というわけで、前項の『アイル・ビー・ゴーン』は、密室などの謎(奇想)や、トリック・推理(ロジック)の人工臭を全く感じさせず、その要素を取り入れた作品であった。これと対照的なのが、陣浩基の16作から成る短篇集『ディオゲネス変奏曲』(稲村文吾訳 ハヤカワ・ポケット・ミステリ 1700円+税)である。


 たとえば冒頭の「藍(あい)を見つめる藍」。主人公らしき人物が、若い女性のブログを隅から隅までチェックし、個人情報を特定していく。その行為はストーカーにしか見えず、それは遂には具体的な犯罪にエスカレートしてしまう。しかしこの物語は、見かけ通りではない意外な真相を擁(よう)する。作者は書き方に工夫を凝らし、叙述トリックを仕掛けることで、真相を隠す。

 ここで指摘したいのは、トリックが作品に対する読者の印象を決定付けていることだ。それは作話上の技術である以前に、この小説の構成・構造、もっと言えば価値そのものである。つまり、コンセプト/アイデアそのものが、生(なま)のままで、評価対象となるのだ。一方で、情景描写に依拠する要素――本作ではストーキング行為の気色悪さや、クライマックスまで途切れないサスペンス――は、副次的な要素に止(とど)まる。

『ディオゲネス変奏曲』所収の短篇は、ほぼ全て、このように、作者のコンセプト/アイデアが露出しており、それを作品の要(かなめ)、根幹としている。

 本書の所収短篇はバリエーション豊かだ。叙述トリック以外の手も多数使われている。戦隊ものの悪の組織で怪人殺しが起きる「悪魔団怪(殺)人事件」、受講生に紛れ込んだ教授の助手が誰かを推理する「見えないX」は、犯人当て(フーダニット)として完成度が高く、特に後者は本書の白眉(はくび)を成す。「頭頂」「時は金なり」「珈琲(コーヒー)と煙草(たばこ)」は、オチに捻(ひね)りが利いた怪奇幻想譚だし、「作家デビュー殺人事件」は、推理作家の志望者が、実際に殺人を犯せと焚きつけられる倒叙ものだ。ジャンルはバラバラ、物語の雰囲気もさまざまで、作者・陳浩基の抽斗(ひきだし)の多さには感心する。ただしいずれも、基本的な着想や構成が、作中でシンプルかつ明確に示され、感傷、文章表現、物語背景、人物造形等で魅せようとしていない点では見事なまでに一致している。登場人物も、必ずしもその人物像でなければならなかったわけではなく、全く別の人間に設定しても、話としては機能した、という作品が非常に多い。

 誤解して欲しくないが、こういう仕上がりになった原因は、筆力不足ではなく、明らかに作者の意図だ。論より証拠、作者の前作『13・67』は、本質こそ本格ミステリであったものの、香港小説、歴史小説そして警察大河小説としても十分読めた。今回はより純化が図られており、着想それ自体を物語の表面に露出させている。

 こういった作品は、国内の本格ミステリには多いが、翻訳ミステリでは長らく希少種だった。しかし近年は、極東地域で次第に勢力を伸ばしてきた。『ディオゲネス変奏曲』は、その頂点の一つだろう。

 さてここで、仕掛け自体もさることながら、その処理方法が凄い作品として、セバスチャン・フィツェック『座席ナンバー7Aの恐怖』(酒寄進一訳 文藝春秋 2250円+税)を挙げておきたい。
 ブエノスアイレス発ベルリン行きの超長距離便に乗り込んだ精神科医クリューガーは、ベルリンにいる出産間近の娘を人質にとられ、搭乗している飛行機を落とせと命じられる。彼は、元患者の客室搭乗員チーフの暗い過去を蒸し返し、凶行の実行犯として操る準備を始める一方、密(ひそ)かに、ベルリン在住の元恋人に連絡を取って、助けを求める。

 ストーリーは二転三転し、息をつかせない。特に機内のパートは圧巻だ。あんなに狭い閉鎖空間で、新たな展開をよくここまで次々に繰り出せるなと感心する。過去の出来事を小出しにして、緊張感をじわじわ上げていく手法も心憎い。

 ビクトル・デル・アルボル『終焉の日』(宮﨑真紀訳 創元推理文庫 1400円+税)は、仕掛けの結果として現れる人間ドラマが強い印象を残す。


 スペイン民主化直後の1980年、弁護士マリアは、自分に名声をもたらした4年前の事件が、実際には陰謀によるものだったと知る。その陰謀が、再び動き始めた。

 この一方で、40年前のフランコ政権下で起きたある一家の悲劇が、当時の人物の視点から語られる。作者は、時に隔(へだ)てられた二つの物語を呼応させ、徐々に、両者の関係を明らかにしていく。複雑に絡み合った人間関係と、数奇な宿命の果てに、過去と現在、双方の人々の深い悲哀が現れる。しかも底に渦巻くのは間違いなく怨恨。「恩讐の彼方(かなた)」にならぬ、「怨讐(えんしゅう)の彼方」に、と呼びたくなる作品だ。