青春時代に出会い、その後の人生で再会することがなくても、折に触れて思い出すようなひとに、誰しも憶えがないでしょうか。ひとによって“かれ”は皆から慕われるクラスの人気者であったり、たまにしか授業に出席しなかった不良だったりするでしょう。あるいは教室の片隅で、いつも静かに本を読んでいた誰かかもしれません。
一方、学校という小さな箱庭のなかで、あれほど輝きを放っていたのに、卒業して時が経つにつれて、いつの間にか忘れてしまった――そういうひとも、きっと誰しもの人生のなかに一人ならずいるのではないでしょうか。

『漣の王国』という小説には、四人の登場人物、それぞれの人生をめぐる物語が収められています。彼や彼女が日々のなかで出会う謎は、ほかのひとから見れば些細な、しかし一人一人にとっては大切なものですが、そこには通底して一人の青年の影が落ちています。
綾部蓮とよばれるその青年は、神の贈り物と呼ぶべき肉体と才能に恵まれ、水泳の世界で栄冠を手中に収めるだけでなく、その美貌を以てして男女を問わず周囲に仲間を侍らせていました。昼の大学の構内で、夜の京都の街中で、絶えず彼は「小さな王国」を築いていた――彼のことを知る登場人物の一人は、そのように語ります。それでいて、ほかの登場人物は同じ青年に対してこうも言う――美しくて、うつろだった、と。
あらゆる恩寵に浴していながら、それでいていつも退屈を持て余していた青年。だからこそ彼が「小さな王国」を手放して自ら命を絶った時、その理由を知る者もいませんでした。

四編の小説で語り手の役割を与えられた登場人物たちは、それぞれがかつて綾部蓮と出会ったひとです。彼に憧れたひと、「王国」の外から彼を見ていたひと、そして「王国」から追放されたひと、そして彼と同じ業を背負うひと――彼もしくは彼女は、その後の歩んできた道も時間も場所も異なるなかで、不可思議な謎に出会います。人生のなかに不意にたちのぼった謎を解き明かすうちに、綾部蓮という青年のことを思い出すのです。

大学の女性水泳選手が頼まれた、まだ生まれ得ぬ命をめぐる奇妙な父親探し――「スラマナの千の蓮」
修練期を残りわずかにして、蔓薔薇の咲き誇る教会から姿を消した若き修道女の行方――「ヴェロニカの千の峰」
東京で暮らす主婦の許に届いた、異国の地にいる友人からの贈り物にこめられた不思議な伝言――「ジブリルの千の夏」
そして、なぜ青年は自ら命を絶ったのか――「きみは億兆の泡沫」

若くして亡くなったひとは、私たちの記憶のなかで永遠に時を止めます。私たちが互いに別の道を歩み続けるなか、いつふり返ってもそのひとは同じ地点に留まったままです。けれども、誰かと出会うということは、会って話したり寄り添ったりする時間と同じくらい、会わなかった時間もきっと大切なもののはずです。なぜ、あの時あのひとはあんなことを言ったのか、あるいはあんなことをしたのか。永遠に変わることのない過去の出来事と対面することで『漣の王国』の彼らと同じように、きっと私たちの現在にも、新たな変化があるのではないでしょうか。

最後に、著者の岩下悠子さんのご紹介をしたいと思います。
岩下悠子さんの作家としての出発点は脚本の世界からです。『相棒』『おみやさん』『科捜研の女』などミステリ・ドラマの脚本も数多く手掛けていて、今も精力的に新作を執筆されています。
1997年に「砂の蝶」で脚本の公募新人賞である城戸賞を受賞後、上記のような人気シリーズだけでなく『フェイク 京都美術事件絵巻』『東京スカーレット 警視庁NS係』で、メインライターも務めています。近年では映画『3月のライオン』で大友啓史監督と共同脚本を担当するなど、脚本家として高い期待の集まる人物です。
2012年に短編小説「熄えた祭り」〈小説新潮〉に発表、同作から始まる女性監督・美山と脚本家・鷺森を主役に置いた連作を一年に一編のペースで執筆ののち2017年に連作長編『水底は京の朝』を刊行されました。
京都の撮影所を舞台に、濃密な幻想性を纏った謎が心理学的モチーフを交えて解き明かされていく同書はミステリとしての完成度も高く、同書所収の一編「鬼面と厄神」(雑誌掲載時の「水底の鬼」から改題)は、書籍化される前から本格ミステリ作家クラブ編『ベスト本格ミステリ2014』(講談社ノベルス)にも選ばれて評価を得ました。刊行後も『かつくら』の「マイベストブック」特集で、推理作家の法月綸太郎先生が印象に残った本の一冊に選んでいます。その『水底は京の朝』に続く単著が、この度刊行された『漣の王国』となります。

担当編集者としてひとつひとつの短編をいただいたとき、そしてひとつの小説として通して読んだとき、今まで読んできたどの小説とも異なる、味わったことのない感動を強くおぼえました。きっと、この感動は、誰もの心の深くまで降るものと確信して、この本を送り出したいと思います。(T・F)