リョーコが撮影しているところから物語は始まる。水泳部のキョウはプールにいた謎の生徒を探すが──当時リアルタイムで見ていたぼくはその伝奇的な一話目から引き込まれて、最終二十六話まで見逃すことはなかった。
 そしてそれから十年後の二〇一六年、ぼくは劇場用アニメーション『ゼーガペインADP』のSF考証になり、さらには本作の原型となる『エンタングル:ガール 舞浜南高校映画研究部』をサンライズの公式ウェブサイト〈矢立文庫〉で連載することになった。ぼくにとっては初めてのSF考証であり、初めての連載だった。
 すべては、以前インタビューさせていただいたAI研究者の三宅陽一郎さんに、『ゼーガペイン』のデザインディレクターであるハタイケヒロユキさんを紹介されたのがきっかけだった。ハタイケさんはぼくが二〇一四年に第五回創元SF短編賞を受賞した「ランドスケープと夏の定理」を読んで、TV放映から十年後の新しい『ゼーガペイン』のSF考証として声をかけてくれた。「ランドスケープと夏の定理」を書き始めるとき──グレッグ・イーガンの作品群と共に──意識していたのは『ゼーガペイン』だった。ぼくが『ゼーガペインADP』のSF考証になったことで、十年に亘るループ構造が完成したと言っていいだろう。
 ループとは環(わ)のこと。時がループすれば──あるいはフィルムがループすれば──その環に閉じ込められた人間は同じ時を繰り返す。

 二〇〇六年から見た二〇二二年と、この二〇一九年から見た二〇二二年は、大きく変わっている。『ゼーガペイン』はスタッフの先見の明によって、当時主流だった4:3の比率ではなく、16:9のハイビジョンサイズで作られているし、テーマはまったく色褪せていない。VRもAIもようやく認知されてきた。そして研究者や開発者には『ゼーガペイン』の熱烈なファン──セレブラントが少なくない。
 だから大きく変わったのは──作品ではなく──この質量を持った現実世界であり、ぼくたちのほうだ。ぼくたちが『ゼーガペイン』の速度に追いついたのだ。
 担当編集の小浜徹也さんは本作の出版までの経緯を説明するにあたり──それはたとえば花澤香菜さんに解説を依頼するときにも──「『ゼーガペイン』の世界が持っている可能性を信じて、放映から十三年後のスピンオフ出版を決断しました」と言っている。それは今から三年前、ぼくが矢立文庫版の連載を始めるときに感じていたこととぴったり重なる。例によって『ランドスケープと夏の定理』と同様、春過ぎから夏にかけての小浜さんとの原稿の往還を経て、そのまえには同じく東京創元社の笠原さんにも読んでいただいて、本作は徐々に今の形に近づいていった。
 カバーイラストは連載時と同じく、あきづきりょうさんにお願いした。その素晴らしさは言うまでもない。ご自分の連載マンガの準備中という大切な時期に何度もやりとりをさせていただいた。ここで改めて感謝を。
 そして解説は『ゼーガペイン』『ゼーガペインADP』でカミナギ・リョーコを演じられた、花澤香菜さんに書いていただいた。
 春頃ぼくか小浜さんだっただろう、花澤さんに解説をお願いしてはどうかと話し始めてはいたのだけれど、当然なかなか難しいだろうと二人とも思っていた。花澤さんの『ゼーガペイン』以降の活躍と多忙さは、その出演/主演されている作品の数でいっても質でいっても明らかだから。しかしサンライズの担当のみなさんの尽力があり、もちろん花澤さんと所属事務所の御厚意があり、今回の運びとなったのだ。ぼくと小浜さんとサンライズの担当の方の三人で花澤さんの事務所におうかがいしたのは梅雨の晴れ間だった。その帰り道、その担当の方に御礼を言ったときの彼の言葉は今も覚えている。「私は特別なことは何もしていません。花澤さんの『ゼーガペイン』への想いがあったから実現したんです」花澤香菜さん、大沢事務所のみなさん、サンライズのみなさん、ありがとうございます。
 本作の内容については花澤さんの解説に敵うものはないだろう。ぼくにも誰にも到達できない、深くて広い分析をしていただいている。ぼくがここで書けることと言えば、連載時の一人称から三人称に変えた苦労話くらいだ。
 人称変更を言い出したのはぼくだったと思う。連載時と視点が違うというのは、不確定性原理に支配された量子世界的だし、了子の内面をもう少し離れたところから書けるのではないかと思ったのだ。一人称であまり分析的なことを書き連ねるのも難しいなとも思っていた。了子は京のようには数学や物理学にくわしくないという設定もある。
 しかしそのようなぼくの些細な思惑は、改稿作業を通して、ほとんど消えてしまった。了子はぼくが考えていたところよりもずっと遠くに行っていて、ぼくなどよりも遥かに量子世界を理解していた。
 普通のオリジナルの小説では、ぼくが登場人物の性格や行動を書くことで、その人物が存在するようになる。彼女たちは元々いないからだ。『ランドスケープと夏の定理』の語り手ネルスやその姉のテアのように。しかし今回の『エンタングル:ガール』はまったく逆だった。カミナギ・リョーコもソゴル・キョウも『ゼーガペイン』の中に明らかに存在していて、ぼくは彼女たちがどう行動するかを予想しながら書いていたのだ。こういうとき彼女はこうは言わないだろうなんて考えながら。
 そういう基準あるいは感覚は、改稿作業の最終盤まであったのだけれど、と同時に、ぼくの中に守凪了子や十凍京が存在するようになった。彼女たちの葛藤があたかも自分のもののように感じられるようになったのだ。了子から距離をとろうとして、三人称にしたにもかかわらず、だ。
 それはとても不思議な体験だった。TV放映から十三年、連載時から三年が経っていて、その分だけ思い入れが深まったという面もあるだろう。しかし思い入れだけでは小説は書けない。ラブレターは書けそうだけれど。
 おそらくは三人称に書き直していく中で、いったんは──当初の思惑の通り──了子たちとは距離ができたのだ。改稿初期の原稿はひどく素っ気なくて、その段階で読んだ笠原さんには多大なるご迷惑をおかけしてしまった。そこから半年をかけて、『ゼーガペイン』の中に存在するリョーコの助けも借りながら、『エンタングル:ガール』における了子の存在の濃度を上げていったのだと今は思う。在と非在のはざまで──近松門左衛門のいう〈虚実皮膜〉のなかで──本作は一つの、あるいは複数のループを描くことができた、というと言い過ぎだろうか。
 ただ、少なくともこうした書き方のおかげで、〈手癖〉で──これまで書き慣れた手法で──書くことは避けることができたのではないか、と思っている。それが多少なりともぼくの勘違いでなかったら、この三年間の苦労なんて何の問題でもなくなってしまう。
 連載時初登場の深谷天音と飛山千帆と渦原晋介も、かつてのぼくからはなかなか出てこないキャラクターになったと思う。三人については花澤さんから過分な言葉を頂戴したわけだけれど、ぼくとしてもこの三人はだいすきで、事あるごとに活躍してもらった。
 『ゼーガペイン』において「3」または「2+1」の関係性は重要で、読み解いていく上でも、もちろん書き進める上でも、貴重な手がかりになった。たとえば天音と千帆と渦原の三人は、了子が入学する一年前にも同じ映画のスタッフであり、ささやかな気遣いを互いに交わしている。了子と天音と千帆は映画制作の中心であり、三人の織りなす関係性は書いていて心地よかった。ひとりひとりを、三人のもつれ合いを通して描けたように思うからだ。
 とはいえ記憶も記録も消え、あるいはほどけてしまう物語を書いておきながら、それでもなお書き手の意図だけは残るなんてことはありえない。すべては不確定のまま、ひとまずは現在の状態に留まっているだけだ。
 量子力学によれば、物理状態は観測されるたびに確定する。あるいは観測されていないとき、不確定のまま、ぼくたちは何も語ることはできない。願わくは本作が、読まれるたびに状態が移り変わる、量子的な『エンタングル:ガール』であらんことを。そしてそのたび──ループごとに──新しい面白さが生じるとすれば、もはや何を望むこともない。環はエレガントに閉じて、新たなループが開かれていく。

 二〇一九年 一年前と同じく、暑い夏に覆われた東京にて

■高島 雄哉 (たかしま・ゆうや)
1977年山口県宇部市生まれ。徳山市(現・周南市)育ち。東京都杉並区在住。東京大学理学部物理学科卒、東京藝術大学美術学部芸術学科卒。2014年、第5回創元SF短編賞を「ランドスケープと夏の定理」で受賞(門田充宏「風牙」と同時受賞)、2018年に、これを長編化した初の著書『ランドスケープと夏の定理』を上梓。同書は新人作家の第一作ながら『SFが読みたい!』で国内編第5位となり、2019年の星雲賞日本長編部門の候補となるなど高い評価を得た。また、2016年の劇場用アニメーション『ゼーガペインADP』ではSF考証を担当、以降『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』『ブルバスター』など多くの作品に参加している。