囲碁は、3000年ほど前に中国で生まれたとされている。日本に伝わったのは、朝鮮半島を経由して5,6世紀のことのようだ。正倉院には聖武天皇愛用の碁盤が残されているし、平安時代には『枕草子』『源氏物語』にも当時の囲碁の流行が記されていて、当時の貴族が囲碁を嗜んでいた様子が分かる。

 その後日本の囲碁は、互先置碁制から自由着手制へと変革され、飛躍的に深遠なものとなっていった。それは、第一手から自由に着点を選ぶもので、ここから布石や定石とかの概念が出現し、これまでとは様相が一変した。それは安土桃山時代と推測され、日海(初代本因坊算砂)が関わっていると言われている。算砂(さんさ)は、織田信長、豊臣秀吉そして徳川家康に仕え、江戸幕府によって最初の名人碁所となった。本因坊家は、四世道策(どうさく)、一二世丈和(じょうわ)、一四世秀和(しゅうわ)や棋聖と言われた秀策(しゅうさく)等を輩出した。

 他に井上家、安井家などがあり、切磋琢磨して囲碁は増々深化していった。しかし明治時代になり、幕府の扶持を失った囲碁界は困窮し、幾多の紆余曲折の後、1923年に日本棋院が設立された。

 昭和初期には、木谷実と呉清源によって「新布石」が試され、スピード重視の布石が提唱された。その後、旧布石と新布石の長所を結びつけた「総合布石」の時代となっていく。そんな中、本因坊秀哉(しゅうさい)が引退し(川端康成の『名人』で有名である)、その名跡を毎日新聞に譲渡し、1939年には本因坊戦が始まり、プロの碁界は選手権争奪の時代になった。新聞碁が人気を博する時代となって、現在に至っている。

 韓国では、囲碁を学ぶために趙南哲(チョ・ナムチョル)などの若者たちがやって来た。そして日本の制度に倣って、プロ棋士の制度が作られた。しかし実力では、日本の囲碁と格段の差があった。1970年代初めには、韓国と日本の交流試合で、日本は12勝1敗の成績を記録している。日本の囲碁の歴史は、謂わば世界の囲碁の歴史であるが、韓国囲碁界は日本の囲碁をその歴史も含めて、徹底的に研究した。江戸時代の棋譜なども当然研究した。

 20世紀後半から、韓国囲碁界は強くなり、1989年には曺薫鉉(チョ・フンヒョン)九段が第一回応氏杯世界大会で優勝し、その後の世界大会で韓国棋士は23連勝した。その後中国も台頭し、世界戦で勝つのは韓国か中国の棋士になり、日本囲碁界は低迷を続けている。

 本書はその原因を探るもので、日本の「唯美主義」つまり石の形と美学を重視する囲碁の伝統がその一つであるとしている。日本の囲碁には打ってはいけないとされる手があり、それが強さを阻害している。次の一手を考えつくと何の制約も感じないで打ってしまえる人と最初からその手を思いつかない人の違いといえよう。自由着手制へと移行したことと同じようなことが起こっているようだ。韓国囲碁の次の一手は、柔軟で革命的であった。

 そして最近ではアルファ碁の登場から、AIが囲碁を変えようとしている。囲碁の深化と進化は続いている。