本書は、一九三四年に米国のウィリアム・モロー社、その翌年に英国のウィリアム・ハイネマン社より刊行された、The White Priory Murders の新訳である。初版のカバーは英米共通で、ひと筋の足跡が玄関へと向かっている〈白い僧院〉の別館〈王妃の鏡〉での一場面を描いている。とはいえ、本文の内容とはくい違っている箇所もあり、カバーに惹かれて購入した読者はとまどいを覚えたのではないだろうか。
〈密室の巨匠〉の名をほしいままにするジョン・ディクスン・カー(カーター・ディクスン)の、一九三〇年代の代表作とされる『三つの棺』(一九三五)『火刑法廷』(一九三七)『曲がった蝶番』(一九三八)『ユダの窓』(一九三八)あたりに比べると、知名度という点では開きがあるが、作品の質そのものは勝るとも劣らない。まさにこの巨匠にしか書きえない〈足跡のない殺人〉テーマのクラシックであり、百年を超える〈足跡のない殺人〉物の歴史においても燦然と輝いている。
 その序文が「密室ミステリ概論」として訳出されている、ロバート・エイディーの不可能犯罪研究書Locked Room Murders and Other Impossible Crimes の改訂増補版(一九九一)によれば、〈足跡のない殺人〉ミステリの嚆矢とされるのは、シャーロック・ホームズ物が絶大な人気を博していた《ストランド・マガジン》の、一九〇三年三月号および四月号に掲載された、「飛んできた死」である。
 作者は米国人ジャーナリスト作家のサミュエル・ホプキンズ・アダムズ。砂浜で、鋭利な刃物で殺害された死体が見つかり、なおかつその周辺には、被害者のものを除けば、五本の爪と踵を持った生き物の大きな足跡しかないという、〈(人間の)足跡のない殺人〉状況が提示される。蝶の変態を研究中の昆虫学者は、白亜紀に生息していた翼竜プテラノドンのしわざに違いないと、突拍子もない説を主張する……。
 エイディーの研究書には二千を超える不可能犯罪物の実例が掲載されているが、〈足跡のない殺人〉やその変種を扱っているのは、全体の五パーセント程度にしかすぎない。実際、「飛んできた死」の三年後に短編集Confessions of a Detective に収録された、判事の御者をつとめる男が空へと連れ去られ、周囲には当人の足跡しかないという、A・H・ルイスの「飛んだ男」のようなごくわずかな追随作はあったものの、黄金時代に入るまで、こうしたテーマの作品はほとんど見当たらない。密室物に比べ、バリエーションがはるかに少なく、トリックの考案も容易ではないことから、さほど創作意欲をかき立てられなかったのだろう。
 一九二〇年代に入ると、〈足跡のない殺人〉を扱う作品も目立って増えはじめ、モーリス・ルブランもアルセーヌ・ルパンに雪の上に残された足跡をめぐるトリックを解明させている。この時期に注目すべきは、G・K・チェスタトンの想像力と創意とにあふれた短編群だ。《ナッシズ&ペルマル・マガジン》の一九二一年十二月号に発表されたのち、短編集『詩人と狂人たち』(一九二九)に収められた「鱶の影」では、柔らかい砂が一面に広がる浜の真ん中で、裕福な奇人の刺殺体が発見された事件をめぐり、詩人探偵のガブリエル・ゲイルが「僕は初端から信じていた」「足跡の問題は、この事件のうちで一番単純なことだと」と思いをめぐらす。ブラウン神父も、《ナッシズ・マガジン》の一九二四年二月号に発表されたのち『ブラウン神父の不信』(一九二六)に収められた「翼ある剣」で、雪野原に横たわる黒帽子と黒いマント姿の男の死体の謎に挑む。
 カー自身が初めてこのテーマを手がけたのも同じ頃で、一九二七年に匿名で大学の文芸誌に発表したアンリ・バンコラン物の「正義の果て」がそれにあたる。犯人とおぼしき人物が窓から屋敷の外に逃げ出したと思われるのに、雪の上にはなんの跡も残されていないという謎は魅力的で、カーならではのトリックも用いられている。
 黄金時代まっさかりの一九三〇年代には、さらに多くの〈足跡のない殺人〉物が書かれるようになる。とはいえ、特殊な手段を用いて足跡を残さない類のものや、足跡にある種の細工を施すといった、安易で陳腐なトリックを用いたものも多く、〈足跡のない殺人〉を物語の中心に据え、なおかつ大人の鑑賞に堪えるようにした長編は、ほとんど見られなかった。そう、本書『白い僧院の殺人』が登場するまでは。

 ダグラス・G・グリーンの評伝『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(一九九五)によれば、カーは、推理クイズ本The Baffle Book(一九二八)に収められた‘Sandy Peninsula Footprint Mystery’(砂浜で見つかった死体をめぐる謎)から、『白い僧院の殺人』の着想を得たという。
 それが事実だとすれば、まずは作品の核となるトリックを思いつき、それを最大限に活かすための舞台設定や状況を考え、登場人物らの関係や役割を構築していった、ということになる。カーター・ディクスン名義の前作『黒死荘の殺人』に顕著だったオカルト趣味を一掃し、ペダントリーなどの贅肉を削ぎ落として、ほぼこの足跡をめぐる謎一本で勝負している感があるのは、よほどトリックそのものに自信があったからだろう。
 そこにあるのは、単純明快だが、盲点をついていて、やすやすとは見破れない―― まさにトリックの理想型ともいうべきもので、結果的に、それまでの〈足跡のない殺人〉物には見られない、画期的な作品ができあがった。
 短編ならいざ知らず、長編においてたったひとつのトリックで勝負するのは容易なことではないが、カーは以下のようなさまざまな読みどころを用意して、読者を飽きさせない工夫をしている。

 作者の分身ともいうべき米国人青年ジェームズ・ベネットの目を通じて、われわれはその伯父であるヘンリ・メリヴェール卿の魅力あふれる人柄にふれ、ますますこの名探偵に魅了されていく。随所に織り込まれるベネット青年の微笑ましいロマンスは、陰惨な殺人事件のなかにあって一服の清涼剤の役割を果たし、読者の感情移入を誘う。すなわち、くだんの青年の感じる不安や疑惑を読者の側も共有することになるのである。
 犬が吠えなかったわけや、その反対の、吠えた理由に関するくだりは、本書における謎解きのもっとも巧妙な部分で、作者がのちにコナン・ドイルの評伝やホームズ物のパスティーシュを手がけていることからしても、犬が吠えなかったのが重要だというホームズ物の短編「〈シルヴァー・ブレーズ〉号の失踪」が念頭にあったことはまちがいない。
 遺体の近くに散らばっていたマッチの燃えさしに関する推理も、申し分ない。ただし、凶器をめぐる手がかりだけは、あまりにさりげなく忍ばせてあるがために、それを原註で補足する形になっており、いささか苦しい印象を受けなくもない。
 名探偵が謎を解く前に、誤った推理が披露されるというのは、本格物の長編ではよくあるパターンのひとつだが、本書では、誤った推理どうしにある関連性を持たせているところが面白い。
 被害者の人となりが殺人の誘因となる点や、〈白い僧院〉に居合わせた風変わりな人々の複雑にからみあった関係性が事件に大きく関わってくる展開も達者なもので、書評家としても一目置かれる存在だったドロシー・L・セイヤーズが、一九三五年七月二十八日付《サンデー・タイムズ》のミステリ書評欄で『白い僧院の殺人』をその週の第一位に推し、プロットに加えて人物描写を称賛しただけのことはある(『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』の付録二「ドロシー・L・セイヤーズのカー書評」を参照のこと)。
 再読に堪えるのもクラシックたるゆえんで、じっくり読み返してみれば、メリヴェール卿の謎めいた発言の意味も明らかになり、事件関係者たちの表情やふるまいにも、見かけとは違った理由のあったことがわかってくる。

『白い僧院の殺人』が出版されてから、八十余年。この間、密室物などに比べて数こそ多くないが、まるで舞台劇を見せられているかのようなクリスチアナ・ブランドの『自宅にて急逝』(一九四六)、十九世紀の英国で実際にあった、悪魔が雪野原に舞い降りたかのような怪事件を採り入れたノーマン・ベロウの『魔王の足跡』(一九五〇)、『白い僧院の殺人』ばりの謎に挑戦した鮎川哲也の「白い密室」(通報を受けて事件現場に駆けつけた警部や鑑識の技官たちが、『白い僧院の殺人』の方法が用いられたのではないかと検討するくだりも愉しい)、ジョン・L・ブリーンの愉快きわまるカー・パロディ「甲高い囁きの館」、ランドル・ギャレットのSFミステリ「イプスウィッチの瓶」、エドワード・D・ホックのサム・ホーソーン物「ハンティング・ロッジの謎」「雪に閉ざされた山小屋の謎」「巨大ノスリの謎」といった、〈足跡のない殺人〉の秀作が書かれている。
 カー自身は本書のあと、『三つの棺』(作中で描かれる三つの不可能犯罪のうちの二番目にあたる「カリオストロ街の問題」)、『テニスコートの殺人』(一九三九)『貴婦人として死す』(一九四三)『引き潮の魔女』(一九六一)といった長編や、「めくら頭巾」「空中の足跡」「見えぬ手の殺人」の三短編で、ふたたびこのテーマに挑んでいる。いずれも大人の鑑賞に堪える作品で、〈密室の巨匠〉の名に恥じない。さまざまな状況下での殺人があり、なおかつトリックにもほとんどくり返しが見られないので、本書に続いて試されてはいかがだろう。

(本稿で言及した作品が収録されているアンソロジーや短編集を、参考までに以下に掲げておく)