多面性という魔法

 一つの海を隔てて南北に二つの大陸がある。北には欧州的な帝国があり、南には中東ザグロス山脈周辺に栄えた古い王朝を彷彿とさせる地域が広がっている。前者はフランス風、後者はバビロニアかエラムといった、より古い雰囲気を醸して、ここに考古学者をほうりこめば、危険と謎と冒険が、あぶくとなってわきだしてくる。
 このあぶく、つついてみたくなりませんか?
 問われるままに指を出してしまうのは、好奇心旺盛、先を知りたい、言葉の編みだす雰囲気を堪能したいと願う物語好きの本能かもしれない。つつけば、何が起こるのだろう。
 おお、風が吹く。砂漠の風である。風にさそわれて一歩踏みだせば、発見、探検、冒険がはじまる。

 遺跡地図屋の青年カダムは、行方不明になった育ての親とその家族をアドハラの砂漠にさがしもとめている。おそらく全員、生きてはおらず、どこに葬られているのかもわからない。それでもさがしつづけるのは、彼一人が取り残されたという強い思いがあるからだ。
 暗いトンネルを歩んでいるようなある日のこと、レオンと名乗る気障な男があらわれた。うさん臭さを感じながらも、あてにしていた収入源を失い、先立つものの必要なカダムは案内人としてザーフェルの町に彼をつれていく。そこで、ガラ・シャーフ教団という得体のしれない──人を呪い殺すことをためらいもしないらしい──一団に出会うが、その中に、行方不明となっている家族の一人、エレナではないかと思われる少女を発見する。その少女は、レオンの商売相手のエイダンに呪いをかけ、三日以内に教団の砦に来なければ死ぬと伝える。
 ザーフェルの治安警護隊の一員でもあるエイダンは、教団の内部を探るいいチャンスととらえる。それにレオンが一緒に行くと言いだし──なんだかんだと理由を説明するわりには、いま一つ彼の動機がはっきりしない。やはり怪しい──、カダムにも同行を要請する。レオンの理屈には納得しないカダムであるが、少女がエレナだったのか否かを明確にしたい。かくして三人はそれぞれの思惑をかかえて、砦へとのりこんでいくのだが……。

 この物語をファンタジーならしめているのは、壮絶かつダイナミックな神話である。
 飢え渇き、満たされることを知らない神ダリヤは、豊穣の女神であり、大河を支配し、すべてを生みだす妻アシュタールに、飢えを満たしてくれるように懇願する。ダリヤはアシュタールの願い石から生まれたありとあらゆるものを食べ、食べつくしてなお満たされることがなかった。そこでアシュタールはわれとわが身を夫に捧げる。妻を食いつくしたダリヤのもとに残ったのは、アシュタールの心臓石だけ。それが最後の願い石であった。ダリヤは妻を失ったことをはげしく悔やみ、嘆いた。すると最後の願い石が割れ、アシュタールの再臨がかない、ダリヤはやっと満たされた……。
 一方、結末の異なる別の伝説も存在しているという。女神の心臓石をダリヤに独占された世界は、滅びの危機に瀕してしまった。これを救うため、呪術士シュトリが、ダリヤから石をとりもどす。世界は息を吹きかえしたが、石が再びダリヤの手に渡ることを怖れたシュトリは、王宮深くにおのれと石を閉じこめ、今もってそこにいるという。
 なんとも猛々しく、壮大な話である(この神話だけで一大叙事詩として成りたちそうだ。ぜひ、読みたいと願い石に願ってみようか)。このすさまじい神話が物語をしっかり支えているため、方向性が明確になっている。多面体的なきらめきの中でも、軸がぶれることなく話が進んでいき、「おそらく結末は……」と予想する読者の飢えと渇きを十分に満たしてくれるものとなっていく。

 多面体的なきらめき。そう、この物語は裏も表も斜めも上下も持っている。読み進めるにつれて、読者は何やらめまいにも似た感覚を得るにちがいない。たとえるなら、十二面体にカットされた珠を覗きこんでいるような感覚である。いやいや、十二面体などと遠慮はすまい。三十六面を持つ驚異の珠玉が、その内部にプリズムの七色を錯綜させているようだ。その光が交わるところは、出どころも落としどころもしっかり計算されているらしい。これを読み解くには、世界観への共感と、この世界を構築している歴史的背景と、家系図が必要だ。
 家系図。何せ登場人物の半数以上が、別の顔を持っている。後半に入ると、オセロのようにぱたぱたと彼らの顔が反転していく。家系図を作りながら読み進めていけば、石が次々にひっくりかえって、あなたの快感を刺激するにちがいない。
 このギミックは読者を喜ばせるだけに用意されているのではない。物事の多面性という主張へのとば口でもあるのだ。
 主人公カダムが育った北の大陸。植民地支配によってふくれあがった活力と全能感と優越感を体現している。カダムや、彼を育てた考古学者であるロジェやオリヴィエの生活基盤は、フランス風の爛熟した文明なのだ。古い大陸アドハラに、その力の行き場を求め、あのダリヤ神のごとく、むさぼりつくそうとしていたのだが……(盛者必衰の理からは逃れられず、今では老いた獅子さながらに生死の危機に直面している)。
 現実の大航海時代から二十世紀中頃の欧州も、そのようであった。こぞって侵略、征服、蹂躙、搾取をおこなった。そうして得た富によって、芸術が大輪の花を咲かせることとなった。ロマン主義、ジャポニズム、シノワズリ、アールヌーヴォー、印象派などなど。多数の才能が見いだされ、画壇、文壇、楽壇を花火のように彩った。考古学方面でも新発見が相次いだ。ツタンカーメン、さまよえる湖、楼蘭、トロイ。
 しかし、現在。わたしたちはそうした世紀の偉業の裏に潜む陰があることを知っている。地元政府に無断で持ちだされ、中には個人の所有物となった遺物も数知れないだろう。だが、もしそのまま地元に留め置かれたのなら、保存状態は保証されなかったと反論する人もいる。罪から生まれる善もあるし、善意から生まれる禍もあるということか。このオセロは落ち着くところを知らない。だが、黒は黒であり、白は白であることを忘れてはならない。
 著者はこうした多面性をさりげなく提示して見せている。それは、本文480─1ページにおける老ラカンの語りにもあらわれている。理想郷についてラカンはこう披瀝する。
「最初から、いつでも、いつまでも、おまえの心の内にある。だが、人の世というのは、何かと忙しなくて、この理想郷のことを思い出すような余裕がない。もし思い出すことがあるとすれば、それは、すべてのものを手放し、真に自由になった時だけだろうよ」
 つづいて別の人物が語った言葉として、
「ここに描かれているものは、砂漠で迷った時の導きの星のようなものだと言っていた。それがあれば、自分が何を求めているのか、どこへ向かって進めばいいのかを見失わずにすむ。だから、いつでも、どこへでも行ける──世界の果てまでも」
と伝えたあと、こう締めくくる。
「ただ繰り返すようだが、今言ったことは正解ではない。おそらく、教えの間へ来たことのある者に聞いたら、十人が十人とも違うことを答えるだろう。そして、おまえがどう考えるのかは、おまえの自由だ」
 十人が十人とも違う考えをもっている。その十人が、ラカンのように別の何人かの視点でも考えることをするのであれば──、これはまさに多面体の様相を呈するのではないだろうか。……ともあれ。この三十六面体を覗きこんだのちに、ふと顔をあげれば、吹くのは海辺の風である。様々な人々、様々な思惑や考え方、からまりあった運命の迷路をたどってたどりつくのは、満ちたりた海なのかもしれない。

 著者、鴇澤亜妃子さんの紹介をしよう。
 第二回創元ファンタジイ新人賞を『宝石鳥』で受賞。この受賞作でも、神話と二面性のモチーフがうたわれている。本作が受賞作に次ぐ長編となる。
 ふだんは書店員をなさっており、芸術や歴史に深い造詣をおもちの様子。明るく気さくな人柄とお見受けする。機会があればゆっくりとお茶しながら──お酒でもいいですよ──書物についての蘊蓄をお聞きしたいと願っている。
 おとなむけファンタジーの新しい担い手の一人として、今後の活躍を大いに期待したい。