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 マージェリイ・フィン・ブラウンの「リガの森では、けものはひときわ荒々しい」は、『エドガー賞全集』で初めて邦訳され、たぶん、その後、どのような形でも活字になっていないはずです。著者の正体も不明のままで、長編の邦訳が一冊あるようですが、内容は分からず、私もそれを目にしたことがありません。エドガーを受賞した直後に、小鷹信光が「パパイラスの舟」の1回分をさいて(バルティック海の幻想の船旅=ミステリマガジン71年9月号)、詳しく内容を紹介したことがありました。そのおりも、わけの分からない小説として終始していて、短編を読むというよりは、格闘するさまといった感じの文章になっていました。『エドガー賞全集』の解説でも「結局どうしても私の波長にはあわなかった作品」としています。
「リガの森では、けものはひときわ荒々しい」は、ある老嬢の一人称です。彼女は自分が平凡な女だと言いますが、言ったはしから語る経歴は、とても平凡ではありません。彼女は八か月前に心臓発作を起こし、以来、抗凝血剤であるクォラジン(主成分のワルファリンは殺鼠剤の主成分でもあると、言っている)を服用しています。彼女のひとり語りは、実在するのかどうか不明なものも多い、固有名詞や引用に満ちていて、そうした語の使用は、いささか脈絡を欠いているうえに、形容詞と名詞の組み合わせさえも、脈絡を欠いていて、「一種の譫妄状態」と小鷹信光が書くのも、当然のように思われます。
 低線量の悪意に満ちたモノローグの果てに、鏡に向かう彼女の姿の顔の部分が、ぽっかり欠けてしまうという、ファンタスティックな事態(しかし、それは彼女にそう見えただけかもしれない)が出現し、翻訳ではとてもニュアンスが伝えられるとは思えないサゲで一編は唐突に終わります。
 深町眞理子が平然と訳したものとはいえ、小鷹信光に分からないものが、私に分かるとも思えません。その難解なこと、リース・デイヴィス「選ばれたもの」など比ではありません。この作品についての、日本での評価は皆無だと思いますが、それも当然です。しかし、60年代のMWA賞短編賞が目指し、到達したものの、ひとつの極点が、この作品であったことだけは確かです。ここには、ミステリというあらかじめ区切られたジャンルは存在しません。女性向けと思われているマッコールズに掲載された、クライムストーリイと言えるかどうかさえ判然としない、ミステリ作家とはとても言えない正体不明の作家による、幻想的な作品に、年間最高のミステリ短編という栄誉を与えたのです。一読読者を拒んでいるかのような脈絡のなさと引き換えに、不穏で怪しげで人を困惑させるだけの世界を巧妙に築きあげた。最低限でも、それだけは確かでしょう。この作品を真に読めたと思う日が来るのかどうか、私には分かりませんが、この短編が1970年のMWA賞短編賞の受賞作であるという事実だけは、未来永劫動くことはありません。

 71年の受賞作は、ロバート・Ⅼ・フィッシュの「月下の庭師」でした。フィッシュの名は、60年代の日本において、すでにシュロック・ホームズの作家として有名で、私がミステリを本格的に読み始めた70年ごろには、ウィリアム・ブルテンの「読んだ男」シリーズと双璧をなす、パロディないしはパスティーシュ系列の代表者でした。長編では殺人同盟のシリーズの評価が高かったのですが、処女作の『亡命者』も良い作品だった記憶があります。
「月下の庭師」は、隣家の男が夜中に木の植え替えをしていて、おまけに細君の姿が見えないのは怪しいという、婦人の訴えを若い巡査部長が聞いています。消えた細君が交通機関を使った形跡はなく、ますます怪しいのですが、木の植え替えだけでは逮捕はできない。死体も出て来ない。しかし、こういう話はすでにいくつも書かれていて、ありきたりなミステリなことに変わりはありません。実際、最後に細君が現れたところでは、ほぼ予想通りの展開と思いきや、その後のもうひとひねりが、この作品にエドガーをもたらしたのでしょう。確かに、そのツイストは、作品全体の見え方を一変させる、単なる意外性以上のものがあります。しかしながら、若い巡査を描き、捜査側を描くというそのこと自体が、当時のMWA賞受賞作の中にあっては、この作品を平凡な、ミステリの範囲内のクリシェで書かれたものに見せていることも事実です。
 翌72年の「紫色の屍衣」はジョイス・ハリントンのEQMMデビュー作でした。73年のハーラン・エリスンに次いで、74年にはルース・レンデルの初期の短編「カーテンが降りて」が受賞します。ハリントンとレンデルのふたりは、70年代のミステリマガジンのツートップといったところで、このふたりの作家が、短編のクライムストーリイを牽引していました。そこに、イーリイやハイスミスの旧作と、年一回のエリンの新作が挟まるという状態です。
「紫色の屍衣」は、終始一貫して静かなたたずまいのうちに、夫殺しを遂行するヒロインの話です。毎夏訪れるアートコロニーのキャンプで、夫は毎年一夏の相手を見つけては夏の終わりに捨てていたのです。状況も人間関係も可不足なく描かれ(しかも、今年のお相手は妊娠してしまうというオマケつきでした)て、ただ、彼女の内面だけは慎重に描写が避けられています。「紫色の屍衣」は、端正に創り上げられたクライムストーリイです。しかし、ウールリッチの「さらばニューヨーク」まで遡れとは言いませんが、三年前にジョー・ゴアズが「さらば故郷」で、同じ賞を得たときの新鮮さはありません。もっとも、これは、極めてレベルの高い、しかも、MWA賞受賞作の意味を考えるという、特殊な文脈での評価です。私に関していえば、「さらば故郷」「さらばニューヨーク」も、「紫色の屍衣」より後に読んでいて、事態の推移を端然と描いていくだけのクライムストーリイの魅力を、私に教えてくれたのは、ジョイス・ハリントンとルース・レンデルだったのです。
 ルース・レンデルの「カーテンが降りて」は、「ハエトリ草」に続く、レンデルの本邦登場第二作です。これは、たいへん珍しいことですが、「カーテンが降りて」は、MWA賞を得るより先に、ミステリマガジンに邦訳されました(75年3月号)。長じて青年となった主人公が、8歳のときにとても危険なめにあったという一画を訪れる。記憶は失われていて、過保護の気味のあったらしい母親の危機感だけが、当時何が起きたかを暗示している。そこで若者が当時の彼と同じくらいの男の子と出会うことで、ストーリイが動き始めます。40年ぶりくらいに読んだ「カーテンが降りて」は、「自分自身の中に、もう一人の他人が存在し、どうしても拭いきれない汚物が付いているように感じた」といった描写に、レイプの暗示を見るといった発見はありましたが、過去へ向かう主人公の足取り、現実の事件になるのかならないのかというサスペンスが、意外に薄いのが驚きでした。ミステリマガジンでの初読時は、いたく感心して、数か月後にエドガー受賞の報に接したときに、やはりと思ったものでしたのに。
 ジョイス・ハリントンとルース・レンデルの全体像については、のちに、改めて稿を起こすことにしましょう。
 75年ジェシ・ヒル・フォードの「留置場」は、日本初紹介がミステリマガジンではなく、エドワード・D・ホック編の年刊傑作選『風味豊かな犯罪』でした。南部ならではの、異様なクライムストーリイと見せかけて、そして、その部分で20代の私は感心していましたが、返す刀で、北部エスタブリッシュメントの若者が持つ、あるいは、ついさっきまで持っていた革新性や反逆性の正体を斬ってみせるところに、60過ぎた私は舌をまきました。そして、この作品あたりまでの受賞作が、MWA賞の短編賞として輝かしかったという記憶が、私にはあります。作品に長短はあり、買えるもの買えないものはあっても、受賞作が最先端の趨勢を表わす、あるいは、その志向するものを示すという一点で、それらの作品は短編ミステリの黄金時代を表象する、MWA賞の殿堂と言えたのです。

 ひとつだけあとまわしにしていた、1968年の受賞作ウォーナー・ロウの「世界を騙った男」は、短編小説としての洗練が、ときとして難解さに及び、あるいは、シリアスな文芸作品への接近を見せた、60年代後半から70年代前半にかけての、エドガー賞最優秀短編賞の黄金時代の受賞作の中においては、異色の作品と言えるでしょう。
「世界を騙った男」は、ウォーナー・ロウが自身の困った大叔父さんであるフランクのことを語るところから始まります。放蕩のかぎりをつくし、頼れる親戚もないフランクが、自分の最期を看取ってくれる、数少ない親類として、ウォーナーを選んだのでした。残りわずかな余生をウォーナーのもとで過ごしたフランクが亡くなって、遺品を調べていると、そこに、とんでもない手記を見つけます。それを活字化したものが以下の物語だといって、本編が始まります。20世紀初頭のロンドンで、フランクは、ふとした偶然から、サマセット・モームに無礼をはたらいてしまいます。以下、ことあるごとに、モームをこけにすることに、フランク大叔父の一生は費やされるのですが、世界中を放浪しては、金の許すかぎり面白おかしく暮らすフランクは、タヒチに流れつきます。モームがみつけた、ゴーガンの描いたガラス絵を割ってしまうという、ドタバタがまずあって、そののち、零落したフランクが働いているボイラー室の焚きつけの中で、彼は数点のゴーガンの絵を発見します。イギリス時代に絵の心得のあったフランクは、それらの裸婦画を模写し、年金がわりに、売りさばいていくことを思いつきます。
「世界を騙った男」は、題名のとおり、ゴーガンの偽物を世界じゅうにばらまいた男の短い伝記でした。また、フランクの傍若無人なふるまいの犠牲者である重要な脇役に、文豪モームを配するという洒落っ気たっぷりの中編でもありました。「世界を騙った男」は、ウォーナー・ロウの処女作――それ以前は脚本家だったようです――でした。以後、語り口の楽しいいくつかの作品が、邦訳されています。
「コロンビア・コーヒー殺人事件」は、アメリカの大金持ちとコロンビアの貧しい医師(コロンビア公共保険局に勤務している)が、交換雑誌をきっかけに文通を始めるという、書簡体の小説でした。医師には、ラクウェル・ウェルチよりバストが大きいというフィアンセがいて、お定まりの三角関係に発展し、そこに「酔狂なドイツ人のコーヒー」という幻のコーヒー(媚薬効果あり)が絡みます。書簡体ならではの、大胆な仕掛けがありますが、まずは平凡な一編でした。「リンカーンのかかりつけの医者の息子の犬」は、マーク・トウェインの逸話から語り起こす、リンカーンのかかりつけの医者が、リンカーンの二度目の大統領就任式のための留守中に、彼の息子の犬が赤ん坊を噛んだという疑いがかけられます。とってつけたような真相に衝撃はありませんし、マーク・トウェインや若き日のエジソンの効果をあげていない、これまた平凡な作品でした。
「世界を騙った男」に続いて、日本で紹介されたのが「スコッツデールからの手紙」でした。「コロンビア・コーヒー殺人事件」同様、書簡体です。シリーズもののベストセラー作家と、その版元を経営する親子の便りで構成されています。出版社からの原稿督促の手紙から始まりますが、シリーズものを書くことに飽きた作家は、犬に夢中になり(名前をダシール・ハメットとつけるのが、おかしい)、犬の一人称による探偵犬の小説を書くことにすると宣言します。以下、犬にタイプライターを打たせて、意味のある文章を書かせる話にエスカレートしていきます。「世界を騙った男」に比べても、さらにありえないファンタジーすれすれの話を巧みに語ります。また「支払いはダブル・ゼロ」は、新米のカジノのディーラーが主人公ですが、カジノの安全管理の内幕ものとしての面白さが、まずある上に、派手な身なりの老人と20歳すぎの新妻が、ルーレットに大枚かけてムチャな張り方をします。ディーラーは怪しいとボスに訴えますが、それはディーラーの仕事ではないと一蹴される。勝ったり負けたりをくり返す、問題のペアには、具体的に不正の手口は指摘できません。明かされる手口は、意外というほどではありませんが、結末の意外性は、他のところにありました。
 小鷹信光は『エドガー賞全集』の中で、「世界を騙った男」とジェラルド・カーシュの「壜の中の謎の手記」を「長さからいっても“中編”というべき」「短編小説の話法はとっていない」作品として、他の受賞作と区別しています。それは正しく、また、誰にでも簡単に読み取れることでしょう。加えて、ビアスやモームといった実在の作家を重要な登場人物として用い、大ボラをふいてみせたところも共通しています。同時に、こうした行き方は、私には、19世紀末から20世紀にかけて、霧の都で生まれた奇譚の末裔――その現代的なアレンジ――のようにも見えます。小説としての洗練よりも、奇妙な物語性を尊ぶ。そういう行き方も、ミステリにはあること――そういう遺伝子が身内にあることを確認すること――を思い出すための作業のようにも見えるのです。もっとも、「霧の夜」にある怪奇性は影をひそめ、これは大ボラですよと、開き直ったかのような明るさが、ウォーナー・ロウにはあることも、間違いありません。

※ EQMMコンテストの受賞作リスト(最終更新:2014年11月5日)