フレドリック・ブラウンの短編をまとめて読んだのは、ほぼ半世紀ぶりだ。フレドリック・ブラウンは、わたしがSFフアンになるきっかけの一つだった。初めて読んだSFがフレドリック・ブラウンであると言えたら、ドラマティックで素敵なのだが、残念ながら、そうではない。よく覚えていないのだが、たぶんH・G・ウェルズではなかったかと思う。フレドリック・ブラウンを読んだのは、それからしばらくしてからであった。それは十代の初めだった。SFフアンというわけではなく、ミステリも好きだった。今でもミステリはわたしの読書の範囲ではあるけれども、熱心な読者というわけではない。でもSFは今でもかなりの部分を占めている。そのきっかけがフレドリック・ブラウンであった。やはり残念なのだが、どの短編だったか、覚えていない。半世紀以上前のことだから、当然と言えば当然だろう。
実を言えば、今、フレドリック・ブラウンを再読することについては、かなり不安があった。いくら好きな作家だったとは言え、五十年以上の時間を経ているのだから、最初に読んだ時と同じ筈がない。作品は変わらないにしろ、読む側のわたしは変わっている。具体的に言うなら、たとえば、大好きだったアーサー・C・クラーク、それほどではないが、感心するところがあったアイザック・アシモフの作品を幾つか読み直したところ、それが思いがけないほど退屈なものであったという苦い体験があった。
では、フレドリック・ブラウンはどうだったのかと言えば、ほっとするではないか、面白い。この〈フレドリック・ブラウンSF短編全集〉は作品の発表年代順に編集されている。つまりこの第一巻はフレドリック・ブラウンの初期、1941年から44年の作品が収められているわけだ。八十年も前の作品なんて、歴史的な意味しかないと思うかも知れないが、読めば、驚くよ。古くない。この十年ほどの間に書かれたものと言われても、納得するだろう。
考えてみれば、わたしがフレドリック・ブラウンを読んでいた頃には、発表年代のことなど、考えてもいなかった。その意味では、それを意識して読んだのは今回が初めてのことだった。デビューした時点で、フレドリック・ブラウンは既に完成していたのだ。これは驚くべき発見だった。
具体的に言うと、「最後の決戦(ハルマゲドン)」、いや具体的に言うといっても、内容を明らかには出来ないから、抽象的な言い方になるが、一瞬の間に世界が破滅しそうになり、そしてその一瞬の間に救われる。この一瞬の処理がうまい。そして何よりも何故破滅するのか、いかに救われるのか、この謎解きが秀逸。これがほぼ初めての作品。以前に読んだときには、一行でオチに繫げるという短編やショートショートの定石に飽きたフレドリック・ブラウンが、ちょっと凝った仕掛けにしたように思っていたのだが、違っていた。最初からこういうことをやっていたのだ。
注意深い読者なら、そうでない読者が見落として軽く疑問に思うようなところも見事に説明できるだろう。わたしはそんなに注意深くないから、あわてて読み直してしまった。やられたなぁ。そんな気分を味わった。「最後の決戦」のオリジナル・タイトル“Armageddon” は、ストーリーそのもののことでもあるが、同時に最後の一行に通じることでもある。
「いまだ終末(おわり)にあらず」はショートストーリーの見本のような作品だが、これが〈キャプテン・フューチャー〉誌に発表されたものだというのは、ちょっと驚く。この雑誌は誌名からわかるようにスペース・オペラのフアンを対象に創られたものだ。この作品を売り込んだフレドリック・ブラウンも立派だが、これを買った編集者も偉い。スペース・オペラは、基本的に人類、つまり読者のあなたの優位性を基本にするのだが、この作品はそうした体裁を保ちながら、人類批判になっていくところがある。そこがフレドリック・ブラウンらしいところだ。
これ以外の作品についても、色々言いたいことが出てくるのだが、それは読者のあなたにゆだねることにしよう。軽く考えられがちなフレドリック・ブラウンだが、意外と重いものを含んでいる。「星ねずみ」「最後の恐竜」「天使ミミズ」といったよく知られた作品がこの初期に書かれたものだというだけで十分かも知れない。
フレドリック・ブラウンはショートストーリーの名手といわれることが多いが、わたしは長編のフアンでもある。『火星人ゴーホーム』や『発狂した宇宙』といった作品がフレドリック・ブラウンの長編の代表作として挙げられるわけだが、わたしもそれに異論はない。ただ好きな作品となると、『シカゴ・ブルース』(わが街、シカゴ)を挙げる。〈エド・ハンター〉シリーズです。SFではない。ミステリ、ハードボイルド系のシリーズです。主人公の少年が私立探偵の仕事を手伝って行く中で成長して行く。三作目ぐらいまでが成長物語としては素敵な出来になっている。フレドリック・ブラウンの作品は乾いた感じがすることが多い。それがモダンな雰囲気を創り出しているのだが、この〈エド・ハンター〉シリーズはウエットです。好きなんですね、そこが。
フレドリック・ブラウンは何でも書ける作家なのだと思う。かれの作品のバラエティは、短編だけではなく長編でも同様で、それは逆にかれの評価にも影響しているように思う。たとえば、ギャグやパロディが詰め込まれた『発狂した宇宙』と、そのかけらもない〈エド・ハンター〉シリーズのどちらがフレドリック・ブラウンを代表しているのかと言えば、回答に困る。どちらも素晴らしいと言うしかない。あるいはかれのショートストーリーの代表作を挙げろと言われても、みんないいんだよ、というのが正解という気がする。結局は好みの問題ということになってしまうだろうし、それは評価というよりも好き嫌いという感覚の問題でしかない。
フレドリック・ブラウンの作品の特徴はアイディアにある。これは正しいと思うのだが、もう一つ重要なのはプロットだと思う。アイディアが最高の形で機能するためにプロットが存在している。ショートショートの神様のような存在である星新一には『できそこない博物館』というような自作の生成の過程を記してくれた本があるが、それを読むとかれの作品が幾つかのアイディアの複合体であることがわかる。プロットというよりも、アイディア同士のぶつかり合いが驚きに満ちた作品となって行く。その結果として、星新一の作品はショートショートというより短いものに向かい、プロット派のフレドリック・ブラウンは、ショートショートも巧みだが、それ以上に長めのショートストーリーに向かっていったのではないかと思う。プロットにはそれなりの長さが必要になるからだ。
かつて、SFはマイナーなジャンルであった。そして、SFの仲間を増やしたいと思って、友人や知人にSFを読ませようとしたことがある。そのときに選んだのはフレドリック・ブラウンだった。そしてほぼ全員が面白かったと言ってくれた。だが、SFフアンになってくれた人間は一人もいなかった。何故だ? そう思ったのだが、今なら理由がわかる。かれらが面白いと思ったのはSFではなく、フレドリック・ブラウンだったのだ。そんな当たり前のことに気がついてからは、SFフアンを増やすという無駄な努力はやめた、フレドリック・ブラウンという素晴らしい作家を紹介できただけで十分ではないか。SFであろうとなかろうと、フレドリック・ブラウンを読まないというのは、あまりにももったいない。そしてフレドリック・ブラウンのフアンになって欲しい。それに十分に値する作家なのだ、フレドリック・ブラウンは。