「週刊文春」主催の2回の東西ミステリーのオールタイム・ベスト企画で、1985年版では23位、2012年版では53位と、ベスト100にしっかりランクインしています。
今回、その新訳をジョエル・ディケールの『ハリー・クバート事件』やピエール・ルメートルの『その女アレックス』の訳者、橘明美さんにお願いしました。解説者の新保教授曰く、新訳で「一段と女ぶりを上げた」!
この機会に作品リストを見直し確認をしてみると、なぜこんなことになっていたのか、という不思議な誤りをいくつか発見し、かなり慌てました。
今回の作品リストは基本的に執筆年順になっています。というのは、かなりの作品がフランスでの刊行前に原稿がこちらに届き、創元推理文庫に収録されたという経緯があったからなのです。当時のことがはっきりわかる人間はすでにおらず、エージェントで当時アルレー関係を見ていてくださった方も今や泉下の人。経緯がすぐにはわかりません。
リスト中で特に以前と大きく違っているのは、
『死体銀行』(La Banque des morts)が、Les Beaux Messieurs font comme ça の改題とあったのが、まったくの間違いで(古いフランスの資料に間違いがあったものをそのまま使ってしまったようです)、Les Beaux Messieurs font comme ça は、『死者の入江』(La Baie des trépassés =死者の入江)の初出時のタイトルで、ひょっとして、推理文庫の『死者の入江』というタイトルが逆輸入され改題されたのかしら、と思いましたが、残念ながらそうではありませんでした。1959年にイギリスでDead Man's Bay (=死者の入り江)というタイトルで刊行されていたのです。創元推理文庫は、その後の刊行ですから、その英題を踏襲したのでしょう。
なにしろ、本国フランスですっかり忘れられた作家となってしまっているアルレーですから、しっかりした書誌がないのが頭の痛いところです。フランス・ミステリに関して最も信頼できる、クロード・メスプレードによる Dictionnaire des littératures policières でさえ、2007年の第二版でも、アルレーは故人扱いされていたのです。
悩みつつ編集作業を進め、すべてを校了にしたところで、フランスで『わらの女』の新版が出たことを知りました。慌てて取り寄せると、J. C. LATTES に版元が移った新しいMasque 叢書の一冊として今年6月に刊行されたものでした。そこには、Nicolas Perge なる人物による前書きがあり、衝撃的な事実が語られていました。
2013年のこと、このニコラス・ペルジュ氏がなぜか、どうしてもカトリーヌ・アルレー女史にコンタクトを取りたいと思い、あらゆる手段を講じてついに16区の彼女の自宅の電話番号を入手。そして思い切ってその番号にかけてみたところ、受話器から聞こえてきたのがあまりに病み衰え憔悴しきった声だったため、ぎょっとして、電話を切ってしまったのたそうです。
このペルジュという人物は、実はフランス・ミステリ界の重鎮フランソワ・リヴィエールとの共著でアガサ・クリスティの失踪の謎を扱った小説 Agatha, es-tu là ? という著書もあり、バンド・デシネの原作なども多い30代後半の脚本家で小説家ということもわかりました。
地獄の底からとでもいうような声に恐れをなして受話器を置いてしまったあとも、やはりどうしてもアルレーの現在を知りたいという思いがつのった彼は、ネームヴァリューのあるF・リヴィエールの名前を借り、アルレー宛に書状を認め送ったのだそうです。すると数週間後、彼のもとに一本の電話が……。
マダム・アルレーの介護をしているという、その感じのいい女性の声が告げたのは、「マダムは、アルツハイマーが進んで、もう何もおわかりになりません。もう何もお答えすることはできないのです」
1983年に来日した折にお会いし、その後、ニコラス・ペルジュ氏が電話をしたという16区のアパルトマンを90年にお訪ねしておしゃべりもした、あのアルレー女史が今は、何もかも、御自分が書かれた多くの小説のことも忘れ、アルツハイマー病の霧の中をさまよっていらっしゃるというのは、無常としか言いようがありません。
来日時も、パリでお会いしたときも一緒だった、夫のギー・マルリー氏とは離婚されたということを風の便りに聞いたのと、阪神淡路大震災の後、「あなたは無事か ?」というお手紙をいただいたのはどちらが先だったでしょう ?
新訳版『わらの女』が出て、また日本で新たな読者を獲得するにちがいないということが本人に伝わらないということは、なんとも悲しく寂しいことです。
ところで、ニコラス・ペルジュ氏のアルレーへの思いの強さは、彼女の日本での評価についても、先に述べた東西ミステリ・ベストのことにまで言及していることからもわかります。ですから、フランス本国でのカトリーヌ・アルレーの見直しや研究も進むのではないかと期待がふくらみます。
そして日本でも、同じようにカトリーヌ・アルレーという稀代の作家が見直されますように。
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カバーデザインは柳川貴代+Fragment。
柳川さんが選んでくださった写真の時代を感じさせる女性の服装とライティングデスクの雰囲気がぴったり、と訳者の橘さんと喜び合いました。
柳川さんが選んでくださった写真の時代を感じさせる女性の服装とライティングデスクの雰囲気がぴったり、と訳者の橘さんと喜び合いました。
編集部M・I