解説

宮脇孝雄




 一九六〇年代から七〇年代にかけてのイギリスでは、SF作家の卵は、マイケル・ムアコックのジェリー・コーネリアス・シリーズのパロディを書くことで、ホラー志向の新進作家は、H・P・ラヴクラフトの模作を書くことで執筆活動をはじめた。たしかニール・ゲイマンがそんなことを書いていた。
 ラヴクラフトが死んだ年(一九三七年)に生まれ、一九六八年にラヴクラフト風の短篇「深海の罠」でデビューしたブライアン・ラムレイも、そうした作家の一人である。初登場以降、一九八〇年まで、私たちの目に映ってきたラムレイは、ラヴクラフト由来のクトゥルー神話にインスパイアされたタイタス・クロウ・サーガの書き手であった。この作品群については、本文庫で長篇六冊、短篇集一冊が訳出されているので、紹介は不要だろう。
 ただし、本書からラムレイを読みはじめる方々のために、少しだけ書いておけば、同じ道をたどったほかの作家、たとえば、今や押しも押されもせぬ大家であるラムジー・キャンベル(少年時代にラヴクラフトに出合う)と違って、ラムレイの場合は、一九五八年に二十一歳で結婚して、陸軍軍人という職に就いてから、ラヴクラフトを本格的に発見した。すでにかなりの読書体験があり、H・ライダー・ハガードの秘境冒険小説や、H・G・ウェルズ、アメリカのヒーロー・コミック誌などに親しんでいた。リチャード・マシスンの『地球最後の男』(初訳時のタイトルは『吸血鬼』)がとくにお気に入りだったという。そのため、タイタス・クロウ・サーガには、ラヴクラフト以外の要素も詰め込まれている。巻が進むにつれてラヴクラフト世界が徐々に膨らみ、歪み、変容していくのが、面白くもあり、ほんの一瞬、首をかしげるところでもあった。同じラヴクラフト派でも、この人はちょっと違うのではないか?
 その疑問が氷解したのは、現役作家や評論家がホラー小説を百冊選んでそれぞれコメントを寄せるという趣向の『ホラー・ベスト一〇〇(Horror 100 Best Books)』(一九八八年)というガイドブックに、ラムレイがこんなことを書いているのを発見したときである。
「私が本気で怪奇小説を読みはじめたのは十四、五のときだが、そのころにはすでにハガードやウェルズを読みあさっていたし、ポオも少し読んでいた。ただし、ポオは私にはちょっと難解だった。なぜかというと、私の好みは冒険小説だったからである。その冒険が奇妙であればあるほどよかった」
 つまり、ここが、本来のラヴクラフト派とは違うところで、ラムレイの主人公は自分の運命を受け入れるのではなく、冒険小説のヒーローのように戦いつづける。たとえ肉体が滅んでも、霊魂になって戦いつづけるのである。ラムレイとは、実は冒険小説寄りの作家だったのではないか。と、まあ、そんなことを考えたわけである。ちなみに、そのホラー・ガイドでラムレイが選んだ作品はヒュー・B・ケイヴの短篇集。ケイヴは、本文庫から出ているアンソロジー『ラヴクラフトの遺産』「血の島」が収録されているパルプ作家で、ラヴクラフトと仲違いした弟子として知られている。
 さて、八〇年代に入ってラムレイはサイコメック三部作(Psychomech Trilogy)を発表する。一九八一年から八四年にかけて一気に書かれたものだった(発表は八四年、八五年)。ラムレイは八〇年に陸軍をやめ、専業作家になっていたのだが、なぜそのタイミングで退役したかというと、陸軍は二十二年勤めれば満額の恩給が出るので、その時期がくるまで待っていたのだという。英米のファンなら誰でも持っているはずの、二〇〇二年に出た『ブライアン・ラムレイ読本(The Brian Lumley Companion)』掲載の自作年譜にはこう書いてあった。
「これまで楽しみのために(そして、ほんの少しの収入のために)やってきたことは忘れて、〈真面目に〉書く覚悟が私にはできていた」
 そんな意気込みで発表した三部作だったが、熱狂的な読者を獲得するには至らなかった。作者本人の職務でもあった英国陸軍憲兵隊の軍人を主人公にして、アイルランド共和国軍のテロやら、超能力やら、転生やら、スパイの暗躍やら、ナチスのオカルト科学やらをぶちこんだものの、いかんせん、ごちゃごちゃしすぎていた。主人公が霊魂と化す、というのは、ラムレイが好んで使う趣向だが、この三部作でも、以後の作品でも、同じ趣向が繰り返されている。
 で、いよいよ本書である。
 一九八六年に発表された、新生ラムレイの第四作、『ネクロスコープ』こそ、ラムレイが専業作家としての地位を確立した最初の傑作なのだ。
 すでにお読みになったかたにはいうまでもないが、ネクロスコープ、死霊見師とは(たぶん作者の造語で)死者と話ができる霊的能力を備えた人間のこと。初版の宣伝文句によると、「ネクロ」は「死、死体」で、「スコープ」は「望遠鏡(テレスコープ)」「顕微鏡(マイクロスコープ)」などの「スコープ(~を見るもの)」だが、望遠鏡で見る景色や顕微鏡で見る標本とは違って、ネクロスコープが見る死者はこちらを睨みかえしてくることがあるという。
 主人公のハリー・キーオウは、史上最強のネクロスコープで、イギリス霊能諜報局(Eブランチ)の一員としてソ連の超能力者と闘っているうちに、不思議な死者に出会う。死を拒み、生きている者に激しい憎悪を向けるその死者は、実はヨーロッパ各国の伝説で吸血鬼と呼ばれている存在だった。ざっくりいえば、霊的世界・物質的世界両方の征服をたくらむその吸血鬼たちと、死者の軍団を率いたハリーやその後継者との闘争が、このシリーズ全体の筋立てである。
 直前の三部作と同じように、東西冷戦時代のヨーロッパを背景にして、ありとあらゆる「奇妙なもの」が詰め込まれているが、吸血鬼、霊媒的超能力者、霊界、国際諜報網など、それぞれの要素が主人公ハリー・キーオウを中心にして有機的につながり、抜群に読みやすくなっている。
 吸血鬼というのは、実は、当時のホラーのトレンドであり、それから数十年たった今では、吸血鬼のロマンス小説、吸血鬼の青春小説、吸血鬼のミステリ、吸血鬼のコメディなど、エンタテインメントの各分野のサブジャンルとして吸血鬼ものが定着しているが、ラムレイは当時の流行に乗って吸血鬼を出したのではなく、もともと吸血鬼に思い入れがあったのだという。前述のリチャード・マシスン『地球最後の男』を、ラムレイ自身は史上最高の吸血鬼小説と考えており、その傑作を越える作品を書きたいと常々思っていた。しかし、真正面から攻めると勝ち目がない。そこで、別の方向から書こうとした。それが本書に吸血鬼を登場させた動機であるという。
 また、当時のホラー界ではグロテスクな描写を売り物にするスプラッタものがじわじわ流行しはじめていたが、ラムレイはその風潮に反発していた。ところが、本書の第一章を見ると、ソ連側の超能力者である死骸検師、死んだ者の体に触れることで生前の思いを関知する能力を持つ男が、秘密施設で死体解剖をするシーンが何ページも続く。グロがお嫌いなかたは、ここで読むのをやめたくなるかもしれないが、その種の描写はここだけなので、ご安心ください。
 さて、序盤の読みどころは、第二章から始まる、ハリー・キーオウが徐々に自分の特殊能力に目覚めてゆく成長物語である。
 ハリーの母方の祖母は亡命ロシア人で、降霊会を主催することもある霊感の持ち主だった。その祖母が死んで九か月後に、ハリーが誕生する。ちなみに、九か月というのは魂の転生に要する時間とされている。ハリーの父は銀行家だったが、ハリーが生まれてすぐに亡くなり、母はハリーが二歳の時に再婚する。ところが、母は凍った川でスケートをしているときに氷が割れ、水に落ちて死んでしまう。しかも自分の夭折を予感していたらしく、自分が死んだら息子を養子にしてくれと兄に頼んでいた。こうして、七歳のハリーはイングランド北東部の炭坑町に住む母の兄、つまり伯父夫婦に育てられることになる。その町の学校に通っているあいだに、ハリーは自分の力に目覚め、ついでに性にも目覚める。
 そのハリーの物語と平行して、ソ連のネクロマンサー、ボリス・ドラゴサニの物語も語られる。このあたりの場面転換の呼吸は堂に入ったもので、心地よく物語の流れに乗っていると、ハリーが幼少期の出来事の復讐を果たす胸のすく場面がやってくる。そして、その二つのストーリーラインが、やがてひとつになるときがくる。
 しかし、吸血鬼はちらちら姿を見せるだけで、まだ直接には筋に関わってこない。本格的に吸血鬼が動きだしたら、いったいどんな展開になるのだろうと、読者はじらしにじらされる。
 発表当時には誰も予想しなかったことだが、このシリーズは全五巻でいったん終了したかに見えたものの、のちに派生シリーズが始まり、全十六巻プラス中短篇の大河シリーズに成長している。話のつなげ方も独特で、九巻目と十巻目に当たる〈ロスト・イヤーズ〉二部作では、二巻目と三巻目のあいだの「失われた歳月」に何があったかが語られている。たとえ物語の構成がいびつになろうとおかまいなしに、作者が面白いと思うものを手当たり次第にぶち込んだ椀飯振舞いのシリーズである。日本語で全貌が明らかになる日がくるのを期待したい。