徹底して、
安易なヒューマニズムを否定し続ける果てに、
ワッツは何を見出すのだろうか。

高島 雄哉 
Yuya TAKASHIMA



 ピーター・ワッツは『エコープラクシア 反響動作』の参考文献の項において、〈デジタル物理学〉に触れている。
 デジタル物理学とは「宇宙を、その宇宙内部の森羅万象を計算し続ける一つのデジタルコンピュータと捉える世界観、物理像」とまとめることができる。世界を巨大な機械とし、現象を機械の動作と見なす〈機械論〉の一種と言ってもいいのだが、機械論の「機械」にはおよそ知性は存在しない一方で、デジタル物理学の「デジタル」すなわちコンピュータには、もしかするといくばくかの知性があるかもしれないということは指摘しておこう。そしてさらには意識も――?

 知性が知性について書く。自分よりも上位の、しかも異なる知性について……。知性にそのようなことが可能なのか。
ワッツは本書収録の作品群において、一貫して知性/意識を描き出そうとしているのだが、その描き方は、作品ごとにすべて異なっている。複数の方向から漸近するしか特異点は見えてこないと主張するかのように。
 冒頭の傑作「天使」におけるワッツの意図は明快だ。視点を無人兵器に搭載されたAIにすることで、プログラムから知性が立ち現れる、その瞬間を描き出す。
 以降の作品においても、様々なものから知性/意識がホログラムのように、あるいはゴーストのように浮き上がる。
 もし彼のテキストのなかに知性/意識のゴーストを感じたのなら、それは――テキストは機械ですらないのだから――読み手の側に知性/意識が備わっているからだ。ほとんど心霊写真のような描写と言ってもいいだろう。
 もちろんワッツはオカルトめいたものをまるで信じていない。宗教も、そして科学も。海洋生物学者でもある彼は、科学という「機械」の不確かさを確信しているのだ。
 そのうえで彼は小説に最先端の科学的知見を積極的に取り込んでいく。それは現代SF作家としては当然の振る舞いだと言えるだろう。しかしながら彼にとって事態はより深刻だ。その最先端こそ、彼自身のテーマである知性が最も濃く、最も典型的に現れる場なのだから。最先端において、科学はしばしば間違う。科学者それぞれの思い込みやひらめきが強く現れる。無数の仮説や予想が、理論として確立されることなく乱立する事態は、知性がもつ多様性や不確定性を示すものだ。
ワッツは〈降霊術〉とでも呼ぶべき様々な知性描写によってゴーストを現出させていく。
 科学と宗教を衝突させ、二つの領域の差異を顕わにすることで、その接触面からはゴーストが現れる。あるいは精緻な科学描写から、日常言語にはない美と共に、ゴーストは立ち現れる。
 そしてもう一つの降霊術――ワッツが揺るがせようとするのは、ぼくたちの小説的常識だ。
 ぼくたちは小説を読むとき、ほとんど無意識的に、登場人物たちには意識があり、自分たちと同様の知性が備わっていると考えている。また基本的に視点は人間のそれだと思って読み進める。これらは小説の文章中には書かれていない暗黙の規則であり、人間同士の勝手な思い込みの結果だと言ってもいい。
 ワッツはこうした曖昧な事態につけこむかのように、視点をAIや異星生命体にして――それはSF小説の本質的な技術だけれど――ぼくたちに知性の不確かさを、つまりは知性を思い出させる。

 ところでワッツにはアニメーションやゲームの脚本執筆やコンサルタントの経験もある。私事ながらぼくも小説執筆とSF考証をしており、作品作りを通して小説以外の媒体におけるSF観に日々触れている。異分野での仕事がワッツの小説執筆に大きな刺激となったのは想像に難くない。
 ぼくがSF作家兼SF考証として、アニメやゲームの制作に参加し始めてまもないころ、その分野のプロたちと話しているときに、奇妙な――違和感というほどではない――揺らめきを感じた。
 その原因について、今では多くの部分が言語化できる。
 アニメやゲームでは、メディアの特性に応じて、それぞれ小説とは似て非なるSFが作られているのだ。それは単純に言って、アニメでは数秒で視覚的に理解されるSFが求められるのであり、ゲームではプレイに直接関係するSFが望まれる、ということに由来する。小説にも視覚性や操作性はあるものの、アニメやゲームほどではないのは明らかだ。
 あれはぼくにとって新鮮なファーストコンタクトであったし、ワッツにとっても同様だったろう。SFという共通言語空間における、異なる――似て非なる――知性との相互作用だったのだ。

 ワッツは、そうした異分野の知性の存在を大いに認めつつも、互いの知性の違うところの面白さを引き出すことにはほとんど興味がないように見える。彼の思考はそのもっと先――知性のかたちが違うということは、知性には何らかの絶対的な由来や必然性があるわけではない、意識はたまたま発生した偶然の産物、ゴーストのような揺らめきにすぎない、という透徹した視点にまで至る。
 徹底して、安易なヒューマニズムを否定し続ける果てに、ワッツは何を見出すのだろうか。
 ここで確認しておくと、ワッツはデジタル物理学という、ほとんど機械論的な世界観に親近感を持っているのだった。彼は自由意志なんて信じていない。と同時に、自由意志があると感じている事実は、もちろん受け入れている。とはいえ、なぜ脳は意識があると感じさせるのか。
生存戦略のためには知性があれば十分ではないか。
 そして、デジタル物理学的世界観を持つ以上は、すべては宇宙の計算結果に過ぎず、世界に偶然は存在しないことになる。
 しかし、必然として計算され続ける世界のなかで、ぼくたちは自分や相手のなかに、知性や意識を見いだす。それらがゴーストのように現れては消える、儚いものだとしても。
 知性や意識は――あるいはそれらが持つ多様性や不確定性、脆弱性や潜在性は――、機械論的な必然性を超えるための手がかりなのではないか?

 本短編集は、地球のAI視点の「天使」から始まって、深宇宙で葛藤する人間を描く「島」で終わる。地球から離れながら、徐々に人間に近づいていくのだ。ぜひ冒頭から順に読んでいただきたい。
 ページを繰るごとに、人間的とされるものがワッツによって機械的あるいはデジタル的なものであることが指摘され、人間性や知性が存在する余地は失われていく。
 それでもなお最後に島のように残るものがあるとすれば、それは、ぼくたちが何かを、そして誰かを知ることができるかもしれないという、希望あるいは恩寵に他ならない。それは愛と呼んでもいいのかもしれない。



■高島雄哉(たかしま・ゆうや)
1977年山口県宇部市生まれ。徳山市(現・周南市)育ち。東京都杉並区在住。東京大学理学部物理学科卒、東京藝術大学美術学部芸術学科卒。2014年「ランドスケープと夏の定理」第5回創元SF短編賞を受賞(門田充宏「風牙」と同時受賞)。2016年に『ゼーガペインADP』SF考証と『ガンダム THE ORIGIN IV』設定協力をつとめる。twitterアカウントは@7u7a_TAKASHIMA