ここだけのあとがき


「なぜスウェーデンに住むことになったんですか?」
 スウェーデンでも日本でも、人と知り合うたびにそう訊かれる。無理もない。スウェーデンに住む日本人は普通、仕事で赴任してきているかスウェーデン人と結婚しているかのどちらか。家族全員日本人なのに何食わぬ顔でスウェーデンの地方都市の一軒家に暮らすわたしたちは、確かに摩訶不思議な存在だ。
 わたしたちがスウェーデンに住むことになったいきさつは、本書の冒頭に詳しく書いたのだが、一言で言ってしまうと「もっと親子で過ごす時間がほしかったから」という点に尽きる。移住を決めたのは、子供が1歳2ヶ月で保育園に入って間もなくのことだった。わたしも仕事に復帰し、家族三人毎日慌ただしく暮らしていた頃だ。
 海外に住もうと言い出したのは夫だった。わたし自身は海外なんてかえって大変そうだし、ちっとも気乗りがしなかった。それに日本での仕事を辞めて、無職の状態でスウェーデンに渡らなければならない。向こうで仕事が見つかるかどうかも心配だった。
 つまりわたしはかなり嫌々スウェーデンに移住したのだった。しかし9年間住んでこの国の働きやすさや子育てのしやすさに慣れた今、この国以外にはもう住めないだろうと感じている。日本では大学を卒業して以来ずっとサラリーマンとして働いてきたが、スウェーデンに移住してからは翻訳を中心に、フリーランスで好きな仕事を自分のペースでやっている。仕事が楽しすぎて締め切り前に夜更かしを強いられても苦にならない一方で、必要なら誰に気を使うことなく平日に子供と一緒に過ごすこともできる、そんなフリーランス生活がとても気に入っている。

 しかしあのまま日本にいたら、フリーランスになる勇気を持てただろうか。夢だった翻訳者になるために、正社員の仕事を辞めていただろうか。辞めない理由はいくつもあっただろうが、そのなかでもとりわけ“子供が保育園に入れない可能性が高まる“というのが決定的な要因になっていただろう。しかしスウェーデンでは、正社員でもフリーランスでも、はたまた就職活動中でも、4カ月以内に必ず保育園に入ることができる。その制度がわたしの夢を叶えてくれた部分も大きい。
 自分はありがたいことに、こうやってスウェーデンでのびのびと好きな仕事と子育てを両立させられているが、それではわたしが移住してから日本はどうなったのだろうかと見やると、待機児童の問題や過酷な残業が原因の悲しい事件のニュースが目に飛び込んでくる。
 同時に、日本の皆さんの「日本はこのままじゃいけない。どうにか変わらなきゃ」という切実な思いも伝わってくる。しかし、具体的にどう変わればいいのか。その点が明確にならないことへの苛立ちのようなものも感じる。
 そこにわたしが「日本もスウェーデンみたいになれば?」としたり顔で言うつもりはまったくない。ただ、スウェーデンのような社会もあるのだということを、今後の日本を考える材料にしてもらえればと思ってこの本を書き始めた。社会が変わるためには、社会制度と個人の意識の両方を発展させていかなければいけない。だからこの本ではスウェーデンの社会制度がいかに素晴らしいかということよりも、スウェーデン人がどういう意識で社会を作り、暮らしているのかに焦点を当てた。
 例えばスウェーデンも日本も規定上は一日8時間労働、有給の日数もそれほど変わらない。なのにどうしてスウェーデン人はパパであろうとママであろうと5時に帰れ、夏休みを5週間も取れるのだろうか。

 なぜスウェーデンでは女性がこれほど社会進出しているのだろうか。なぜパパたちはこれほどイクメンなのだろうか。社会制度が充実しているからというだけではなく、個人レベルの意識から生まれてくる要因もある。
 その一方で、北欧礼賛本を書くつもりもなかった。日本のメディアが「北欧はこんなに進んでいます」「社会福祉がこんなにすごいです」と伝えているのをよく目にするが、実際に暮らしてみると、それはスウェーデン社会のごく一部にすぎない。かといって、どの国にもいいところと悪いところがあるし――というのともちょっとちがう。そうではなく、精神的な豊かさを手に入れるためには、手放さなければいけない物質的快楽や便利さもあるということなのだ。その現実を伝えたいと思った。
 精神的な豊かさと物質的な豊かさのどちらを選ぶのか。わたし自身も移住当初は日本の便利な生活を恋しく思ったが、その答えが自分の中ではっきりしたとき、スウェーデンに骨をうずめる覚悟が決まった。
 わたしはジャーナリストでも社会学の研究者でもない。ただ、一人の子供の親として、働く社会人として、スウェーデンに暮らした実感を伝えたくてこの本を書いた。自分と同じように子育てや仕事とのバランスに悩む日本の方々に、こんな社会や考え方もあるんだよというのを知らせたくて。

久山葉子