日本で一九八六年に劇場公開された『ピクニックat ハンギングロック』は、当時、新聞、雑誌、その他いろんなところで評判になり、「究極のカルト映画」とも呼ばれ、いまでもマニアの間で人気がある。たしかに、この映画は監督、ピーター・ウィアーが一躍、世界的な注目を集めるきっかけになったのだが、製作は七五年、つまり、日本で公開されたのはその十一年後だ。そのとき、日本ではすでにウィアー監督による、『誓い』が八二年に、『危険な年』が八四年に、そして『刑事ジョン・ブック/目撃者』が八五年に公開されている。
この流れからみると、あの大ヒット作『刑事ジョン・ブック』があったおかげで、日本でも『ピクニックat ハンギングロック』が公開の運びになったと考えるのが妥当だろう。実際、劇場パンフレットCINE VIVANT No. 13『ピクニックat ハンギングロック』には、次のように書かれている。
『刑事ジョン・ブック/目撃者』で世界的な注目を浴びている監督ピーター・ウィアーが、オーストラリア映画の胎動を世に誇示した記念碑的作品である。
ということは、もしウィアー監督が『刑事ジョン・ブック』を撮らなかったら、この映画は日本では公開されることなく、本書がいまの日本で出版されることもなかったのかもしれない。
それともうひとつ、この映画が公開されるもうひとつの推進力になったのは、八〇年代の日本の少女ブームだろう。七三年に出版された沢渡朔の写真集『少女アリス』が注目を集める一方、イギリスの写真家、デイヴィッド・ハミルトンが金髪の美しい少女を撮ったセミヌードの写真集で脚光を浴びたのが七〇年代、そして八二年には『風吹ジュン写真集絹の風』、八三年には『別冊スコラ 美保純』といったハミルトンが手がけた美少女の写真集が出版されている。ソフトフォーカスの美少女が世界的、日本的な注目を浴びていたときに、ウィアーの『ピクニックat ハンギングロック』がヒットしたのは想像に難くない。
蛇足ながら、八八年に出版された『史上最強のシネマバイブル』という、一般の映画ファンの短評を集めたガイドブックで、この映画に関してこんなコメントが載っている。
「行方不明になった美少女のひとりが、ボッティチェリのヴィーナスにそっくり! 世の中には綺麗な人がいるものだなぁ(♀・22 ・OL)」おそらくこのコメントを投稿した人は知らなかったと思うのだが、本書の三十九ページにこんな一文がある。「ポワティエは、ミランダが、ウフィツィ美術館に飾られているボッティチェリの天使の絵にそっくりだ、と気づいたのだった」
ふたたび映画のパンフレットにもどるが、パンフレットの内容も、川本三郎と本田和子の対談「少女たちの黄金色の夏」、高取英のエッセイ「奇怪・美少女」などが目を引く。
また当時は、フロイト的な解釈──石柱、靴下と靴を脱いで丘を登るシーン、集団ヒステリー、ヴィクトリア朝的管理主義──も広く行われていた。文学、映画、アートにおいて、少女+フロイトは七〇年代、八〇年代の大きな流れだった。
そのうえ、この映画の堂々たるオープン・エンディング。謎は解き明かされないまま、観客を突き放して終わる。カルト的な作品として語り継がれているのは当然かもしれない。現在も、この映画は「オリジナル版」と「ディレクターズ・カット版」の二種類がDVDで出ている。
ところが、多方面で注目されたにもかかわらず、不思議なことに、この映画の原作は日本で出版されていなかった。それがこういう形で読めるようになったことはとてもうれしい。原書の出版が六七年十一月。約五十年前の作品だ。ちなみに、アメリカでは六五年にカポーティの『冷血』、六七年にブローティガンの『アメリカの鱒釣り』、六八年にディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』が出版されている。
さて、本書を読んで驚いたのは、原作の大きな魅力は「少女+フロイト」的なところにはなく、またオープン・エンディングもそれほどの意味を持っていないということだった。
第3章の最初で、全貌を現したハンギングロックに四人の少女が圧倒され、「途方もなく雄大な自然の造形物と相対したとき、人間の目は、悲しくなるほど用をなさなくなる」ところが描写されている。このあたりのイメージの広がりと、それを描き出す作者の表現力に思わず息を飲む。たとえば、「アーマは、木々のあいだに射す夕陽だと思ったその赤色が、深紅のオウムが羽ばたかせる翼の色だということに気づいただろうか」(この部分は、三十ページの「曲がった老木にとまっていたオウムの群れが、けたたましい鳴き声をあげながら一斉に飛びたった」という描写と呼応している)、「頭上の岩場を音もなく滑る赤銅色の蛇の姿にも気づかなければ、朽ちかけた落ち葉や木の皮の下から慌てて逃げだしていったクモや地虫やワラジムシの大群にも、気づかずにいた」といった具合に、あたりの情景をあざやかに描きつつ、それに気づかず、黙りこくって先へ先へと歩いていく少女たちを描いていく。やがて、平野から奇妙な音が響いてきて、前方に石柱が見えてきたかと思うと、四人は強烈な眠気に襲われて、深い眠りに引きずりこまれていく。そして寝ている少女たちのまわりに列をなしてやってくる「青黒い殻をかぶった奇妙な形の甲虫」。ここでも、気づかない四人をとりまく情景が細かく書きこまれていく。
それから、少女たちの目ざめ、三人の失踪、ひとり残されたイーディスの悲鳴、と続く。息の詰まりそうな学院生活から解放され、靴も靴下も脱いで、まるで滑るように歩いていく少女たちと、すさまじい引力や磁力によってあたりの静寂を保っている「大地の上にどっしりと構えたハンギングロック」が共鳴して、時間が止まり、世界が一瞬、ずれる。
この「甘美な悲劇」をきっかけに、いくつかの事件が生まれ、大小いくつもの悲劇と喜劇がからみあい、豊かな物語が展開していく。
女学院に差す影と、気丈で権威的なアップルヤード校長の物語。ミランダに憧れている反抗的な少女、セアラの物語。ハンギングロックでいなくなった少女たちが小川を渡るのを目にして以来、ミランダのことが忘れられなくなったレイクビュー館のマイケルと、館のお抱え御者アルバートの物語。アーマとマイケルのすれ違いのエピソード、トムとミニーのエピソード。とくにミス・ラムリーと兄のエピソードと、セアラとアルバートのエピソードは印象的だ。このささやかなふたつのエピソードだけでも、作者の力量を十分に推し量ることができる。
マッケンジー医師は、「ハンギングロックのことを考えてはいけないよ。ハンギングロックは悪夢で、悪夢とは過去なのだから」という。しかし、悪夢は執拗に人々を追いかけてくる。
第10章の最初に書かれているように、「あのピクニックの日から、様々な出来事が起こった。(中略)ピクニックとはなんの関係もなかった人々までが、ひとりまたひとりと綴織のように複雑さを増していく事件の一部に織りこまれていく」のだ。
こうして読んでみるとカルト的な作品というよりは、オーストラリアの現代小説として、またオーストレイリアン・ゴシック・ノヴェルとしてじつによくできた作品だと思う。
『ピクニック・アット・ハンギングロック』がこのような形で翻訳出版されたことを心から喜びたい。
最後に、この作品で扱われている、少女と教師の失踪事件が実際にあったのかどうかについては、いまも議論が続いている。リンジーの編集者たちは口をそろえて、これは純粋なフィクションだといっているし、訳者あとがきにもあるように、リンジー自身、後年になって、自分のみた夢に基づいて書いたといっている。
ところがnews.com.au の最近の記事、Picnic At Hanging Rock’s biggest mystery answered によると、この小説のヒントになった事件は実際にあったのではないかという。その根拠になっているのは、二〇一七年に出版された、ジャネル・マカロックのノンフィクションBeyond the Rock: The Life of Joan Lindsay and the Mystery of Picnic at Hanging Rock。このなかで、マカロックはこんな指摘をしている。「リンジーの元々の前書きの最後には『作者は子どもの頃から、マセドン山とハンギングロックのことはよく知っていて、この物語は間違いなく事実です』と書かれていたのだが、この一文が削除されている」そして、この作品は、十九世紀後期のふたりの少女の失踪事件がモチーフになっているという。また、ピーター・ウィアーがこの作品を映画化したいといったとき、「決して──どんなことがあっても──これが事実なのかフィクションなのかをたずねないようにしてほしい」といわれたらしい。なぜ、リンジーはそれほどまでに神経質になっていたのか。
この作品は読み継がれていると同時に、つねに新しい話題を提供しているらしい。
■金原瑞人(かねはら・みずひと)
1954年岡山市生まれ。法政大学文学部英文科卒業。同大学院、修士課程終了、博士課程満期退学。現在、法政大学教授・翻訳家。
訳書は児童書、ヤングアダルト小説、一般書、ノンフィクションなど、450点以上。訳書に『豚の死なない日』『青空のむこう』『国のない男』『不思議を売る男』〈パーシー・ジャクソン・シリーズ〉『さよならを待つふたりのために』『月と六ペンス』など。エッセイ集に『翻訳家じゃなくてカレー屋になるはずだった』『翻訳のさじかげん』『サリンジャーにマティーニを教わった』。監修に『10代のためのYAブックガイド150!』など。日本の古典の翻案に『雨月物語』『仮名手本忠臣蔵』『怪談牡丹灯籠』。
金原瑞人オフィシャルホームページ