待望の新訳成った『クロイドン発12時30分』は、F・W・クロフツの全作品を見渡しても『樽』と並び称される傑作中の傑作。巻末の解説では神命明さんが作品の魅力をさまざまな切り口から評しておられます。神命さんだけに、ブルーチェリーで的を射貫くごとくズバッと。折り目正しい作品評は解説をご覧いただくことにして、以下では少々くだけたお話を。
ほぼ出ずっぱりの主人公チャールズ・スウィンバーンは35歳。若くしてモーター製作会社を受け継ぎ、当初は順調だったものの、誰にとっても不幸なことに世界恐慌の荒波が押し寄せます。身銭を切って穴を埋めても追いつかず、いよいよ万策尽きました。倒産の二文字が目前、従業員ともども路頭に迷うのは時間の問題です。
あっさり白旗を掲げれば平和だったでしょうが、そうは問屋が卸さない。チャールズには心に決めた女性がいます。そのユナ・メラー、面と向かって「お金のない人とは絶対に結婚しません」「お金がなくて不自由を強いられる結婚はどちらにとっても惨めだもの」と言ってのける。百年の恋も冷めるかと思いきや、会社を維持できなければユナを失う、ユナのいない人生に何の価値があろう……と自分を追い込み、チャールズは最後の手段へ傾斜していきます。叔父アンドルー・クラウザーを亡き者にし、遺産を受け取るのだ、と。
殺害方法、必要なもの、何が障害になるか、保身の術……実行に際しての難題を次々にクリアする論理の遊戯を楽しみ、知的興奮に酔うだけのつもりでした。チャールズは忘れていたのです。権力を持つと振り回したくなるのと同様、完璧な計画を立てれば実行したくなるものだということを。ここで「完璧」と自惚れたのは一生の不覚でしたね。よりによってフレンチ警部を向こうに回したことを割り引いても。
「厭な夢――人殺しをする悪夢のせいだ。それがただの夢で、現実に魂にのしかかるものでないと気づいたときの安堵感はたとえようもなかった」立案した計画を実行に移す前のチャールズの安堵は、酒井順子さん『少子』の一節に通じるものだったでしょう。酒井さんはストレッチャーで分娩台へ運ばれていく。ゼッタイいやだ! と思ったとき目が覚めた。お腹を確認すると当然膨らんでいない。そのことにほっとした酒井さん、「ああ……本当に……よかった……」
せっかくの安堵を大事にすることなくチャールズは突き進んでしまいます。「最初は恐ろしい夢を見ていた気がして、だから本当はぞっとする立場にはないのだと安堵を覚えた。一瞬、恐怖は存在しないと信じ込んだ。しかし、すぐに思い出した。これは悪夢などではない。実在する恐怖なのだ」
後悔先に立たず。やらない後悔よりやった後悔とも言われますが、チャールズの場合は次元が違います。逆立ちしても取り返しがつかない。ミステリですから犯人が事を起こしてなんぼではありますが、犯罪は引き合わないというメッセージを強烈に感じます。この分野の本を人並み(以上)に読んできた身として、『クロイドン』ほど犯人を引き止めたくなった経験はちょっと記憶にありません。チャールズの代わりに第三者であるこちらが「あくどいことはやらないに限る」とブレーキを踏む、そういう感覚になり、事実「やろうと思ったけどやめた」ことが幾つか。
中盤以降の鍵を握る人物も、チャールズとは異なる意味合いで「引き合わない」を体現しています。弱みは握るものであって握られるものではない、それもまた真理。知り合いの弁護士さんに言わせると、証拠を押さえて「法廷で会いましょう」の決め台詞を用意せよ。なるほどねえ。その弁護士さんの哲学「くだらない人間と付き合うのは時間の無駄」をチャールズが教わっていたら、よもやの展開にはならなかったでしょう。まあ、風が吹けば式で我らがフレンチ警部の見せ場が心配になりますけれども。
かくいう次第で犯罪抑止効果満点ながら、もちろんそれだけの作品ではありません。エンジニア出身らしく生涯創意工夫を怠らなかった作家クロフツの精華を御味読いただければと思います。きっと他の作品にも手を伸ばしたくなるでしょう。