1.トルコ

 早朝六時、イスタンブール・アタテュルク国際空港に到着。
 イスタンブールは五年ほど前にヨーロッパを周遊した際に訪れたことがあったので、今回は空港からトラムでバスターミナルに直行し、エディルネ行きのバスに乗り込んだ。
 トルコのバスは旅人のあいだで世界最高峰との呼び声が高い。バス会社にもよるが、大概は坐り心地満点のリクライニングシートで、添乗員が同乗しており、飲みものやお菓子を給仕してくれる。
 今回の添乗員は清潔感あふれる黒の短髪に、きらきらした白い歯が印象的な好青年だった。誰かに似ていると思ったら、ハメス・ロドリゲス。ブラジル・ワールドカップに続き、ロシア・ワールドカップでも日本代表と対戦したコロンビア代表の攻撃的ミッドフィルダーだ。トルコのハメスは乗客につかず離れずの距離を取りながら、卓絶した観察眼で絶えず目を配り、誰か手をあげればすかさずワンタッチ・パス並みの軽やかさで飲食物を配球/配給してくる。
 やっぱりすごいなハメス・ロドリゲス。
 などとのんきに感心するも、その実、あまり余裕はない。
 お腹が痛い。頭が痛い。寒気がする。
 思い当たるふしは、昨日、アルメニア・エレバンで食べたスーパーマーケットのお総菜だ。四〇度近い猛暑に加え、お総菜のガラスケースのなかでハエも飛んでいたし、いたんでいたのかもしれない。
 ハメスに熱々のブラックコーヒーを給仕してもらい、窓外の緑地帯を眺めながら、ぼうっ。

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 ブルガリアとの国境にほど近い街、エディルネ到着。
 この日はあいにくの雨模様。連日の猛暑が嘘だったかのように肌寒く、震えが止まらない。インターネットで予約したホステルにどうにかたどり着くも、バックパックの重みに耐えきれずレセプションで膝に手をあて、がっくりうなだれる。
「大丈夫かい、どこか具合でも悪いのか?」
 口ひげをたくわえたスキンヘッドのオーナーが心配そうに声をかけてきた。ハメス・ロドリゲスと同じくサッカー選手でたとえるなら、このオーナーは知る人ぞ知る元アルゼンチン代表フアン・セバスチャン・ベロンにそっくり。
 寒気がするのだと説明すると、「お茶をいれてあげるから飲みなさい」と天幕の張られた庭先のテーブルに案内してくれた。はやすでに茶器一式が用意されており、オーナーはカップに熱湯を入れ、それをいったん捨ててからチャイを注ぎ、さらにお湯でうすめる。かつてベロンは「小さな魔法使い」と呼ばれていたが、オーナーのチャイの入れ方も魔法の儀式のようで、チャイも魔法がかかっているみたいに温かくておいしい。
 ややあって、長髪オールバックの無精ひげの男が席に加わった。がっしりとした体つきで、着座するなり足を組み、タバコをくゆらしだす。
「この人はきみのすこし前にチェックインしたんだけど、いまはトルコ国内を放浪しているそうだ。元々は首都のアンカラで高校教師をしていたらしいよ」
 無精ひげの男はほぼトルコ語しか話せなかったので、オーナーに通訳してもらったのだが、なぜか初対面のぼくに向かってバロウズやジョニー・キャッシュをこよなく愛していることを熱く語り、トルコの現政権批判まで決然と述べてきた。「あんな政府はくそくらえだとさ」とオーナーは通訳しながらぷっと噴き出す。今回の流れであればサッカー選手でたとえたいところだが、風貌、アウトロー感からして、脳裏をかすめたのは文豪チャールズ・ブコウスキー。
 ふたりがトルコ語でなにやら談笑しはじめたので、ぼくは一足先に失礼し、ドミトリーのベッドに潜り込んだ。熱に浮かされうとうとしていたおり、どさっという鈍い音、ベッドのきしむ音が聞こえてきた。まぶたを開けると、はす向かいのベッドにブコウスキーが腰掛けている。
「ヘイ」と目をつり上げ、にやりと笑うと、トルコ語でなにか話しかけてきた。詩でも詠むようによどみなく、とうとうと。
「あの、トルコ語はわからないし、いまは風邪をひいているのですこし眠りたいんですけど」
 英語でやんわり断りを入れるが、ブコウスキーは怪訝そうに目を細めるだけで、かまわず話を続ける。はじめは適当に相づちを打ってみるも、次第に面倒くさくなってきたので目をつむった。なぜこの状態のぼくに向かって話し続けるのか、なにをそんなに伝えたいのか、そもそもブコウスキーが教師ってどういう高校だよ。止め処なくこみ上げてくる疑問とは無関係に、ブコウスキーの独白はなおも続いた。そのうち彼の繰る言葉の端々が高熱で融けだし、輪郭を失って、頭のなかに断片的なイメージがぼやぼやと広がりだした。町一番の美女がなぜかぼくに惚れ込んでベッドに誘ってきたり、果樹園から逃げ出したりして……。
 明くる日の朝、目を覚ますとブコウスキーは消えていた。水鳥が飛び立ったあとの波紋のごとく、シーツの乱れだけを残して。
 詩的体験。

「勝手に生きろ!」
 そんなことを言われたような気がしたので、ぜんぶ忘れてしっかり休養し、二日後、遅れを取り戻すべくエディルネ観光に繰り出した。
 まずはセミリエ・モスク。イスラム建築の巨匠ミマール・スィナンが十六世紀に建設したイスラム建築最高峰のひとつで、観光客のほか、おびただしい数のイスラム教徒が巡礼していた。漫画『ワンピース』の効果音「どーん!」がこれ以上に似合うところはないほど圧巻の外観、内観だ。

写真1_セミリエ・モスク

 続いて、蝋燭のようなストライプ状のミナレットが特徴的なユチュ・シェレフェリ・ジャーミィ。セミリエ・モスクとは打って変わってひと気がなく、西日に照り映える額縁状の窓際では、赤い円筒形の帽子フェズをかぶった男性がひとり物静かに祈祷を捧げていた。見上げると、ドーム状の天井には万華鏡めいた幾何学模様の宇宙が広がっている。
 エディルネの主な見どころはこんなところ。
 総じて、香辛料のにおいが充満した市場、ケバブ屋、オープンカフェなどが小範囲に密集した、トルコの日常をゆったり堪能できるのどかな街だったが、このときはとあるふたつの目的があったため、翌朝には宿を発ち、ブルガリアを目指した。
エディルネ市内のバス会社オフィスでチケットを購入したところ、ブルガリア行きのバスはエディルネ中心街を通らず、郊外のホテル前を通過するとのことだったので、まずはそこまで路線バスで移動した。そのホテルは錆びついた看板といい、周囲のだだっ広い荒野といい、映画『バグダット・カフェ』じみた寂寞感をまとっていた。ホテル内のレストランでケバブサンドと粉っぽいトルココーヒーを注文し、売店でウェットティッシュやスナックバーを買い込んで、あまっていたトルコ・リラをすべて消化した。
 それから、ホテル前の幹線道路でバスを待った。
 待ち人はぼくひとり、
 仮借ない日差しに焼かれながら、
 水筒の生ぬるい水を飲んで、
 日陰はないかとぐるりを見まわし、
 自分の陰に入れないものかと考えあぐね、
 陽踏み、陽踏み、陽踏み、
 ひゅーっと口笛、はぁーっとため息、
 二度、三度と時計を見やって、
 二度、三度と道の端から端へ、
 消えたブコウスキーのいまこのごろを想って、
 トラックの巻き上げる砂埃に咳き込み、
 もうヒッチハイクでもいいかと一念発起、
 セダンに親指を立て、
 ワゴンに見放され、
 晴れ空をわたる鳥に睨みをきかせて、
 定刻を一時間近く過ぎたころ、ようやくバスがやって来た。ぼくは遭難者のように両手を大きく振ってバスを停め、いきおい飛び乗った。五年前はブルガリア側から超えた国境を、今度はトルコ側から越えて、

        2.ブルガリア

 古都プロブディフ、五月に開かれるバラ祭りで有名なバラの谷を経由し、ヴェリコ・タルノヴォに到着。
 ここはヨーロッパでも指折りの景勝地だ。とくに中州の先端から見渡す旧市街のパノラマはすばらしく、傾斜一面にひしめきあった縦長の古民家は、美そのものが迫ってくるような迫力にみなぎっている。
 丘の上に建つブルガリア帝国時代の遺産、ツァレヴェッツ城址からの眺望もまた見事で、崖に沿って続く城壁、眼下に広がるヨーロッパの原風景、透きとおった小川と、どこにカメラを向けても絵になる。町なかも素敵で、配電ボックスにペイントアートが施され、土産物屋のショーウィンドウにはあでやかな色彩の焼き物の器が飾られていた。ただ、美しいところにかぎって坂が多いという普遍的真理がここにも当てはまり、どこに行くにしても坂を上ったり下ったりと一苦労した。
 実を言うと、ぼくはこれらの景勝地をブコウスキーとまわった。さきのトルコのブコウスキーではなく、そのインスピレーションを受けて誕生したポータブル・ブコウスキーとともに。
 これもひとえに、ぼくが敬愛するエンリーケ・ビラ・マタスの『ポータブル文学小史』のたまものである。同作では、持ち運び可能なポータブル・サイズの芸術創作をモットーとする秘密結社シャンディと、それに所属するデュシャン、ピカビア、マイリンクなど実在した著名人たちがぞろ登場するのだが、これに感銘を受けたぼくは、一時期、偉人の伝記を読みふけってはひまなときに彼らと言葉を交わし、ともに行動するという空想に浸ったことがあった。たとえば、スターリンと「赤いもの」縛りの覚えてしりとりをしたり、三島由紀夫とチャンバラごっこをしたり。とくにこれはひとりでいることの多い長旅において効果的で、誰かと話したくなったとき、そうした偉人をこしらえて寂しさを紛らわせることができるのだ。
 今回の旅でいうと、アルメニア・エレバンのホステルに沈没していたときに「カフカ」が誕生した。ただしカフカは「ここがぼくの人生の終着点なんです」と言って日がな一日陽当たりのいいベッドから出ようとせず、ろくな話し相手になってくれなかったが。
 では、ポータブル・ブコウスキーはというと、長髪オールバックに無精ひげと実物とおなじ見た目をしているのだが、身丈は五〇センチにも満たない。カフカの場合とは異なり、今回は移動を頻繁に繰り返すため、バスにも持ち込めるようポータブル・サイズにしたのだ。惜しむらくは、ポータブル・サイズにしたせいか本物よりも感性と知性が鈍り、だいぶ下劣になってしまったようで、ヴェリコ・タルノボの美しい景観についてもたったの一言で片付けてしまった。
「女の脚のほうがよっぽど美しいよ」
 まあ、つまりは要するに、そういうことなのだ。

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 ソフィア。情緒ある落ち着いた石造りの建物が目を引くブルガリアの首都。ドミトリーの相場が一泊一〇〇〇円強と、ヨーロッパにしては比較的安いため、旅人はここで長旅の疲れを取ったりもする。
 ぼくも五日ほど滞在し、近代美術館やアートギャラリーをめぐった。とりわけ近代美術館の展示は充実しており、広くは北斎や歌川広重の作品まであった。
 また、古代ローマやオスマン帝国時代などの出土品が展示された考古学博物館にも足を運んだ。ここでブコウスキーは、ガラスケースに入った黄金のブレスレットに始終見入られていた。さきの近代美術館ではとつぜんタバコを吸い出し、学芸員に追い出されたあとはずっとバーで飲んだくれていたので、彼にしては珍しいなと感心もしたのだが、話しかけてみるとブレスレットから目をはなすことなくこう言ってきた。
「こいつを身につけていた女のことを考えてたんだ。このがらんどうさ、不在性。美はこっちのほうに詰まってる」
 
 九月八日二〇時、アテネ行きの夜行バスに乗車した。
 ヨーロッパのバス代は軒並み高く、LCC(格安航空会社)と値段は大差ないが、夜に移動すれば時間と宿代を節約できるので、貧乏バックパッカーに夜行バスは欠かせない。この点、ソフィア―アテネ間は約一二時間とほぼ理想的な移動時間なので、たっぷり睡眠をとれる。
 と、余裕綽々で乗り込んだ先で勃発したのが、おばさんツープラトンとのサイレントバトルだった。
 まず、チケット片手に座席を探したら、ぼくの席に大福みたいな体型のおばさんが座っていた。多少たじろぎはしたものの、まあ、これ自体は取り立てて珍しいことではない。海外のバスでは座席番号が割り振られていても、みなおかまいなしに好きな席に座っていたりすることがざらにある。だが今回は長距離バスであり、途中の乗車地でほかにも乗客が乗ってくる可能性があったので、いちおう断りを入れておくのが道理だと思い英語でおずおずと話しかけた。
「すみません、ここぼくの席なんですけど」
 すると、火打ち石めいた鋭い音がかえってきた。
「ちっ」
 そしておばさんは「やれやれ」といった具合に首を振りながら立ち上がり、ひとつうしろの席にどっかと腰をおろした。
 なんだかよく分からないが、気分は悪い。
 おずおずと通路側の席に座り、荷物扱いのブコウスキーを頭上の収納スペースに押し込んだ。「うぉぉぉぉぉぉぉぉ」と苦しげなわめき声を上げていたが、乗車前にカティーサークを浴びるように飲んだせいか、すぐに空でも飛んでいきそうな豪快ないびきをかきはじめた。
 その震動が乗り移ったかのように程なくしてエンジンがかかり、バスが発車した。周囲の席はあらかた埋まったが、ぼくのとなりには誰も来なかった。おばさんに移動してもらっておいてなんだが、ラッキーである。
 車内消灯後、窓際の席に移動し(途中で誰かが乗ってきたらもとの席に戻ればいいやと思い)、イヤホンで音楽を聴きながら目をつむった。するとしばらくして、どこからかブルーチーズのようなにおいが漂ってきた。ふと窓のほうを横目で見ると、窓と座席のあいだから赤い布きれみたいなものがはみ出ていた。靴下だ。座席の隙間からこわごわうしろを覗き込むと、おばさんが通路側の座面に頭を置き、右足を窓の上部に、左足を窓とぼくの席のあいだに挟んでいた。
 なにこの超絶アクロバティック寝相。
 注意すべきか迷ったが、そも窓際の席はぼくの席ではないし、さきの舌打ちが脳裏をかすめて、おとなしく通路側の席に移った。ここならブルーチーズのにおいもあんまりしない。ふたたび目をつむるが、我ながら気色悪いことにブルーチーズで食欲が刺激されたのか、すこし空腹を感じた。人間の食欲中枢とはまことに恐ろしいものである。
 乗車前にスーパーでエナジーバーを何本か買っておいたことを思い出し、リュックサックのジッパーを開けて右手を突っ込んだ。
 瞬間、前方で野太いうなり声が炸裂した。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
 ぼくはリュックサックに手を入れたまま硬直した。
 そういえば、乗車時にちらっと見かけたが、ひとつ前の席にもおばさんがいるのだ。しかも大量生産されたかのような、うしろの席のおばさんとそっくりのおばさん二号が。いまの猛獣のような声は二号が発したものなのか、まさかぼくの行動がそれを引き起こしたのか? いやまあ、たしかに多少の音は立てた。エナジーバーの入ったビニール袋がリュックサックの底のほうにあるので、ノートパソコンやら上着やらガイドブックやらをかき分け、がさごそと。とはいえ、刹那の出来事だったし、いくらなんでもそんなことで車内全体にまで轟くような叫び声をあげるわけがない。なにが原因か定かではないが、単なる偶然だろう。
 そう判断してエナジーバーの捜索を再開するも、またもや「あぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
 たまらずリュックサックから手を抜いた。
 にわかには信じがたい。信じがたいのだが、どうやら認めざるをえないようだ。エナジーバー探しと絶叫の因果関係を。あまりにも過剰だし、不条理の感すらある。それでもやはり非はこちらにあるのだろう。なぜならどんなに小さくとも、一瞬でも、音は立てた。それは紛れもない事実だ。
 そう自分に言い聞かせ、空腹を忘れるべく眠る努力をすることにした。再度隙間からうしろを覗くと、おばさん一号はいつのまにかひざを折り曲げた姿勢で眠っている。窓側の席であれば多少倒してもかまわないだろうと思い、もとの席に戻ってすこしうしろに倒してみた。すると間髪入れず、背中に「ドン!」と正拳突きされたかのような衝撃が走る。いやいやいや。そんなばかな。きっと、寝返りを打ったときに足が当たったのだろう。半ば祈るような気持ちで目をつむるが、なおも「ドン! ドン!」
 そうだ。真後ろにおばさんの頭がないとはいえ、なんの断りもなしに倒したのがいけなかったのだろう。そこで座面にひざで立ち「すみません、倒してもいいですか?」と小声で話しかけ、両手を前に突き出して席を倒したいジェスチャーを示してみた。が、薄闇のなか腫れぼったい目だけがぎょろりと向けられる。
 そして前の席からは「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
 だからぼくはもうなにもかもをあきらめ、席を元の位置に戻し、ただひたすら小さく、ポータブル・サイズにまで縮こまって凝固し続けた。そんな具合でほぼ一睡もできないまま、
 
        3.ギリシャ

 アテネの第一印象は、あんがい汚い。
 白亜の建物が多く、スペインやイタリアに似た南欧らしい街並みをしているのだが、民家の壁から店のシャッターまでグラフィティでびっしり埋め尽くされている。驚くべきことにそれは電車の外装にまでおよび、それが走る様はおびただしい数のグラフィティが自走しているようにも見える。

写真2_アテネ・落書き列車

 ホステル到着後、朝早すぎてチェックインできなかったため、バックパックをストレージルームに置かせてもらい、そのままアテネ観光に繰り出した。
 まずはアクロポリス遺跡。
 アテネ観光ではアクロポリス遺跡、古代アゴラ、ゼウス神殿をはじめ名所七カ所の共通券(五日間有効)を購入するのが一般的だが、数年前に値上がりしたらしく、いまやディズニーランドのアフターシックス並みの料金になっている。アクロポリス内のパルテノン神殿もディズニー並みの大混雑で、前門プロピュライアからすでに長蛇の列ができている。ギリシャ神話や哲学史に想いを募らせる余裕もなく、早々に退散。
 ついで古代アゴラに赴き、個人的に楽しみにしていたソクラテスがアテナイ人にいちゃもんをつけていたという場所へ。
だがなにもない。
 プラトンのアカデミアがあったという場所へ。
 だがなにもない。
 厳密には建物の跡らしきものはあるのだが、なにもないも同然。
総じて、アテネはあるところにはなにかあるのだけど、周知のとおりその重厚な文化が最盛を迎えたのは紀元前ごろなので、現在はなにかあるようで基本的にはなにも残っていない。もしや街じゅうのグラフィティはこの「なにもなさ」の埋め合わせなのではないだろうか、もしくは「なにもなさ」自体に描くというコンセプチュアル・アートなのではなかろうか。そんな妄想の余地がいくらでもあるほど、なにもない。そういう意味ではプラトンもデモクリトスもピタゴラスも誰もかも好きに配置できるので、なにもないようでなにもかもがあるともいえる。
「エウレーカ、エウレーカ、エウレーカ!」とアルキメデスが無邪気に民家の壁に色とりどりの数式を書き殴っている。
「うまい、うまい、うまい!」とソクラテスが問答法も忘れ、スブラキを夢中にほおばっている。
「いい胸、いいケツ、いい脚!」とブコウスキーがオープンカフェでワイングラスを傾けながら、道行くギリシャ人女性に熱い視線を送っている。
 妄想家の諸君、アテネへござれ。

 なにもないからではないが、長期旅行者はギリシャを旅のルートから外すことが多い。半島である以上、ヨーロッパ全体を効率的に周遊するにはどうしても遠回りになってしまうし、陸路だと南北を往復する恰好になる。ぼくもそうした理由から、前回ヨーロッパをまわった際はこの国をスキップした。
 にもかかわらず、なぜ今回ギリシャくんだりまで足を延ばしたのか。それというのも今宵、ここアテネで催されるSlowdiveのライブを観るためである。
 ここで突然ではあるが、Slowdiveについて簡単に説明しておこう。
 Slowdiveとは、九〇年代初頭にイギリスで流行したシューゲイザーという音楽ジャンルのバンドである。同ジャンル最大の特徴はディストーションを前面に押し出したギター演奏で、エフェクターをペダル操作しながら歌う様が「靴を凝視する(Shoe gazing)」ように見えることからシューゲイザー(靴を凝視する者)と呼ばれるようになった。代表格のMy Bloody Valentineをはじめさまざまなシューゲイザー・バンドがいるが、Slowdiveが他と一線を画していたのは、ディストーションのみならずリバーブをメーターが振り切れるぐらい最大限にきかせ、耽美的、幻想的な新世界を創造したところにあった。
 だが九〇年代初頭、Slowdiveに対する批評家の目は厳しかった。それはおりしもOasisやBlurなどブリット・ポップが流行りはじめた時分で、シューゲイザーは時代後れの音楽と揶揄されたのだ。シューゲイザー・バンドとして後発組だったSlowdiveは、正当な評価を得られないままシューゲイザー・ブームの終焉とともに解散し、ぼくが知ったときにはすでにCDのなかだけの存在になっていた。
 しかし二〇〇三年、映画『ロスト・イン・ザ・トランスレーション』でソフィア・コッポラがMy Bloody Valentineの楽曲を挿入歌として使用し、シューゲイザーが再注目されると、シューゲイザーを現代風にアレンジしたネオ・シューゲイザーなる新ジャンルが興起した。そして時代がようやく追いついてきた二〇一四年、Slowdiveが再結成。奇しくも再結成後、はじめてライブ演奏した地がここアテネだったのだ!
 ぼくはジョージア滞在中、そんなゆかりの地アテネでSlowdiveのワンマンライブが近々開かれることを偶然知り、ひそかに決意を固めたのである。ジョージアからギリシャなんて(地球規模で考えれば)ほんのひとまたぎの距離。この絶好機、逃すわけにはいかない。これを行かずしてどうして日本に帰ることができようか!

 ……というようなことを、その日、ホステルのドミトリーで一緒になったオーストラリア人男性に対して熱弁をふるった。彼はヨーロッパを三ヶ月周遊しているこなれた旅人で、ベッドの縁に腰かけながらもの珍しそうな目でぼくを見ていた。
 まぁ事実、もの珍しかったのだろう。
「それで」と、ぜいぜい息を切らすぼくに向かって彼は微笑んだ。「そのライブはいつからあるんだい?」
「今日ですよ」
「でも、何時に?」
「何時って、二〇時ですけど」
「……大丈夫か? もう一九時半だよ」
 ぼくは財布をひっつかんで飛び出した。ふらふらバーに吸い込まれていったブコウスキーを置き去りにして、地下鉄を乗り継ぎ、ライブハウスの最寄り駅に降りるなりビーチサンダルで裏路地を疾走した。
 ぺたぺたぺた!
 路地いっぱいに足音がこだまし、道行く人がふりかえり、商店の人が何事かと表に出てきた。それでもぼくはメロスのように走った。友も、ブコウスキーも、誰が待っているわけでもないが、あえて言うなら未来で待つ陶然とした自分自身に会うために!
 ライブハウスの看板が見えたのは二〇時ちょうど。やった、間に合ったと安堵するも、入場口はまだ開いておらず、一〇人ばかしが並んでいるだけだった。入場口前にいた従業員に尋ねると「二〇時は開場の時間だよ」と親切に教えてくれた。「前座のバンドもあるし、Slowdiveの出番は二二時以降になるんじゃないかな」全力疾走した自分がアホらしくなった。
 一〇分ほどで入場口が開いた。キャパは二、三〇〇人ほど、二階席まである。くさくさビールを飲んだり、ツアー・グッズを見たりしながら待つこと約一時間、前座のバンド演奏がはじまり、客席がだんだん埋まりはじめた。観客はステージ前に詰めかけ、ビール片手に身体を揺らして口笛を鳴らす。禁煙サインがあるのにもかかわらずタバコをふかし、どこからかマリファナのにおいも漂ってくる。どうやらこういうところの禁煙サインは視覚的なオブジェでしかないらしい。
 そして二二時過ぎ、照明が落ち、Slowdiveがギターをかき鳴らすが早いか、アテネのどこを探しても見つからなかった神話世界がステージ上に広がった。メディア媒体を通してしか知り得なかった彼らがピグマリオンのごとく命を吹き込まれ、生き生きと演奏している。ぼくの心地はもうオルフェウス、愛しの死者と再会したかのように全身が総毛立ち、周囲の観客から若干距離を取られながらものべつ幕なしに歓喜の咆哮を放った。「キャー!」
 Slowdiveは現代のミューズだ。陽と月さながら、対極の存在にあるディストーションとリバーブを弦の上で引き合わせ、狂わしいまでに音をひずませる。大気が決壊し、洪水が発生する。そこからもたらされたのは、どんなに荒々しく見えようと、水面下では静けさが淙々と流れる大海。荒れ狂いながらも、呑み込まれてしまいたいという衝動を抱かせる罪深い甘美な波だ。その二元的な海を、ニール・ハルステッドの歌声が雄々しいアルゴー船となって伸びやかに渡ってゆく。舳先からは、麗しの女神レイチェル・ゴスウェルがサイレーンのごとき至純なる歌声を響かせて……。

 ……というような夢幻の一夜を、翌日、カランバ行きの列車でブコウスキーに語り聞かせた。
 だが彼はまるで関心を示さず、折りたたみテーブルの上で、ワインの染みのついたノートに鉛筆を走らせていた。ときおり窓のほうを眺め、天井に目を向けて。またノートに鉛筆を走らせて。ぼくがもうすこし興味を持ってくれと文句を垂れると、ブコウスキーは「いいか」と折りたたみテーブルをどんとこぶしで打った。
「相づちっていうのは人さまざまだ。鉛筆を持つ。亜鉛を紙にこすりつける。線と曲線をつくる。文字にする。文章にする。詩にする。それがおれのこの世に対する相づちだ。そこにはおまえに対する相づちもふくまれてるんだ。ついでに言っておくと、聴くならボブ・ディランかジョニー・キャッシュにかぎる」
 それだけ言うと、またノートに鉛筆を走らせはじめた。横目で盗み見すると、そこにはこんな言葉が無数に書き殴られていた。
「くそったれ、くそったれ、くそったれ、くそったれ、くそったれ、くそったれ、くそったれ、くそったれ、くそったれ、くそったれ、くそったれ、くそったれ、くそったれ……」

        ↓

 メテオラ修道院群の拠点の町、カランバ到着。
 メテオラ修道院群とはひしめく奇岩群の上に建設された修道院の共同体で、俗世を離れ、瞑想に生きるキリスト教修道士が一〇〇〇年前後に住み着きはじめたことに端を発する。その後一四〇〇年頃に、東ローマ帝国におけるセルビア王国の拡大にともない多くの修道士がメテオラに瞑想の地を求め移住し、修道院を創立したのだそうだ。

写真3_メテオラ

 カランバの町の背後にも、とんでもなく巨大な奇岩がそびえたっていた。ダリやマグリットの世界に迷い込んだのかと錯覚するほど超現実的な光景で、空から降り注いだ幾千の隕石が壊れることなくそのまま大地に突き刺さったかのようである。
 おすすめのメテオラ修道院群への(お金があまりないバックパッカー向けの)行き方は、行きをバスで、帰りは徒歩で戻るというもの。修道院群は奇岩の上にあるため、上り坂がかなりきついのだ。バスの本数こそかぎられているが、一、二ユーロで最も有名な大メテオロン修道院まで直行できるので、そこからほかの修道院を徒歩でめぐればいい。主な修道院はぜんぶで六つあり、すべてを見るにはタクシーを使うかツアーに参加しないと難しいが、徒歩でも四つぐらいはまわれる。地図は必須だが、帰りはほぼ一本道なので迷うこともないし、点々と歩いている観光客が道しるべになってくれる。
 事前説明はこんなところだろうか。
 修道院めぐりは景観が素晴らしいこと以外特筆すべき点はあまりなかったので、ここは思いきってぼくとは別行動を取ったポータブル・ブコウスキーによるポータブル旅行記でメテオラを紹介したい。

        メテオラでいちばんの美女

 まいったね
 どこ行っても人だ
 バスも、修道院も、道路も
 奇岩の先端だってそうさ
 サンドイッチを頬張ってたら
 わっと観光客に囲まれた
 きれいだねぇ、みんなで写真撮ろうよってさ
 それでもおれはサンドイッチを食べ続けた
 もうすこしでおいしいハムに届くところだったんだよ
 だけどそのとき観光客が言ってきた
 良かったら写真を撮ってくれませんか
 だからおれは言ったんだ
 悪いけどサンドイッチを食ってるんだ
 これからようやくおいしいハムにありつけるんだよ
 そしたらやつら顔をしかめて
 どこかに行っちまった
 でも仕方ないよな
 おれはサンドイッチを食べてたんだ
  
 修道院の博物館じゃ女に会った
 いい女だった
 胸も、尻も、顔も
 ハムを忘れさせるぐらいとびきりの
 そんな女が、ガラスケースにハムみたいなお尻を
 ぴったりさせながら言うんだぜ
 ねぇあんた、ひとりなの
 わたしがいろいろ説明してあげるから
 わたしにくっついて来るってのどう
 ほら、この芥子色のリュックサック
 なんにもついてなくて、さみしいでしょ
 キーホルダーでも欲しいなって思ってたのよ
 そりゃついてくしかないよな

 おれはリュックにぶらさがって
 修道院の端っこまでついていった
 太いロープやらウィンチやらあって
 すぐ外は深い崖になってた
 女は真下を覗き込んで
 長い亜麻色の髪の毛垂らして
 お乳も垂らしてさ
 それから言った
 修道士はむかし奇岩を上り下りするために
 縄ばしごや滑車を使ってたのよ
 そりゃ傑作だね、とおれは言った
 まるでサーカスじゃねぇか
 おれもそういうサーカス小説を書いてみたいね
 あんた、小説を書いてるの?
 ああそうさ
 どんな小説書くの
 女の小説だよ
 どんなのよそれ
 女の脚がいいとか、胸がいいとかだよ
 なんでそんなの書いてんの
 そりゃもちろん女を理解するためだ
 理解してどうすんのよ
 愛するためだよ
 お前さんみたいないい女をな
 彼女は笑った
 いい女の証拠だ

 昔の修道士は、と女は言った
 静穏を求めてここに来たのに
 最近じゃ観光客だらけ
 だからメテオラから離れる修道士も
 たくさんいるっていうわ
 観光客なんてろくなもんじゃねえな
 おちおちハムも食わしてくれねぇんだ
 そうかな、と女は言った
 わたしたちも観光客でしょ
 観光客の分際で、観光客の悪口は言えないわ
 そりゃそうだ、とおれは言った
 だけど考えてもみろよ
 おれらはもう修道院を観光してるんじゃない
 ここはたんなる舞台で
 いまはおたがいを観光してるんだ
 ここを出たあとも、バーでも、ホテルでも
 彼女は笑った
 ほらな、いい女だ

 でもよ
 むかしの修道士はご苦労なこった
 修道院ができる前は
 奇岩のうえに座ってさ
 くぼみに身体を埋めてさ
 それで祈ってたんだろ?
 そんなのなんにもなりゃしねぇ
 女だっていねぇんだ
 ハムも、チェリーパイもない
 なんにもなきゃ天国だって地獄だよ
 そうかしら、と彼女は言った
 その天国とやらに行くために
 地獄とやらに行かないために
 修道士は修行してたんでしょ
 それに昔はチェリーパイなんてなかったんじゃない?
 だけど考えてもみろよ
 そんなことしてたら
 この世が地獄であの世が天国
 順番が逆になっただけで
 この世が天国であの世が地獄ってのと変わらないだろ
 それとチェリーパイは単なるメタファーだ
 お前さんのウシみたいに
 おっきなお乳でもかまわねぇよ

 ねぇあんた
 さっきから黙って聞いてりゃ最低ね
 最低最悪のいかれゲス野郎ね
 ここをどこだと思ってんの
 野蛮にもほどがあるわ
 知ってるよ
 だから言ってるんだ
 汚いおれ、汚い言葉
 汚い存在があったほうが
 ここの神聖さが際立つだろ
 おれは言葉を持った地獄なんだ
 おれのおかげで
 おまえさんのウシみたいなお乳も際立つんだ
 つまり自己中のくされウジ虫ってことね
 この特大のくそったれ
 女はきびすをかえした
 待てよ
 帰るんならそっちじゃねぇ
 そっちはトイレだ
 くそったれ、と女は言った
 そしてトイレに入った
 
        ↓

 おほん。
 次の行き先はアルバニア。
 直通バスがないのでまずは北部のイオアニアという街へバス移動し、窓口で一三時五〇分発のアルバニア・ジロカストラ直通のバスチケットを購入した。
 バスの発車時刻まで二時間ほどあったので、ぼくはこの空き時間を使って、ブコウスキーに別れを告げることにした。ポータブル版の傍若無人な振る舞いに少々うんざりしていたし、これ以上一緒にいると、本物のブコウスキーまで嫌いになってしまいそうな気がしたので、ここいらで別れるのが得策だと思ったのである。
 ぼくは懇切丁寧に別れを切り出したのだが、彼の返答はじつに辛辣極まりないものだった。
「この特大のくそったれ!」
 そしてトイレに入った。
 腹立たしさと後ろめたさは多少感じたものの、もうあの悪言につきあわないですむという安堵のほうが大きかった。ぼくは売店でハムトーストとオレンジジュースを買い、ささやかなランチを楽しんだ。
 だがそう経たないうちに、また別種の不安に襲われた。出発時刻を過ぎてもバス到着のアナウンスが流れないのだ。発着場に行ってみるも、バスはまだ来ていない。
「ジロカストラ行きのバスは遅延ですか?」
 窓口で尋ねてみると、予想だにしない答えがかえってきた。
「もう行っちゃったよ」
「え、だって、サーティーン・フィフティー(一三時五〇分)ですよね?」
「ノー、ノー、サーティーン・フィフティーン(一三時一五分)」
 中学英語レベルの痛恨のミス。
 次のジロカストラ直通バスは夜までなく、国境までのバスならあと一〇分で出るというので、やむなくそれに乗り込んだ。
 約三〇分後、バックパックをかついで入国管理局へと続く坂道をのぼっていると、別れたはずのブコウスキーの高笑いがどこからか響いてきた。「アッハハハハハハハァッハハハハハハハッハハハッハァーッ!」
 
        4.アルバニア

 この国はヨーロッパ最貧国であり、一昔前まではヨーロッパの北朝鮮と呼ばれていたほど閉鎖的な独裁国家であった。さらに九七年には国民の三分の一がネズミ講に引っかかり、全財産を失ったというハチャメチャな国でもある。近代化されたのはつい最近のことで、それまでバナナを知らなかった国民も大勢いるらしい。
 そうしたエピソードからして、尋常一様の国ではないと並々ならぬ覚悟をもって越境したのだが、国境は思いのほかなにもなかった。
 というか、なにもなさすぎた。ATMも、両替所も、バス停も。
 観光客らしきすがたは見当たらず、小さな食堂に地元民がちらほらいる程度。英語がまったく通じず、「バス」という英単語すら伝わらない。ギリシャから来ると、時代も世界もワープしたかのようだ。
 さまよったすえ、運良くアルバニア人の親子とタクシーをシェアできた。一時間ほど色味のないだだっ広い平野を走り、ジロカストラ到着。運転手に銀行まで連れていってもらい、ATMで現金を引き下ろしてタクシー代をわたした。
 降ろされたのは平地の新市街で、青い山の斜面に世界遺産である旧市街「石の町」が広がっていた。今晩のホステルも見どころもすべて旧市街にあるのだが、ネットのホステル情報に旧市街は勾配がきついので公共交通機関を使ったほうが賢明だと書かれていたため、近くの軽食屋でハンバーガーを買い、それを食べながら路線バスを待つことにした。
 だがバス停に着くなり、酔っぱらいのおっさんに絡まれた。アルバニア語なのでさっぱりわからないが、ぼくのことを上から下までなめるように見ながら熱っぽく語りかけてくる。ためしに「ジャパン、ジャパン」と言ってみると、そういうスイッチが入ったかのようにとつぜん「サムライ、ニンジャ」としゃべりはじめた。
 もう何度となく。
「サムライ、ニンジャ、サムライ、ニンジャ、サムライ、ニンジャ、サムライ、ニンジャ、サムライ、ニンジャ、ニンジャ、ニンジャ、サムライ、ニンジャ、サムライ、ニンジャ、サムライ、ニンジャ、サムライ、ニンジャ、ニンジャ、ニンジャ……」
 なぜか「ニンジャ」のほうが多めだった。
 おっさんに戸惑っているうちに、どこからか物ごいの子供たちが五人ほどやってきた。アジアや中南米ではざらにあったが、今回の旅で物ごいの子供に会ったのはこれが初めてだった。物ごいの子らに対する接し方は旅行者のあいだでも意見が分かれるところだが、ぼくはいちおうそのとき持っているお菓子や食べものをあげることにしている。このときも、さっき買ったばかりのハンバーガーと二本のエナジーバーを子供たちにあげた。
 おっさんが懲りずに「サムライ、ニンジャ」を連呼し、子供たちがハンバーガーをみなで分け合っているあいだに、今度は一頭の馬がアスファルト路をぱっかぱっかと歩いてきた。なんだ、と思ったら騎馬警官である。
「サムライ、ニンジャ、ニンジャ」を雨あられと浴び、子供らがエナジーバーをほおばり、騎馬警官が通り過ぎていったあとには、ポータブル・ブコウスキーがひょこりすがたを現した。「よぉ、また会ったな」と偶然出会ったかのように話しかけ、しれっとぼくのとなりに並んでみせる。なぜか背丈が三〇センチぐらいに縮んでいた。

 数分後、路線バスが到着し、ようやく「サムライ、ニンジャ」地獄から解放された。
 旧市街の坂道はおむすびをうっかり落としでもしたら追いつけなさそうなほど急で、バスがブレーキをかけるたび、ぐらりと揺れるたび言いようのない恐怖に襲われた。ぼくはバックパックを両足のあいだに挟み、すがりつくようにして手すりにつかまった。かたやブコウスキーはつり革にぶら下がり、身体がぶらんぶらんと揺れる感じを「おっほっほっほっほっほ」と楽しんでいた。ばかばかしくなってきたので、もう話しかけるのはやめた。
 ホステルにチェックインしたあと、旧市街のランドマークであるジロカストラ城に向かった。城壁は三世紀頃、現存する城内の建物はオスマン帝国の時代に建設されたもので、内部は廃墟のように暗く、そちこちがハトの糞で汚れていた。一時代前の砲台や戦車がずらりと並んだ回廊を抜け、石階段をあがって城壁の上に出ると、眼下一面に旧市街の街並みが広がった。家々の壁はおおむね白塗りで、屋根は薄べったい灰色の平石で覆われている。ジロカストラが「石の町」と呼ばれるゆえんがこれである。

写真4_ジロカストラ

 ジロカストラ城の一角は軍事博物館となっており、共産主義時代に政治犯を収容していた牢獄もあった。無機質な通路は不気味な静寂が蔓延っており、光源は小窓から差し込む斜陽ぐらいで、そこらじゅうに影が巣くっている。とある独房の壁にはアルバニア語の文字の連なりが書かれており、当時の収容風景を強烈に喚起させた(観光客の落書きという可能性もあるが)。
 ここで、背丈一〇センチメートル大になったブコウスキーが声をかぎりに叫んだ。「こいつは巨人族のものに違いない!」
 この機を逃さず、扉をしめて彼を独房内に閉じ込めた。

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 翌朝、バスを乗り継いでベラトへ。
 ここはジロカストラ旧市街の拡大登録という形で世界遺産になったそうで、蛇行する川の両岸の傾斜地一面にオスマン帝国時代の古民家が並んでいる。この家々の窓が織りなす景観から、ベラトは「千の窓の町」と呼ばれているのだ。
 ゲストハウスにチェックインしたあと、心臓登りの坂をのぼって山の頂に建つベラト城へ向かった。城というより城塞に近いらしく、古色蒼然とした城壁が頂上を取り囲むなか、土産物屋やホテルが建っている。貯水槽の暗渠を覗き込み、イコン博物館をまわって、その後、見張り台から旧市街を一望した。
 そのとき、背後から声がした。
「また会ったわね」
 振り返ると、キャミソールすがたのオランダ人の女の子が微笑みながら立っていた。彼女はブコウスキーのような妄想の産物ではない。さっきバスターミナルから市内に向かう路線バスで一緒になったのだ。
 ぼくらは見張り台の端に腰掛け、旧市街を見下ろしながら一〇分ほど話をした。彼女はこんなことを言っていた。
「明日にはあそこの山にトレッキングに行くつもりなの。そうね、こうしてみると大きそうだけど、一日もあれば行って帰ってこれるらしいわよ」「そう、アルバニアは二度目なの。この前は北部の山をトレッキングしたのよ」「ううん、ヒッチハイクでまわってるの。べつに襲われたりもしないし、けっこう簡単よ」「いまは学校を卒業して、仕事がはじまるまでのバケーションなのよ。建築士の事務所で働くの」
「それじゃ、いい旅を」
 そうして彼女は去っていった。
 こうやって綴ってみるとなんでもないやりとりに聞こえるが、ぼくにはとても印象的な一幕として脳裏に焼きついている。見張り台に残されたぼくは、彼女のうしろすがたを見やりながら一抹の後悔を抱いていたのだ。ブコウスキーを妄想せずにはいられないほど寂しかったんだから、彼女を夕食にでも誘えばよかったかもしれない、と。

 だがその日の晩、ゲストハウスのベランダでタバコを吸っていたおり、ハルカちゃんという日本人の女の子に出会った。
「日本人かなぁって思ったんだけど、ちょっと確信が持てなくて話しかけそびれちゃったんですよね」
 じつは昼間にもドミトリーで顔を合わせていたのだが、ぼくも同様の理由から声をかけそびれてしまったのだ。
 なんでもハルカちゃんはモロッコから旅をはじめ、三ヶ月ほどヨーロッパを周遊し、昨日、ここベラトに到着したそうだ。大学卒業後、一年ほどバイトを掛け持ちして旅の資金を貯め、現在もネット上でやりとり可能なデータ入力のバイトを続けているらしい。
「でもこれがけっこうたいへんなんですよ。たまに日本の営業時間に合わせて作業しないといけないときがあるんですけど、時差があるからドミトリーに泊まってるときも夜中に抜け出して、コモンルームとかで作業しなきゃいけないんです。最近、海外ノマドとか流行ってるみたいですけど、あたしはまねできそうにないですねぇ」
 彼女はそう言いながら銀のピンキーリングをはめた細長い指で、絹糸のように細やかな長い黒髪を掻き上げる。どことなくエキゾチックな工藤静香のようだ。
 そんな折、七、八〇歳ぐらいのやせほそったおじいちゃんがフランス語で話しかけてきた。ここのゲストハウスのオーナーのお父さんで、学生のときに特待生としてパリに留学していたためフランス語を話せるらしい。
 このおじいちゃんが朴訥とした見た目を裏切り、なかなかの個性派であった。
 まず、「禁煙ブームなんてしゃらくせえ」と言わんばかりのヘビースモーカーで、ぼくが安物のタバコを巻いていたら「もっと良いのがあるぞ」と山盛りのタバコの葉を持ってきた。「そんなもの吸っていないで、こっちを吸え。巻き紙もこっちのほうが良質だぞ」と、タバコの葉と巻き紙を押しつけてくる。
 けっこう、ワイルドだ。
 そしてぼくが小説を書いていることを告げると、「おぉ、友よ!」と目を見開き、背骨が折れそうなほどきつく抱きしめてきた。「今度わたしの詩集も出版されるんだよ! ちょっと待ってなさい!」
 飛び跳ねるようにして自室に入り、紐で綴じられた分厚い紙束を持ってくると、一枚ずつめくりながらこれはこういう詩だと説明し、ときにはそらんじてくれた。どれも手書きで、タバコの灰のあとやいびつに折れた紙の端を見ているだけで、不思議とこころのやわらかい部分がくすぐられる。すぐ目の前に最愛の人がいるかのようにしっとりと詠み上げる声音を聞いているだけで、こころのかたい部分がほぐされる。
 けっこう、癒やし系だ。
「これがわたしのお気に入りの詩だ」
 おじいちゃんは咳払いをひとつうち、愛の詩をじっくり聞かせてくれた。フランス語なので完璧には理解できなかったが、少なくとも港で別れを惜しむ恋人たちの詩であることは伝わってきた。
「これは奥さんのことですか」
「ノン、ノン」と大きく首を振る。「彼女は大昔に別れた恋人だよ。わたしが人生で本当に愛したのは彼女ひとりだけなんだ。おぉ、遠き日の思い出、わたしの愛よ!」と詩集をぴしゃりとたたいて、「きみにもわかるだろう? 過去に失ったもの、そのかけがえのなさが!」
 けっこう、情熱的だ。
 それからおじいちゃんは詩集を閉じるとハルカちゃんのもとへ赴き、花に水をやるようにして彼女にも愛の言葉を注ぎはじめた。「えーと、これ、どうやって受け止めてあげたらいいんですかね」と苦笑いするハルカちゃん。
 けっこう、恋愛体質だ。
 ブコウスキーしかり、詩人とはいくつになってもかくのごとき生きものなのか。

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 ジロカストラへ向かうハルカちゃんと別れ、一路首都のティラナへ。
 ティラナはクラブ、カフェ、バーがひしめく都会だ。核シェルターを改築したミュージアム「BANK ART」では現代アートのほか共産主義時代の歴史を学べたし、近代美術館では、藤本壮介さんの『Could Pavilion』という白い格子で構成された白雲のような巨大芸術作品や、共産主義時代のプロパガンダ・アートも鑑賞できた。探せばほかにも見どころはあるのかもしれないが、ぼくにはもう時間が残されていなかったので、ティラナは泣く泣く二日間で切り上げた。
 なぜこんなにも急いでいるのか。
 それもすべては、『黒猫白猫』や『アンダーグラウンド』でおなじみの映画監督エミール・クストリッツァ氏が、九月一九日にセルビア・レスコヴァツで開催する音楽ライブを観たいがためである(ティラナ到着時点で九月一六日)。国際映画祭の一環らしいのだが、ネットでいくら探してもチケットの予約サイトが見つからなかったので、一か八か、じっさいに現地に足を運んで確かめてみようと思った次第だ。
 そもそも今回の旅はコーカサス地方あたりで日本方面に引き返すつもりだったのだが、ひょんなことからSlowdiveとクストリッツァ監督のライブがあることを知り、いてもたってもいられず旅程を大幅に変更したのだ。要は、ちょっとした追っかけである。
 さて、ここティラナからレスコヴァツに向かうには、直線距離だけでいうとコソボを通過するのが最短ルートだが、セルビアとコソボは複雑な関係にあり、コソボからセルビアへの越境はかなわない(セルビアからコソボに入りセルビアに戻る、またはいったん周辺国に抜けてセルビアに入ることは可能である)。
 そこで若干遠回りにはなるが、夜行バスで一二時間かけて、

        5.マケドニア

 首都スコピエに滞在したのは一日。
 ここはレスコヴァツに向かうための通過点であり、五年前にも来たことがあるので観光には精を出さなかった(さらっと名所を紹介しておくと、マザーテレサの記念館、凱旋門のミニチュア版、二階建てのロンドンバス、アレクサンドロス大王をはじめとするおびただしい数の銅像、新市街を見渡せる城塞跡などがある)。当時の日記もスコピエに関する記述はすかすかだし、ホステルのベランダでトルコ人の下着メーカーの営業マンと「パーティー宿はやっぱり疲れますよねぇ」などと話をしていた記憶しかない。
 あれだけまとわりついて離れなかったブコウスキーも、愛の詩人おじいちゃんやハルカちゃんとの出会いを経て一気に存在感が薄まり、豆粒大にまで縮小していた。夜半、ぼくがベッドに寝転んで本を読んでいたときも、翌朝、ほかの宿泊客を起こさないように忍び足でドミトリーから出ていったときも、ぼくの髪の毛や肩のあたりをノミみたいにぴょんぴょこ飛び跳ねていた。
 そんなマケドニアでの滞在を要約するなら、消えゆくブコウスキーが最後に残していった短詩が適当であろう。

 マケドニア
 なんかしたっけ
 どこ行った?
 ケバブは食べたけど
 え、と、マケドニア?