第1回 パスポートナンバーTK49494949の叫び
第2回 落下の山村
第3回 笑いを灯す人
第4回 摂氏四五・一度の異邦人
第5回 世界の終わりとアンダーグラウンド・モスク
第6回 時の旅人たち
第9回 ポータブル・ブコウスキー第10回 オン・ザ・エンディング・ロード
2017年9月21日
セルビア―ボスニアヘルツェゴビナ……
1.
朝八時、セルビア南部のレスコヴァツに到着した。この町の歴史は紀元前八世紀のトラキア人によるブルニツァ文化までさかのぼるとのことだが、現在、名を馳せているのはロシュティリヤダという毎年九月に行われるバーベキューの祭典ぐらい。言ってしまえば、ふつうは観光客が見向きもしないようなところである。
にもかかわらず今回なぜ足を運んだかというと、映画監督エミール・クストリッツァ氏率いるエミール・クストリッツァ&ノー・スモーキング・オーケストラが、本日、国際映画祭の一環としてここレスコヴァツで音楽ライブを開くという情報を入手したからだ。
なのに、町なかは平穏そのもの。道行く人が物珍しげにぼくのことを見てきて、公園のベンチではカップルが肩を寄せ合っていちゃついている。くそっ。ライブどころか国際映画祭が開催されている雰囲気すらない。どうなってんのかしらん、と天をあおぎ見たとき、街灯と街灯のあいだに渡された横断幕が目に飛び込んできた。明々白々とクストリッツァの名が記されている。
目抜き通りをさらに進むと、路肩に特設ステージを発見した。スタッフTシャツを着た若者に訊いたら「今日、クストリッツァ監督がここでライブをやるんだよ」とのこと。
特設ステージ裏の文化会館が、国際映画祭の本部と臨時の映画館を兼ねているというのでなかを覗いてみた。スタッフTシャツを着た大勢の人びとがレセプションを設営し、フライヤーを貼っている。学生ボランティアらしきメガネの女の子にライブ情報を確認すると、彼女は「そうよ、今晩九時からスタートするわ」とにっこり微笑んだ。
「チケットはここで買えるんですか?」
「ううん。野外だから、誰でも無料で見られるのよ」
「今日のライブって、国際映画祭の一環なんですよね。どういう人が来るんですか」
「モンテネグロとか、マケドニアとか……、だいたいバルカン半島の国の監督かな。あ、そうそう、ちょうどスケジュール表があるからあげるわよ」
彼女はそう言ってフライヤーを渡してくれた。それによると、映画祭は今日から五日間にわたって開催され、初日のオープニングイベントとしてクストリッツァ監督のコンサートが催されるようだ。しかも、一九時には同監督の新作映画『オン・ザ・ミルキーロード』の上映が予定されているではないか。つい先日封切られたばかりなのでまだ観ていなかったし、スケジュールからして『オン・ザ・ミルキーロード』のあとコンサートを観るという完璧なクストリッツァ・ナイトを実現できる。
「『オン・ザ・ミルキーロード』もここでやるんですか」
「ううん、ここから五分ぐらい歩いたところにある映画館で上映されるのよ」
「じゃあ、そこに行けば映画のチケットも買えるんですか」
「それが……、残念だけど、映画チケットは売り切れなのよ」
「もう、一枚も……?」
「ごめんなさい。ミスター・クストリッツァは人気者だからすぐ売り切れちゃったの」
とぼとぼ歩いて街はずれのゲストハウスへ。
先述のとおりレスコヴァツは有名な観光地ではないためホステルが一軒もなく、ジョージア以来のシングル部屋となった。一泊約一三〇〇円というヨーロッパとしては破格の安さ、改装したてのこぎれいなシングル・ルームだが、気分はさえない。ベッドにどさりと横たわり、天井をえんえん眺めていると、さきの挫折感が情熱に変わってめらめらと燃えはじめる。
ここまで来たからにはやはりあきらめきれない。
ベッドから飛び起き、レセプショニストに『オン・ザ・ミルキーロード』が上映される映画館の場所を尋ね、さっそく足を運んだ。映画館は年季の入った小さな建物で、まだ一四時ということもあってかひと気がない。しかし、勇み足で来てみたはいいものの、どうやって頼み込んだらいいのだろう。あーでもない、こーでもないと入り口付近で右往左往していたところ、不審者と思われたのか、なかからステッキやシルクハットが似合いそうなすらりとした背の高い男性が現れ、「なにか用かい?」と英語で話しかけてきた。
「えぇと、じつはですね……、ここで『オン・ザ・ミルキロード』が上映されると聞いたんですけど、チケットを探していまして」
「それだったら大通りに文化会館があるから、そこで買えるはずだよ」
「いえ、じつは文化会館にはすでに行きまして……、それでチケットはもうないと言われたんですよ」
「売り切れってこと?」
「はい。でも、どうしても諦めきれなくて、ここまで頼みに来たんです。ぼくは日本人の旅行者なんですが、日本にいたときからずっと、一〇年来のクストリッツァ監督のファンだったんです、それで、どうしても本場のセルビアで彼の作品を観たくて、そこらの隅っこでも良いからどうか、どうか入れてもらえませんか、なんだったら入場料の二倍だって、三倍だって払いますから、どうか、どうかお願いします!」
えぇ、読者の方々がおっしゃりたいことは分かります。日本人であることをダシにするなんて最低でしょう、金をちらつかせるなんて下劣でしょう、同情を引こうとするなんて畜生でしょう、でもいいんです、なんとでも非難してください。だってそれぐらい観たかったんだもの!
そんな悪魔のごとき卑劣漢のぼくに対し、彼は天使のごときやわらかな微笑でもって「心配しないで」と言ってくる。「きみの熱意は十分伝わったし、一九時三〇分前ぐらいにまたここに来なさい。特別に入れてあげるから」
あぁ、この人、誰かに似てるなってずっと思っていたけど、ようやく分かった。
見た目もこころも、あしながおじさん。
ぼくはヘッドバンギング並みに何遍もお辞儀し、ゲストハウスに戻って仮眠を取った。約束の時間、映画館に向かうと、さきとは打って変わって映画館前はドレスアップした華やかな出で立ちの人びとで賑わっていた。翻って、ぼくは黒のカーディガンとジーンズ。かるい気恥ずかしさを覚えながらあたりを見まわしていると、あしながおじさんが出入り口から顔を覗かせ、おいでおいでと手招きしてくる。
「待ってたよ。さぁ、入りなさい」
答えはなんとはなしに想像できたけど、いちおう言うだけ言ってみた。「せめて入場料ぐらい払わせてください」
「そんなのいらないよ。もちろん無料だから、なんにも心配しないで」
超あしながおじさんに、超ヘッドバンギング。
赤いカーペットのロビーでは記者会見席が用意されていた。大勢の記者やカメラマン、映画関係者らしき人たちが談笑している。当然ながらアジア人はひとりもおらず、こいつはなんなんだ、へんなやつが紛れ込んでるぞ、みたいな目でじろじろ見られる。
さすがに萎縮。
できるだけ目立たないよう壁際で待機。
約一〇分後、会場がにわかにざわつきはじめ、ロビーじゅうの目が出入り口付近に向けられる。人だかりができてゆく。その中心にいるのは、クストリッツァ監督。たおやかな笑みを湛えながら挨拶し、抱擁を交わし、花束を受け取っている。当たり前だけど動いてる、歩いてる、しゃべってる!
天にも昇るような夢見心地で魅入っていると、「ここにいたんだね」というささやき声が聞こえてきた。本当に天使のお迎えが来たのかと思いきや、あしながおじさん。「さぁ、今のうちに上映室に入っておこう」
クストリッツァ監督に熱視線を送りながら、あしながおじさんについて上映室へ。キャパ一〇〇人ほどで、やや黄ばんだスクリーンの前にベルベットの赤い椅子が並んでいる。昭和時代の映画館のような懐かしい雰囲気だ。
「いまはどこの席が空いてるかよく分からないから、ひとまずここの通路で待機して、映画がはじまったら空いてる席にすわるんだ。いいね?」
はい、分かりました、とぼくは恋する乙女のように胸の前で両手を組み、目をきらきら輝かせる。
三々五々に観客が入場し、徐々に席が埋まってゆく。しばらくのち、出入り口のほうからクストリッツァ監督がこちらに向かって歩いてきた。
三メートル、
二メートル、
一メートル……。
手を伸ばせば触れられる。
足を出せば転校生みたいに引っ掛けられる。
すべてが実現可能な距離にあのクストリッツァ監督が!
この瞬間、おそらく人生でいちばん脳がフル回転した。数週間ほど前にインターネット上で読んだ、宮内悠介氏が行ったクストリッツァ監督へのインタビュー記事が脳裏をかすめ、「ぼく、宮内さんの知り合いなんです!」とアピールしそうになったがすんでのところで踏みとどまる。よけいなことをして日本人のイメージに傷をつけてしまったら、宮内氏ばかりでなく日本人全員に申し訳が立たない。だからサインも、握手をねだるのも我慢し、ただひたすらありったけの愛を視線にのせて、目の前を通過するクストリッツァ監督を見送った。
よくいう「永遠にも等しい瞬間」が過ぎ、放心状態になって立ちつくしていると、またもやあしながおじさんが登場した。「ほら、見てごらん。いちばんうしろの席なら座れるよ」
彼の指さす先、最後尾の列の中央が二、三席ほど空席になっていた。恒例のヘッドバンギングで手厚くお礼を述べ、贅沢にも中央の席を陣取らせていただく。
すこしのち、クストリッツァ監督の舞台挨拶がはじまった。終始セルビア語で、会場からときおり笑い声があがるなかひとり置いてけぼりだったが、これ以上はもうなにも望むまい。ただ、この場にいられるだけで幸せだ。
照明が落ち、『オン・ザ・ミルキーロード』が上映。英語字幕はなく、ほぼセルビア語のみであったが、さすがはクストリッツァ作品というべきか、映像だけでもストーリーが伝わってくる。今作はコメディ色がやや控えめで、最後にはクストリッツァ監督本人まで登場し、どことなくアレハンドロ・ホドロフスキー監督の『リアリティのダンス』を彷彿とさせた。
上映終了後はスタンディングオベーション。泣いている人までいる。笑っている人までいる。この、感情を全方位に揺さぶる作風こそ、クストリッツァ監督が皆々に愛されてやまない理由のひとつだろう。
あしながおじさんに地面にめり込むほどヘッドバンギングし、足早に文化会館前の特設会場へ向かった。すでに大勢の人だかりができており、すこしのち、国際映画祭のオープニングセレモニーがはじまった。司会者による長い、長い、ひたすら長い挨拶とオーケストラ演奏を経て、バルカン半島のタモリさんやらバルカン半島の北野武やらバルカン半島の叶姉妹やら、映画監督やゲストらがひとりずつスピーチを行ってゆく。
オープニングセレモニー終了後、しばしのインターバルを挟んで群衆のボルテージが一気に高まった。目を向けずとも、誰がステージに登場したのかすぐ分かった。エミール・クストリッツァ&ノー・スモーキング・オーケストラ、見参!
出し抜けに演奏をはじめると、観客も身体を揺さぶりだし、その喧噪がさらなる人を呼び寄せ、ステージ前は人の洪水と化す。映画『アンダーグラウンド』のテーマ曲で絶頂に達し、夜の冷気も吹き飛ばすほどの熱気であふれかえる。ピンクフロイド『Shine on Your Crazy Diamond』のイントロをフェイントに使ってまったくべつの楽曲を演奏したり、三メートルはあろうかというやたら長いヴァイオリンの弓でギターを弾いたりと、余興にも事欠かない。
それにしても、映画の作風からしてある程度想像できたが、クストリッツァ監督自身は数曲しかギターを弾かず、女の子をステージに上がらせて一緒に腕立て伏せをしたり、みんなで一緒に輪になって踊ったりと、かなりのお茶目さんだ。このポジション、誰かに似ているなと思ったら、電気グルーヴのピエール瀧。そう思ったとたん、にやにやが止まらなくなった。
2.
一夜明け、チャプターをまたいでも、クストリッツァ・ナイトはまだ終わらない。
セルビア北西部のモクラゴラという村にはシャルガンスカ・オスミツァ(シャルガン8)なる山岳鉄道があり、その途中にはクストリッツァ監督の映画『ライフ・イズ・ミラクル』のロケ地がある。
そしてモクラゴラからすこし離れた丘の上には、同監督が『ライフ・イズ・ミラクル』撮影時にたいそう気に入り、土地を買い取って建設したという映画村「クステンドルフ」、さらにボスニア・ヘルツェゴビナ東部には、同監督が近年建設したべつの映画村「アンドリッチグラード」まである。
以上を踏まえ、ぼくは決断を下した。クストリッツァ監督見たさにわざわざレスコヴァツにまで足を運んだのだから、ついでにこれらのゆかりの場所ももれなく巡って、その後、セルビアの首都ベオグラードから日本方面へ引き返せばいい。この旅行記も本稿をもって終わりなので、その道すがらどこかでエンディングを迎えればいいだろう。
素敵なエンディングを見つけるためにまず向かったのは、セルビア南部最大の街ニシュ。そこで一泊したあと、翌朝六時、コソボ・グラチャニツァ行きのバスに乗車した。一時間ほどでコソボとのチェックポイントに到着し、パスポート・チェックのためいったんバスから降ろされた。
列に並んでいたとき、うしろにいた大柄なおじさんがセルビア語で話しかけてきた。さっぱり分からなかったので、ぼくはとりあえず「ストイコビッチ」とかえしてみた。ここセルビアは世界的に有名なサッカー選手ドラガン・ストイコビッチの生まれ故郷であり(かつて名古屋グランパスにも選手、監督として在籍していた)、「ストイコビッチ」という魔法の言葉を唱えるだけで、この国では四〇、五〇代のおじさんであればたちまち口元をほころばせるのだ。
今回も効果はてきめん。おじさんはにこっと笑い、「シュンスケ・ナカムーラ」とかえしてくる。
「イビチャ・オシム」
「ヒデトシ・ナカータ」
「エミール・クストリッツァ」
「アキラ・クロサーワ」
がっちり握手。
だが、ぼくのことを「ニシコーリ」と呼んでくれるぐらい仲良くなったはいいものの日本とセルビアの有名人の山手線ゲーム以外はまったく会話が成立しない。するとそこに「ぼくが通訳してあげるよ」と英語で助け船が出された。ぼくの前に並んでいた黒い長髪に黒革のジャケットを着たロックンローラー風の青年で、かたわらには母親らしき女性がいる。
「彼は元軍人だそうだよ」おじさんの話を聞いたあとでロックンローラーが訳してくれる。「いまはグラチャニツァで病院関係の仕事に携わっていて、これからそこに向かうんだそうだ」
「元軍人というと、あのコソボ紛争にも参加したんですか?」
「そうらしいよ。あの紛争で家がなくなって、ニシュに避難したらしい。じつはぼくらもそうなんだ。ぼくは覚えてないけど、お母さんがそう言ってたんだ」と、かたわらに立つお母さんのほうを見ながら、「ぼくが六歳ぐらいのときに、家が空爆に遭って、ニシュに疎開したんだって。いまはグラチャニツァにいる親戚に会いに行くところなんだよ」
知らない人のために簡単に説明しておくと、コソボ紛争は一九九八―一九九九年にかけて行われた旧ユーゴスラビア軍と、コソボ独立を目指していたアルバニア人テロリスト組織コソボ解放軍との紛争である。セルビアとコソボの関係は依然良好とはいえず、二〇一七年初頭にも、セルビア国旗の色に塗られ、「セルビアはコソボ」というスローガンの書かれた列車が、ベオグラードからコソボ北部の街に向けて運行されるという事件が起こった(国境手前で運行は中止されたらしいが)。
そもそもこのバスの行き先からしてセルビアとコソボの関係性は窺えた。国際バスは首都に向かうのが一般的だが、ニシュからはコソボの首都プリシュティナ行きのバスはなく、その近郊のセルビア人コミュニティであるグラチャニツァが終点となっている。
「でも、みんながみんな憎み合ってるわけじゃないんだ」とロックンローラーは悲しげにつぶやく。「ネガティブな声ばっかりが取り上げられるから、そういうイメージがつきまとってしまうけど、実際は一部の声に過ぎないんだよ。少なくともぼくや、ぼくの友達なんかはそう思ってる」
パスポートチェックが終わったあと、ふたたびバスに乗り込んでコソボに入境した。セルビア側とさして変わらない長閑な田園風景が続く。首都プリシュティナを通過したころには、民家がまばらに点在する緑の平野が広がった。
「ニシコーリ」
はす向かいの席に座っていたおじさんが手招きをしてきた。近寄ると、おじさんは窓の外を指さしながら目を細め、ほとんどささやき声でなにか話しはじめる。ぼくが困惑していると、すかさずうしろの席に座っていたロックンローラーが通訳してくれた。
「昔、あそこに彼の家があったらしいよ。でもNATOの空爆で、なにもかもなくなったそうだ」
瞬間、不可解だったおじさんの表情や声色が意味を帯び、こころを打った。ぼくら三人とも無言のうちに、後方へと流れゆく緑豊かな牧草地を見送った。
グラチャニツァ到着後、おじさんとロックンローラーに別れを告げ、世界遺産のグラチャニツァ修道院へ足を運んだ。創立は一四世紀頃で、美しいフレスコ画が有名とのことだが、このときはあいにく改修中で全貌はうかがい知れなかった。町なかを散策してみると、セルビア人コミュニティだけあってどこの店の看板もキリル文字で書かれており、幹線道路沿いにはセルビアの国旗がはためいていた。
路線バスに乗って、コソボの首都プリシュティナへ。
路線バスに乗って、コソボの首都プリシュティナへ。
空爆のイメージから紛争の爪痕が色濃く残った街並みを想像していたのだが、実際はそれを感じさせない欧米の一都市のような都会で、目抜き通りには瀟洒なオープンカフェやブランドショップなどが建ち並んでいた。紛争からすでに一五年近くが経過しているので当然といえば当然なのかもしれないが、発展ぶりにはいささか驚いてしまう。
ざっくり紹介しておくと、地元市場の土産物屋にはアルバニアの国旗によく似たコソボの国旗グッズが売られていた。重ね重ねだが、コソボの住民はアルバニア人が大多数を占めているのだ。
目抜き通りの一角にはアルバニア人つながりということで、マザーテレサの銅像があった。
コソボ独立の際に米国が援助したことから、クリントン元大統領の彫像が建っていた。
それと、ホステルの朝食ではなぜか、スライスされたトマトが載せられた味のないインスタントヌードルが出された。
それから通貨はユーロだったし、あとは……。
バスを乗り継いでセルビアに再入境し、ボスニア・ヘルツェゴビナとの国境にほど近い山間の都市ウジツェに到着。都会すぎず、田舎すぎもせず、なんとものどかな街である。「なにか困ってるのかい?」
夕暮れ、とあるフード・スタンドの前で、キリル文字のメニューを前にうんうん唸っていたとき、ふたりの若者が話しかけてきた。ひとりはハリー・ポッターのような丸めがねをかけた細身の青年、もうひとりはハリーのライバル、マルフォイといった感じのオールバックの青年だ。その気さくな調子につられ、ぼくも素直に「なにがおいしいのか迷ってるんだ」と我ながらアホみたいな答えをする。
「それだったら、クォーターパウンドのハンバーガーがいいよ」
「ここのハンバーガーは安いしうまいし最高さ」
「きみたちはここの店の人?」
訊くと、答えが一〇倍になってかえってきた。
「まさか」
「おれらはウジツェの学生さ」
「ただここの常連だから、なんでも知ってるんだよ」
「アスパラガスみたいにちっちゃいときからな」
「ここのハンバーガーで育ったんだよ」
「でも、もうすぐこの店ともお別れなんだ」
「来年からベオグラードの大学に通うんだよ」
「法律を専攻するんだ」
「おれら二人ともな」
「彼は頭が良くてさ、高校一番の成績なんだ」
「いや、実際はこいつが一番だけどさ」
「それはこの前の試験だけだよ」
「まぁ要は、抜きつ抜かれつってわけだ」
ははは、とふたりして高笑い。英語も流暢だし、アメリカのホームコメディでも観ているようだ。
仲良しふたり組にすすめられたハンバーガーを購入し、ベンチでぱくつく。すると彼らもおなじハンバーガーをそれぞれ購入し、となりのベンチに腰掛け「英語を使ういい機会だから」とまたも話しかけてくる。
「そういえば、きみはもうウジツェをまわったのかい?」
もぐもぐ。
「ウジツェの見どころねぇ」
「やっぱりいちばんはスターリー・グラッドだよな」
「ほら、街はずれのあそこのほうに丘が見えるだろ、あれだよ」
「砦と旧市街、それを取り囲む城壁の跡が残ってる」
「一二、三世紀ごろに建てられたセルビア王国の遺産だ」
「セルビア王国のあとは、オスマン帝国とか支配者がいろいろ変わったんだよ」
「それで一九世紀ごろには完全に破壊されたんだ」
「おれらも学校の課外授業で行ったっけな」
「あぁ、それっきりだ。地元の人はわざわざ行かないんだよ」
「もう知ってるし」
「いつでも行けるし」
「坂が急だし」
「疲れるし」
「いまはたしか修復中だったはずだけど」
「それでも入れるし、ウジツェの街を一望できるよ」
「あとはあれだ、ウジツェ市博物館」
「あぁ、あそこは歴史的に面白いかもな。ウジツェの歴史は知ってるかい?」
もぐもぐ。
「第二次世界大戦でセルビアがナチスドイツに占領されたとき、ウジツェはパルチザンに解放されてウジツェ共和国になったんだ」
「そのとき、あそこの博物館はウジツェ共和国、パルチザンの総司令部だったんだよ」
「もっとも、共和国ができてから一年足らずでドイツに攻め込まれたんだけどな」
「いまでも、第二次世界大戦中に使われた武器が展示されてるんだよ」
「あそこはいつもがらがらなんだけど、管理人のおじちゃんに言えば電気をつけてくれるはずだ」
「博物館の裏手にはトンネルもあるんだよ」
「戦時中の地下壕で、武器の鋳造工場として使われてたんだ」
「銃や弾丸を作る機械が今でもずらっと陳列されてるんだ」
「クストリッツァの『アンダーグラウンド』観たことあるか?」
もぐもぐ。
「あの映画じゃ、地下でみんなが武器を製造してたけど、まさにあんな感じだったんじゃないかな」
「ひんやりした穴蔵のなかを一日中、金属の音がこだましてるんだ」
「その時代を思えば、おれらはほんと幸せだよ」
「このクォーター・パウンドを毎日食べられるんだから」
そのクォーター・パウンドを全部胃に詰め込んだころには、もうガイドブックは要らないのではないかと思うほどウジツェのことを熟知していた。
翌日、実際に軍事博物館を見学し、裏手の地下壕も見せてもらったが、おおよそふたりの言うとおりだった。街はずれのスターリー・グラッドもたしかに修復中で、目を引くようなものもあまりなかったが、そこからの眺めはすばらしかった。遠くにはウジツェの中心街が眺望でき、まわりの山々を見はるかすと、木々がほのかに色づきはじめていた。それもそのはず、いまでは日中でも気温は一五度を下回るようになり、朝方には五度前後まで冷え込むときもあるのだ。つい一ヶ月前まで三〇度を超える地域にいたことを思うと、季節を一気にまたいだような気さえする。
ついでに、ここらでチャプターもまたいでおこう。
3.
バスに一時間ほど揺られモクラゴラにやって来た。
モクラゴラとは、ボスニアヘルツェゴビナとの国境から約三〇キロメートルに位置した小さな山間の村である。前述のとおり、山岳鉄道シャルガンスカ・オスミツァと映画村クステンドルフというふたつの目玉があるのだが、それらの目玉を取りのぞけばまったくののっぺらぼう、見事になにもない。バスの車窓から見えたのは道路沿いに点々とつづく民家や商店だけだったので、モクラゴラだとは分からずにうっかり乗り過ごしてしまいそうになったほどだ。
小雨の降りしきる寒空の下、インターネットで予約したゲストハウス・アナへ向かった。
「誰かいますかぁ?」
大声で叫ぶと、建物のひとつからいかにも「お母さん」然とした花柄のエプロンをつけた女性が出てきた。インターネットで予約した旨を伝えるが、お母さんは晴れやかな笑みを浮かべながら執拗にセルビア語で話しかけてくる。「うんうん、そうなんですね」と相づちを打ってみるが、言うことが分かるはずがない。
結局、首都ベオグラードの大学に通っているという娘さんに電話を取り次いでもらうことができ、やっとこ二階建ての建物の一室にチェックインした。シングルとダブルベッドの備わったファミリー・ルームで、旧式ながらヒーターやバスタブまであった。これで一泊一〇〇〇円強なのだからもうすばらしい。ぼくが感心しきりで部屋のなかを見まわしているさなかも、お母さんはテーブルに置いてあったモクラゴラの観光パンフレットを指さしながら、なおもセルビア語で話しかけてくる。「オッケー、イエス、イエス」と答えてみるが、やはり分かるはずがない。
このやりとりからも察せられるとおり、ここのゲストハウスはすこし異色であった。
表にはおもちゃみたいな黄色い汽車型の乗り物が停められており、庭にはミニチュアの水車がある。客室用と家族用の建物のほか、ホビットの家みたいな藁葺き屋根の小屋がふたつある。物置小屋かと思いきや、杖をついたおばあちゃんが頻繁に出入りしていた。ホビットの家はだいぶ傾斜しているのか、ひとたび玄関扉を開くと一八〇度開きっぱなしになってしまうので、おばあちゃんはその都度、扉の脇に取りつけられているストッパーを杖の先端で器用に回し、扉を閉めていた。これらすべてを目にしているだけで、はやすでに映画世界に足を踏み入れたような気になってくる。
翌朝、もうひとつの映画世界をもとめてモクラゴラ駅へ。景観が売りの山岳鉄道なだけに晴れてほしかったが、あいにくの曇り空だ。
プラットフォームでは、ウジツェのホステルで一緒だったロシア人男性ふたりとばったり再会した。ひとりはウッディ・アレン、もうひとりはジュード・ロウのような見た目のふしぎな組み合わせで、片言の英語でコミュニケーションを図ってみるに、今朝ウジツェからバスでやって来たらしく、午後にはモンテネグロへ抜ける予定だという。
その会話はこんなふうに繰り広げられた。
「トゥデイ、ウジツェ、カム、モクラゴラ?」
「イエス、イエス。ユー?」
「ミー、モクラゴラ、トゥデイ、スリープ」
「オー、ナイス。トゥモロー?」
「アゲイン、モクラゴラ、スリープ」
「オー、イエス、イエス」
「ユー、ネクスト?」
「ゴー、モンテネグロ、アフタヌーン」
「オー、ナイス、ナイス」
シャルガンスカ・オスミツァ、入線。
一九二五年に完工した線路幅七六〇ミリメートルのナローゲージ鉄道で、一時はベオグラードとボスニアヘルツェゴビナの首都サラエボまでつながっていた。一度は廃線になったものの、観光用の保存鉄道として九五年に運行を再開し、クストリッツァ監督の『ライフ・イズ・ミラクル』のロケ地になったことで一躍脚光を浴びた。現在は主にモクラゴラ―シャルガン・ヴィタシ間を約一時間かけて往復している。
列車は昔懐かしのアンティークな外観で、側面には最高時速四〇キロメートル、ルーマニア製と銘打たれていた。車内は木造のベンチが左右にひとつずつ並んでおり、ストーブまである。この日はハイシーズンをやや外れていたせいか、車内はがらがらだった。
シャルガンスカ・オスミツァは薄もやのかかった緑の山々を走りだした。直線はほぼ皆無で、右に左にとゆるやかなカーブが続く。この鉄道は英語でサルガン・エイトといい、その名のとおり八の字ループを描きながら山を上り下りするのだ。
トンネルをいくつか抜けると、車内に『アンダーグラウンド』だか『ライフ・イズ・ミラクル』だかの劇中で使われていたジプシー音楽が流れ出した。この音楽はきっと『ライフ・イズ・ミラクル』の舞台「ルカの家」が近づいてきたという知らせに違いない。そう信じ、身体をくねくね揺らしながら窓外を見つめ続けたが、またいくつものトンネルを抜けたのち、終点のシャルガン・ヴィタシ駅に着いてしまった。
プラットフォームに下りるなり、ロシア人のウッディ・アレンとジュード・ロウに確認してみたが、ふたりも「ルカの家」を見逃したらしく落胆していた。
ちなみにその会話はこんなふうに繰り広げられた。
「クストリッツァ、ハウス?」
「ノー」
「ユー?」
「ノー」
「オー、ノー」
「オー、ノー」
しかしチャンスはもう一度ある。
一五分ほどの絶望を経て、シャルガンスカ・オスミツァはモクラゴラ駅に向けて折り返し運転をはじめた。今度はぜったいに見逃さないよう車両の連結部に立ち、冷たい風を全身に浴びながら目を凝らし続けた。すると途中のビューポイントで列車が停まり、とつぜんの写真撮影タイムがはじまった。車掌さんに尋ねると、帰りはビューポイントやお昼休憩のできるレストラン、そして「ルカの家」にも停車してくれるそうだ。
かくてビューポイントと昼休憩を経たあと、めでたく「ルカの家」に到着。「うおおおおおおお、なにもかもライフ・イズ・ミラクル!」と感動のままに家の窓ガラスに鼻を押しつけ、内部までくまなく観察した。薄暗い室内には木製のテーブルにテレビが一台ぽつんと置かれており、もしやあれは劇中でルカが投げたテレビなのではなかろうかと妄想が膨らみ過ぎてまたもや「うおおおおおおおおお……!」
「ライフ・イズ・ワンダフル」
「イヤァー」
「イヤァー」
と、ウッディ・アレンらと人生の素晴らしさを噛み締めているうちに、列車はモクラゴラ駅に到着した。
プラットフォームに降りたあと、おなじ車両にいた恰幅のいいロシア人のご夫婦と話をした。レンタカーでセルビア国内を旅行しているふたりは現在、映画村のクステンドルフに宿泊しているそうで、「ついでだし、みんなまとめて車で連れていってあげるよ」と誘ってくれた。
お言葉に甘えて、ブーン、とクステンドルフへ。
あらためて説明しておくと、クステンドルフも『ライフ・イズ・ミラクル』のロケ地で、そのときこの村を気に入ったクストリッツァ監督は同地を丸ごと買い取り、宿泊施設やレストランや映画学校を建設し、映画村に仕立て上げた。映画祭もたびたび開かれているようで、過去にはジョニー・デップやジム・ジャームッシュなども出席したという。
さて、実際にまわってみると、クストリッツァ監督自身がここを「木の町」と呼んでいるようにどの建物も木造で、ストリート名にブルース・リーやチョムスキーの名が冠されていたり、マラドーナや宇宙飛行士アームストロングの絵が壁に描かれていたりと、彼の趣味が随所にうかがい知れた。小さな教会のほか、スタンリー・キューブリックという名のミニシアターもあり、このときは同監督の短編映画『それでも生きる子供たちへ』を観賞できた。
記念にここのレストランでランチを取り、クステンドルフの映画世界に別れを告げ、ウッディ・アレンらにも別れを告げた。
「ハブ・ア・ワンダフル・ライフ」
「ユー、トゥー」
と、こんなふうに。
徒で丘をくだり、ゲストハウス・アナに戻ると、庭仕事をしていたお父さんが自宅に招待してくれた。ホビットの家ではなく、家族用の建物のほうだ。
通されたリビングキッチンは薪ストーブが焚かれており、汗ばむぐらい暖かった。改装したてなのか床のタイルからキッチンのシンクまで蛍光灯の明かりをぴかぴか反射している。ただ、ホビットの先入観があったからか、本当にそうだったのか、天井がいやに低いように感じられた。
テーブルにお父さん、お母さん、おばあちゃん、娘さんが着座した。まずは紅茶が振る舞われ、それを飲み終わるまえに自家製だというバルカン半島名物の蒸留酒ラキヤがショットグラスなみなみに注がれた。
乾杯。
一飲みでグラスを干したあとは、言葉が分からないもの同士恒例の山手線ゲームがはじまった。
「ホンダ」
「チトー」
「スズキ」
乾杯。
「ストイコビッチ」
「トーキョー」
「ベオグラード」
乾杯。
この宴で唯一まともに理解できたのは家族の名前ぐらいだった。お母さんが席を立ち、おばあちゃんを「ゾラ」、お父さんを「ゾラン」、娘さんを「アナ」と指さし、最後には自分の胸元に手をあてながら「ミラ」と教えてくれたのだ。娘さんはダウン症のようなのだが、両親もおばあちゃんも彼女のことをたいそうかわいがっていた。「ゲストハウス・アナ」も娘さんの名から取ってつけたらしい。会話が成立せずとも、ただその場にいるだけでほんわかしてしまうふしぎな家族だ。
明くる日も、ちょっとふしぎな体験をした。
昼下がり、モクラゴラの幹線道路を散歩していたとき、どこからともなく二匹の黒い犬が現れた。兄弟なのか、親子なのか、見分けがつかないぐらいうりふたつだ。人なつっこくて、しっぽを振りながらぼくのまわりを遊星のように駆けまわる。「チュッチュッ」と呼んでやると、二匹ともすかさずこちらに近寄ってくる。
なでなで。
ぼくが歩きだすと、二匹は追いかけてきた。あっという間に追い抜き、道ばたでじゃれ合ったり、追いかけっこしたりして、そのあいだにぼくが距離を縮めると、見計らったかのようにわっと駆け出し、またもやじゃれ合いをはじめる。それを繰り返しながら、ぼくと二匹の犬はすこしずつ道を進んでゆく。
二匹はゲストハウスやキャンプ場が並ぶ小路を駆け抜ける。蛇行する川に沿って伸びる未舗装路を進んでゆく。
その先の農場にはロバとウマとウシがいた。二匹は柵をくぐり抜け、ロバのまわりを駆けまわる。ロバは「ぶぉー、きぃー、ぶぉー、きぃー」と鳴き声をあげ、ウマも近寄ってきた。ウシたちはそんな一幕を遠巻きに眺めている。ぼくが歩き出すと、二匹も柵をくぐり、道に戻ってきた。
川向こうにゲストハウスが見えてきた。どういう趣向なのか、庭先の藁葺きのビーチパラソルがゆっくりと回転している。
駅舎跡に出た。道ばたには今はもう使われなくなった旧型の汽車が停められていた。さらに道を進むと石門が見えてきた。二匹に続いてなかに入ると、屋根付きの井戸があり、若い男女が水を汲んでいた。Googleマップで確認すると「Vera Voda」と表示されている。「美しい水」という意だ。橋を渡ったさきには古めかしい教会が建っている。
二匹はこちらを一瞥し、なおも小道を進んでいく。二、三キロぐらい走りっぱなしだというのに疲れ知らずだ。右手には小川、左手には廃線となった線路が続いている。あたりはひと気なく、瀬音と鳥の鳴き声が鼓膜に染み入ってくる。いまにも雨が降り出しそうな濃い雲が立ち込めている。
唐突に道が終わり、白っぽい石畳の広場に着いた。木造の小さな教会がぽつねんと建っている。閉ざされた扉の近くにパンくずが散らばっており、一足先に着いていた二匹の犬が夢中になって食べていた。教会が終点だなんてできすぎた物語だと思ったが、もしや二匹はパンくずがここにあることを知っており、それ目当てでここまで来たのではなかろうか。そんな疑念が脳裏をよぎるも、パンくずをきれいにたいらげた彼らはぼくを一瞥し、来た道をすたすた戻ってゆく。
帰りは行きの逆再生、美しい水、回転するパラソル、ロバ、「ぶぉー」。
モクラゴラ駅の近くまで戻ってきたあと、素敵な世界を見せてくれたお礼をしようと道路沿いの商店に立ち寄り、ソーセージを二本買った。だが店の外に出ると、黒犬は一匹しかいない。あたりを見渡しても、もう一匹はどこにも見当たらない。物語ならば二匹一緒に消えて、ぼくを狐につままれたような気分にさせるのがいいのに、なぜお前だけ残っているのか。王道を避けたのか、奇をてらったのか。黒犬はぼくの戸惑いなど我関せず、ぼくの右手に黒い瞳を向けている。ワイパーみたいにしっぽを振りながら。
そんなかわいいきみに、ソーセージをまるまる二本プレゼント。
4.
翌日、バスで二時間かけてボスニアヘルツェゴビナ東部のヴィシェグラードに移動した。緑の山々に挟まれた風光明媚な谷間の町で、中心地はドリナ川と支流のあいだの中州のような場所にある。モクラゴラとは異なり、レストランもあればスーパーもあるれっきとした「町」だ。なお、ここはボスニア・ヘルツェゴビナ内のスルプスカ共和国という、セルビア系ボスニアヘルツェゴビナ人の自治区に位置している。ボスニアヘルツェゴビナ紛争時の民族浄化「ヴィシェグラード虐殺」を経て、セルビア系ボスニアヘルツェゴビナ人が大多数を占めるかたちとなったのだ。
ヴィシェグラードで最も有名なのは、ドリナ川に架けられた世界遺産のソコルル・メフメト・パシャ橋である。オスマン帝国の建築士ミマール・スィナンが一六世紀頃に手がけたもので、全長は一七九・五メートル、一一のアーチから構成されている。世界大戦時に壊滅的な被害を受け、その後再建された。さらにヴィシェグラード虐殺時には、セルビア人勢力に殺害された無数のボシュニャク人の遺体がこの橋から捨てられた。壮麗な外観とは裏腹に、凄惨な歴史の生き証人でもある。
ところでミマール・スィナンは、前回〈トルコ編〉のエディルネで見学したセリミーエ・ジャーミィを手がけたあのスィナンである。実は今回の旅ではシルクロードをたどったほか、トルコ以西ではオスマン帝国の史跡もかなりめぐっているのだ。
この舌を噛みそうなソコルル・メフメト・パシャ橋は、ノーベル文学賞受賞作家イヴォ・アンドリッチの歴史小説『ドリナの橋』の舞台としても知られている。アンドリッチは幼少期をヴィシェグラードで過ごしたそうで、ドリナ川の左岸には彼の生家が、右岸には通っていた学校があった。家は外からしか見ることができなかったが、学校は見学できた。当時の教室風景が再現されており、管理人のおじさんにアンドリッチが座っていたという木造の机に「座れ、座れ」と促され、写真も撮ってもらった。
ピース。
ヴィシェグラードの中州の先端部には、クストリッツァ監督が二〇一四年に建造したアンドリッチグラードという町がある。やや複雑だが、監督は町のなかに町をつくったのだ。
足を運んでみると、今回は犬と縁でもあるのか、入り口のゲートをくぐった先で気持ちよさそうに寝そべっていた一匹の犬が出迎えてくれた。
「石の町」という名に違わず、どの建物も光沢美しい石造りで、メインストリートにはキャラバン・サライ風の宿泊施設、レストランやカフェのほか、薬局、本屋、メガネ屋などが建ちならんでいる。そういった機能面からしてもクステンドルフよりずっと町らしい。映画館もあり、このときは『ブレードランナー2049』が上映されていた。
メインストリートを抜けたさきには立派なセルビア正教の教会が建っており、セルビア出身の科学者ニコラ・テスラの銅像やイヴォ・アンドリッチの銅像もあった。「アンドリッチ」グラードという名も、このノーベル賞作家の名前から来ているそうだ(ちなみに「グラード」はスターリングラードやレニングラードとおなじく、ロシア語で「都市」や「町」を意味する)。クステンドルフより観光客が多く、修学旅行中とおぼしき学生の団体にせがまれ一緒に記念撮影もした。
ピース。
そんなこんなで、夜。
ヴィシェグラードにはホステルがなかったが、一泊一〇〇〇円強という破格の安さでアパートの一室を借りられた。ヴィシェグラードは物価も比較的安いし、きれいで静かだし、帰りの航空券さえ買っていなければ確実に長期滞在していたところである。そう、このときの日付は九月三〇日、一〇月三日にはセルビア・ベオグラードからタイ・バンコクへ飛び立つ予定になっていた。
底冷えする寒さのせいで出掛ける気にならなかったので、となりの商店で食材を購入し、アパートのキッチンで自炊した。湯を沸かし、固形コンソメ、しなびたにんじん、しなびたじゃがいも、しなびたブロッコリー、しなびたソーセージを切って放り込み、塩こしょうとドライバジルをひとつまみ振りかけてポトフの完成。これをパンと一緒に食べて、取り入れた熱を逃がさないよう早々にベッドに潜り込んだ。
ほかの周辺国は行ったことがあるし、クストリッツァ監督のゆかりの地もまわったし、あったかポトフもつくったし、もう思い残すことはなにもない。
……と、そのときのぼくはこころ穏やかに眠りに就いたのたが、そのときのぼくを書いているこのぼくはあまりこころ穏やかではない。このあたりで旅行記を締めくくりたいところだが、結末がポトフではさすがにこころもとない。終わりよければすべてよしという言葉もあるし、それ相応のエンディングさえあればきっと読者の方々も満足していただけるに違いない。先人たちは本当に良いことを言う。
そこでここは、ヴィシェグラードから日本までの帰路のなかで、それ相応のエンディングとやらを見つけ出してみよう。
では、さっそく、
5.
セルビア・ベオグラード。
ニコラ・テスラ博物館で電気と磁石の科学実験に熱中していたおり、〈アルバニア編〉ベラトで一緒だったハルカちゃんと偶然の再会を果たした。その後、サッカークラブ・FCパルチザンの試合を観戦し、発煙筒を焚く熱狂的サポーターと厳寒に震え上がる。夕暮れ、斜陽に照り映えるドナウ川をひとり眺めていると、これまでの旅が走馬燈のようによみがえってきた。
出発早々に山場を迎えた中国、
底知れぬ人の優しさに触れたパキスタン、
乗馬に笑い転げたキルギスタン、
コカ・コーラで猛暑をしのいだウズベキスタン、
地下モスクに潜り込んだカザフスタン、
デート気分で駆け抜けたアゼルバイジャン、
お風呂を堪能したジョージア、
美女に恋したアルメニア、
ブコウスキーの幻と邂逅したトルコ、
景勝地にうっとりしたブルガリア、
Slowdiveに熱を上げたギリシャ、
愛のおじいちゃん詩人と会ったアルバニア、
なにかしたっけマケドニア、
クストリッツァ一色だったセルビア、
ポトフがおいしかったボスニアヘルツェゴビナ、
まさに楽あれば苦ありの五ヶ月であった、山あり谷ありの旅路であった。しかし今となれば、このドナウ川のようにすべて美しき思い出よ……。いや、こういうのはきれいに終わっているようで、実はまったく印象に残らないダメなエンディングだ。
……では、気を取り直して、
6.
アラブ首長国連邦・ドバイ。
国際空港でのトランジット、ベオグラード―ドバイ間の格安航空会社のフライトではお金をけちって機内食を注文しなかったためにひどくお腹がすいた。ひもじいあまり、ターミナル内のフードコートでインドカレーにありつく。すさまじく辛い。滝のように流れる汗をペーパーナプキンで拭きつづけ、なんとかカレーを平らげたころにはナプキンの山がこんもりできている。
……いや、ちがう。もう一度、
7.
タイ・バンコク。
バンコクに駐在している友人宅に転がり込み、タイ料理に舌鼓を打って、パッポン通りの和風居酒屋で今回の旅のプチ打ち上げ。
「うぃうぃー、おつかれー」
「おつかれーしょん!」
……ありえない。もういっちょ、
8.
ベトナム・ホイアン。
安宿の一室に缶詰になって小説のゲラ直し。毎日違うレストランに出向き、フォーの食べ比べをし続けたすえ、奇跡のカレー・フォーを発見する。ホイアン最終日には約三〇〇年前に貿易商をしていたという日本人、谷弥次郎兵衛の墓参りをした。彼は鎖国にともない日本に帰国したが、ホイアンに住む恋人のことを忘れられず、戻ろうとしたところ途中で倒れたのだという。
「その恋愛観、とても好きです。どうか安らかに眠ってください」
合掌。
……いや、谷弥次郎兵衛オチはある意味画期的だけど、さすがに谷弥次郎兵衛に失礼すぎる。
あれ、ということは、もう次は……、
9.
ただいま、日本。