解説
深緑野分
本だけは自分の味方だと信じていたあの頃。部屋のドアを閉め、抱きかかえるようにして本を広げたら、すぐさまお話の虜になる。文字にいざなわれるまま心を震わせ、主人公と手を繋ぎ、一行読むごとに目の前に敷かれていく物語の道を歩んだ。現実なんてどうでもよかった。天気がいいんだから外へ行きなさい、晩ご飯ができたから食べなさい、宿題をやりなさい、早く寝なさい、そんなお小言が憎らしくてたまらなかった。
今でも時々、あの幼かった頃の、文字どおり頭を本に突っ込むほど没頭した体験を、もう一度味わわせてくれる本と出会う。この物語は私のためだけに紡がれたものだと思え、冒険を経て本を閉じると、何かきらきらした特別なものに包まれているような感覚になる。本は子どもだけでなく、大人にだって魔法をかけてくれるのだ。
フランシス・ハーディングの物語にも魔法の力がある。もちろん、この『カッコーの歌』にも。
主人公は「あと七日」と囁く声を聞きながら目を覚ます。ここはどこか? 目の前にいる気遣わしげな表情の女性は誰か? そもそも私は誰なのか? 混乱する記憶は少しずつ整理され、ここは家族の別荘で、女性は母親、自分はテレサ――トリスの愛称を持つ十一歳の少女だということが、脳裏に浮かび上がってくる。
どうやらトリスはグリマーと呼ばれる沼地に落ち、体調を崩したようだ。だが何があったのか思い出せない。両親の会話を盗み聞きすると、父の知っている男が関与したらしいが、それ以上のことはわからなかった。
その上、奇妙なことが起きる。どれだけ食べても空腹でたまらず、真夜中に部屋を抜け出して林檎の木のまだ青い実や落ちて腐りかけの実まで食べてしまい、日記は何者かによって破かれており、ベッドには毎晩のように小枝や枯葉が落ちて、しまいには、ただの人形がまるで生き物のように口をきき、トリスを糾弾したのだ。
物語の舞台は、第一次世界大戦が終わって間もない一九二〇年のイギリス。トリスの父ピアス・クレセントは著名な建築家であり、クレセント一家は地元の名士として尊敬されている。母セレステは娘には愛情深いが、使用人に対してははっきりとした階級意識を持ち、トリスが学校を楽しい場所だと思うと学校を辞めさせ、気に入った家庭教師もクビにしてしまう。トリスをいじめているつもりはなく、それが“名士の一家として恥ずかしくない振る舞い”で、子どもたちに施すべき正しい教育だと思っているのだろう。とりわけ、兄セバスチャンが戦死して以降、両親の過保護と重圧は加速したように見える。
そんな、いかにもイギリスの紳士階級らしく取り澄ました一家の中で、荒れ狂う暴風雨となっているのが、九歳の妹ペンである。ペンはいつでも爆発している。姉のトリスを嫌い、罵り、癇癪を起こして部屋に引きこもり、両親から食事抜きの罰を与えられても、お腹をぐるぐる鳴らしつつ強情を決め込む。ギャングが出てくる映画が大好きで、大人たちが好まない遊びばかり思いつき、とんでもないことをしでかす。
この誰もが手を焼く幼い少女ペンこそが、物語のアクセルを踏む重要人物だ。しかし暴風が激しすぎてトリスはなかなか近づけない。ようやくふたりの手が結ばれた時、お話は陰鬱なトーンから躍動する冒険譚に変化して、大きく動き出す。
解説者自身は本書を読みながら、心の奥底にこっそり隠れていた子どもが、にこにこしながら外に出てくるのを感じた。幼かった私の本に対する選り好みときたらまるでペンのように厳しかったが、あの頃に読んだとしても大満足しただろう。打てばいくらでも響き、物語の美味しいところを惜しげもなく、女王が食べるご馳走のごとく次から次へと出してくれる。
動き出す人形、こちらを狙ってくる凶暴なはさみ、子どもだけが入れる映画館、砂糖衣のかかったケーキやマフィンをたっぷり食べさせてくれる不思議な仕立屋、鋼鉄のバイクを操り誰にも媚びない女性、いつまでも追いかけてくる冬。ある秘密の場所から無事に帰るためには、道にナイフを刺し、若いオンドリを連れて行かなければならないというくだりを読んだ時、思わず歓声を上げてしまった。そう、こういう本が読みたかったのだ。児童文学、力強い物語、とりわけファンタジーを愛してきた人にはたまらなく美味な作品に仕上がっている。
フランシス・ハーディングはインタビューで、「ファンタジーは、もっと贅沢でカラフルな嘘をつくことを許してくれる。世界への決めつけから外へ連れ出し、新しい考えを見せてくれる。私はそれを自由にするのです」(Publishers Weekly, Apr. 19, 2016)と答えている。
その言葉どおりハーディング作品は、『嘘の木』でも『カッコーの歌』でも、ファンタジーが凝り固まった思考や現状を打ち砕く破城槌の役割を担う。
ひょっとすると読者の中には、二〇一七年に邦訳刊行された『嘘の木』を読んで、この本を手に取った方もいるかもしれない。『嘘の木』は、嘘を養分に育ち真実の実をつける木、というファンタジーの要素を探偵役の手がかりとし、緻密に論理を積み上げていく優れたフーダニット・ミステリだった。一方今回の『カッコーの歌』は、サスペンスの手法を取りあちこちに伏線を張りつつも、冒険ファンタジーの色合いが濃い作品である。
どちらも、物語の筋と主人公の行動にファンタジーが有機的に結びついている。主人公は序盤、窮屈な世界で身を縮めているが、やがて不思議な体験を経て新しい世界へ歩み入る。すると手も足も自分が思うより長く頑丈で、何にでも手を伸ばせ、どこまでも歩いていけるのだと気づく。
しかし『カッコーの歌』の場合は、主人公が生き生きすればするほど、読者の胸はしめつけられて苦しくなってしまう。ファンタジーがある種の武器として主人公を助けた『嘘の木』とは違い、本作ではファンタジーの要素と主人公の境遇が絡み合っているせいで、彼女に刻々と迫るタイムリミットが残酷に響くからだ。
トリスを取り巻く設定自体は、世界中、さまざまなジャンルで描かれてきたし、珍しくはないかもしれない。だがそれらはたいていこちら側の物語、あるいは視点が混在するものであって、完全にあちら側の視点で固定され、最初から終わりまで一貫して保たれるお話を、少なくとも私は読んだことがなかった。しかもこの個性は、ただ作品をエンターテインメント化するためだけの効果ではなく、『カッコーの歌』のテーマそのもの、熱い血潮を全身に送る心臓になっている。
ペン、ヴァイオレット、ミスター・グレイス、アーキテクト、モズ。登場人物たちはみんな魅力に溢れているが、これほど読者を惹きつける主人公もそうそういない。
もし主人公が妹のペンだったら、まったく異なる手触りの物語になったはずだ。それはそれで面白く読めるだろうが、これほどの奥行きは生まれず、本を閉じた後の深い味わいも消えてしまったに違いない。解説者は同じ小説家として、彼女のような存在のまなざしに気づき、物語に設えたハーディングの偉大なる才能に、ひれ伏したい気持ちである。
なぜこの視点を選び、物語を語ったのか……それはハーディング自身のインタビューにヒントが隠されていると思う。
「私は不正を好みませんが、誰かが他者を不公平に扱おうとする心理に興味があり、アイデンティティの謎にも関心があります。/私は何か間違っていることを見た時、ただ否定するよりも、それを理解したいと思っています。中に入ってみたいのです」(Publishers Weekly, Apr. 19, 2016)
こうした著者の倫理観、人間観は、白か黒かといった単純な二元論とは一線を画するものと言える。
確かに『嘘の木』の主人公フェイスも複雑なキャラクターだった。女性に学問を与えないのが普通だった時代に苦しむ聡明な少女という設定は、下手をするといたいけで善良なだけの存在になりかねないが、フェイスの場合は違う。彼女は父の死の謎を暴くため“正しくないこと”に手を染めて嘘をばらまき、普通の道徳では計れない方法で敵を追い詰め、強さを身につける。フェイスだけでなく、優秀な博物学者だったはずの父や、周囲を敵に回しがちな母、左利きを矯正させられている弟などが、ステレオタイプでなく、多面的に、丁寧に描かれていく。
完璧に善良なキャラクターが誰ひとり出てこないのは、『カッコーの歌』でも同じだ。全員どこか歪だし、卑劣で臆病だし、人を見下すような意地悪な部分を持っている。モズをはじめとする“はぐれもの”たちは、人間からすると恐ろしく、正しいとは思えない生き物に見えるだろう。しかしいずれもかけがえのない、命あるものたちだ。
自分にとっての善が、人には悪に見えることもある。本作では、実は自身も犯罪に荷担していたと気づくキャラクターもいる。しかしもし本当に“罪を知る余地すらなかった”としたら、本人はどう向き合い、そしてまわりはどんな反応をするだろうか?
人間は自分を守ることを最優先にしたがる。弱い者を差別して優越感に浸ったり、思い込みから抜け出すことを拒み、何も見ず聞かずにいたいと思ってしまいがちだ。
それでも良心が疼くから、悩み考え、正しい方を選ぼうとする時として、それが自分にとって何の益にもならない、むしろ不利になる行為だったとしても。人間、もとい生命は複雑怪奇だ。贖罪というと聞こえはいいけれど、動機はただ自分の失点を取り返して名誉を挽回したいから、あるいはまわりを守りたいからなど、利己的なものかもしれないし、失敗する可能性だってある。それでもそこにはかすかな光が生まれ、次第に広がり、闇を少しずつ晴らせるだろう。やがて、敵だった誰かを理解できる日が来るかもしれない。
ハーディングは登場人物のひとりひとり、ひとつひとつの行為から目をそらさずに物語を紡いでいる。だからこそ物語に登場するすべての存在に命が宿り、良いものも悪いものも、どちらでもない灰色のものでさえ、背景や印象に残る個性を持つのだ。
それでいて、文章はまったく押しつけがましくないのがすごい。どこを読んでも表現豊かだし、時々ぴりっとしたブラック・ユーモアが顔を覗かせる。
ジャズも彼女の手にかかればこんな表現になる。パーティのBGM用のジャズは、「だれかのお母さんに会うために、足をきれいに拭いてお行儀よくしたジャズ」で、ヴァイオレットがかけたレコードのジャズは、「足を拭いていないジャズ。靴に砂利をつけたままでザクザクと部屋に踏みこんでくる」のだ。
姉妹ものとしても読み応えがある。妹が“悪い子”であればあるほど、姉は“良い子”になるべくがんばらなくてはならない。すると妹は一層へそを曲げ、姉妹仲はますます悪くなっていく。解説者自身、優秀な姉を持つ天邪鬼な妹として育ったので、ペンの暴れぶりとトリスのストレスはたいへん耳が痛かったと同時に、注意深く繊細に描かれた姉妹の物語を愛おしく思えた。
最後に、著者と作品について触れたい。
フランシス・ハーディングは一九七三年に生まれ、英国ケント州の薄暗く大きな家で育ったという。書棚には愛書家である両親の蔵書が詰まっていて、十一ヶ月年下の妹と共に本に没頭し、早くから創作をはじめたそうだ。この頃から暗くて恐ろしげな物語が大好きで、ヴィクトリア時代などを舞台にしたミステリやサスペンスも好んだ。好きな児童文学は数多く、スーザン・クーパーの〈闇の戦いシリーズ〉やキプリングの『ジャングル・ブック』、中でもリチャード・アダムス『ウォーターシップダウンのうさぎたち』を何度も読み返した。オックスフォード大学で英文学と数学を学び、あるソフトウェアカンパニーに就職したが、The Dream Zone という雑誌に投稿した短篇“Shining Man” が二〇〇一年に掲載された後、二〇〇五年に少女とガチョウと吟遊詩人が活躍する児童向け長編Fly By Night を発表、小説家としてデビューする。
各種文学賞にもしばしばノミネート、『嘘の木』は史上二人目のコスタ賞・児童文学部門賞と最優秀作品賞のW受賞となり、話題となった。刊行六作目にあたる本作、『カッコーの歌』も、英国幻想文学大賞ファンタジー長編部門賞を受賞している。
日本での邦訳紹介は二〇一七年の『嘘の木』が初、『カッコーの歌』で二作目となるが、実際に著者が書いた順は本作が先で、七作目の『嘘の木』が後である。
最新作は八作目となるA Skinful of Shadows。謎めいた過去を持つ勇敢な少女メイクピースに、野性的な幽霊が憑依してしまう、という物語のようだ。その上舞台がイギリスの内戦とあらば絶対に面白いに決まってる、今すぐに読めるイギリスの人々がうらやましくてたまらない。この先もフランシス・ハーディング作品が続々と邦訳されることを祈念しつつ、筆を擱こう。
深緑野分
1983年神奈川県生まれ。2010年「オーブランの少女」が第七回ミステリーズ!新人賞佳作に入選する。13年、同作を表題とした短編集でデビュー。15年、初長編『戦場のコックたち』が『このミステリーがすごい!』国内編2位にランクインしたほか、三つの年末ミステリベストランキングでベスト3に入り、第154回直木賞、2016年本屋大賞、第18回大藪春彦賞の候補となる。18年刊の『ベルリンは晴れているか』も『このミス』国内編2位となり、第160回直木賞の候補作に選ばれた。また第21回大藪春彦賞、2019年本屋大賞にもノミネートされている。