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 カート・ヴォネガットは、いまでもSF作家として認知されているのでしょうか?

 作家というものは、経歴を通して語られるものですから、50年代にペイパーバックSFでデビューしたヴォネガットが、その経歴を込みで人に知られるのは当然ですが、では、いまなおSF作家であり続けているのか。そういう点では筒井康隆と似ています。もっとも、そんな疑問が出てくるという、それだけで、ヴォネガットや筒井康隆の在りようは、あますところなく示されているとも言えるでしょう。

 1973年のことだったと思いますが、朝日新聞の文化面に、いまアメリカのキャンパスでもっとも人気のある作家といったふれこみで、カート・ヴォネガット・ジュニア(当時)が紹介されているのを読みました。記憶だけで書きますが、その年に出た『チャンピオンたちの朝食』が、アメリカでのセールスと評価が良かったことを受けての記事でした。私はすぐにヴォネガットの長編に手を出しました。『屠殺場5号』というハヤカワノヴェルスは880円で、当時の中学生には高かったでしょう。現在『スローターハウス5』と呼ばれているものです。しかし、カート・ヴォネガットの小説と出会ったのは、その2年前です。ミステリマガジンに訳された「すべて王の馬」(王様の馬がみんな…)に、ショックを受けたのでした。

 主人公は米軍の大佐ですが、家族(妻と子どもふたり)や部下と移動中の飛行機事故で、アジア某国(まあ、架空の国です)の共産軍の捕虜となる。捕虜は自分を含めて16人。狂気をはらんだ敵の司令官ピー・インは、主人公にチェスの勝負を持ちかけます。部下や家族をそれぞれの駒に、主人公自身をキングの位置につかせ(人間将棋の要領です)、チェスに勝てば、即刻解放するが、ただし、それまでに駒を取られたら、その駒となっている捕虜は射殺する、主人公がチェックメイトされたら、無論、全員射殺するというのです。ロシア人らしい軍事顧問が、私はオブザーバーにすぎないと言いつつ立ち会う中、命賭けのチェスが始まります。すぐに事態の異常性は際立ちます。ピー・インは、相手キングのチェックどころか、自身の防御さえ考えず、ただ相手の駒を取りに来たのです。チェスが「並みよりほんのすこしうまい」大佐は、いくつかのポーンの犠牲を出しながらも、相手の攻撃をかいくぐり、ついにチェックメイトの筋を発見しますが、そのためには、自分のナイトを捨てねばならず、そのナイトは自分の息子なのでした。

 半世紀近く経って再読した「王様の馬がみんな…」は、親しい他人の生命を賭けた「もっとも危険なゲーム」というアイデアが圧倒的なことに、変わりはありませんが、不満もありました。それは、ピー・インの異常性が、アジア人の共産主義者というイメージに寄りかかっていることで、ロシア人なんか出さずに、もっと、純粋に悪魔のようなチェスプレイヤーとして描くべきではなかったでしょうか。黄禍論という俗情に結託したと言われても、否定できないものが、ここにはあります。

「王様の馬がみんな…」は異様な状況設定に、スペキュレイティヴな想像力があるとは言えるでしょうが、SFかどうかは議論が分かれるかもしれません。しかし、1950年の処女短編「バーンハウス効果に関する報告書」は、現存するあらゆる兵器を破壊しうる「“精神動力”または“心の力”」というアイデアを中心にして書かれ、SF以外の何物でもないでしょう。「ハリスン・バージロン」は、知能の高い者に肉体的・精神的なハンデを日常的に与え続けることで、平等な社会が出現しているというディストピア小説でした。「モンキー・ハウスへようこそ」は、人口の爆発的増加に対応するために、下半身を常時無感覚にする薬の服用を義務づけられる一方、好きなときに自殺を幇助してもらえるホームが公認されている社会と、そこで反逆する詩人という男が、ホームのホステスを襲ってはレイプしているというのですが……。また、「未製服」は、ヒトが霊魂として肉体から抜け出し、様々に用意された肉体をレンタルして生きる両棲人が語り手ですが、両棲することを良しとしない人々との間が、戦争状態にあると分かっていきます。

 これらヴォネガットの短編群は、まず『猫屋敷のカナリヤ』というペイパーバックとして61年にまとめられ、それを増補する形で68年に『モンキー・ハウスへようこそ』としてハードカヴァーで出版され、こちらは邦訳もあります。もっとも、こうしたSF作品が秀れているかというと、そうでもありません。私には、むしろ、ミステリとは言えないかもしれないけれど、SFとは思えない、あるいはSF味の薄いもの方が、よく出来ているように思えます。

 

 あらためて『モンキー・ハウスへようこそ』を読み返して、集中で一番楽しめたのは「となりの部屋」という、ウェルメイドな一編でした。隣家の音が筒抜けの隣り合った二世帯があります。一方では、夫婦が映画に出かけようとしていて、ひとり男の子が留守番をすることになる。夫婦が行くのは「女の人がね、まちがえてわるい友だちを選んでしまう」という、子ども向きじゃない映画なのです。ところが、隣室からは痴話喧嘩の声が聞こえ、それがどんどん激しくなる。男の子はいたたまれなくなっていく。このあたり、まことに巧みで、ラジオのDJの声も混じって、男の子の不安と騒ぎが大きくなる。健気な男の子は一計を案じ、隣家の夫婦を仲直りさせようと、その夫の名を借りてDJに妻への音楽のプレゼントをリクエストします。まことに心温まる話と思いきや、それがこの後、あれよあれよというまに逸れていって……という、ミステリとしても逸品でした。

「こんどはだれに?」は、町のしろうと劇団の話です。次回公演は「欲望という名の電車」ですが、くろうとはだしの主演男優以外は、まあ、普通の人の集まりで、おまけに若い女優がいない。しかも、この男優、演技はべらぼうに巧いけれど、およそ人づきあいをしない。役になりきっていない素の自分で、他の劇団員と接するということがないのです。語り手は演出家ですが、たまたま電話会社に数か月派遣されてきた若い女性を誘ってみます。なにしろ、若い女優というものがいない。彼女は乗り気ですが、如何せん演技は見られたものじゃない。ところが、試しに、主演男優とふたりで台詞を読ませてみると、彼にひきずられるようにして、ふたりで素晴らしい芝居をするのです(すっかりマーロン・ブランドの彼は「おれに役をよこすのか、よこさないのか」とまんまスタンリーの口調で語り手に詰め寄る)。こうして、役になりきることで、ふたりの関係は芽生え、彼女はすっかり彼に夢中になりますが、芝居が終わり、その役から彼が離れたときに関係は終わる――と、過去の例から、周囲は承知していて、彼女にもそれを知らせるのが親切と、忠告をしますが、そこで彼女がとった行動というのが……。

 もっとも、こういう、いかにも巧い短編というのは、やはり例外的で、もっとも多いのは、諷刺の効いたスケッチふうの作品です。「わが村」が典型ですが、「ハイアニス・ポート物語」は政治都市ワシントンへのあてこすりでした。「アダム」は、子どもの誕生という一事が収容所の生き残りにとって、どれほど大切であるかと同時に、それがどれほど理解されないかを切り取っていました。「新しい辞書」は辞書に関するエッセイふうの批評ですが、「ティミッドとティンブクツーのあいだ」のヴォネガットは、辞書にも一家言あったわけです。

こうしたサタイアの短編のうちで読ませるのは「構内の鹿」「嘘」でしょう。前者は巨大な製造工場に宣伝担当として雇われた(双子の誕生を機に、経営する地方紙を手放して、大企業に勤めることにしたのです)主人公が、巨大な産業体の敷地の中に闖入した鹿を、良い宣伝になるからと記事にするために追いかけてさまようという、資本主義国アメリカ版のカフカのような話です。後者は、合衆国建国と同じころレメンゼル一族の先祖が開いたエスタブリッシュメントの学校に子どもが入学するために、家族三人で向かう車中から始まります。自分のレメンゼルという姓のために、特別待遇を受けるといったことを嫌う父親と、レメンゼル姓であることの威力に興味津々の俗物的な妻にはさまれて、きちんと座ってもいられない肝心の息子は、いささか頼りない。やがて、おんぼろ車が並走します。父親の同級生で、奨学金でこの学校を出た同窓生(新しい校歌を作詞したというエピソードで優秀だったことを示すのが巧い)が、やはり息子の入学のために学校に向かっているのでした。学校は世の移ろいにつれ、東部人どころか、アフリカからの留学生も受け入れることになっていますが、もちろん、レメンゼルの一族は、学生の合否は能力次第とあり、それが正しいことと信じて疑いません。ところが、彼の足元で、ひとつの嘘がつかれていました。不合格の通知を最初に見つけた息子が握りつぶしていたのです。

「となりの部屋」「嘘」といった作品を、この短編集の推奨作とすることに、私は躊躇しませんが、ふりかえって、思い当たるのは、この短編集の作品の初出が、スリックマガジンで、SFの専門誌ではないということです。また、「ハリスン・バージロン」「モンキー・ハウスへようこそ」は、ブラック・ユーモア選集のアンソロジーにも採られていて、当時、一派を成したアブサード・ノヴェルの作家としての評価もあったでしょう。

 

 SF短編を瞥見する試みの最後に、ミステリマガジンに掲載されたSF作家の作品を、いくつか落穂ひろいしておくことにしましょう。

 ジョン・ウィンダムの「ジズル」は、怪しげな薬の大道商人が、飲み屋で不思議なサルを手に入れます。そっくりな似顔絵を描くのです。もっとも、サルだけに、その人に似たサルのような顔に描いてしまい、商人の奥さんなどは、バカにされたような気になってしまう。しかし、このサルが、見世物として金づるなことにかわりはありません。実際、このサルの芸は当たりますが、彼の妻はこの雌(なのです)ザルと一緒にいることを拒むようになる。このあたり、ちょっとジョン・コリアの「メアリー」に似てますね。ところが、ある日サルが描いた絵を見て、彼は仰天します。仲間の芸人と彼の妻の、人前ではさらせないようなところが絵になっていたのです。怒った彼は、仲間の芸人にサルを売り払ってしましますが、しばらくして、サルを買い取った男がやってきて、悲劇の全貌が一気に明らかになります。艶笑部分のユーモアがゆかしい、端正な一編でした。

 ミステリマガジンの71年9月号のショートショート特集は、私が初めて読んだミステリマガジンで、難解な作品が多い中、シェクリイの「ではここで懐かしい原型を……」が載っていたものですが、同じ号に珍しくEQMMに掲載されたR・A・ラファティの「恐るべき子供たち」というミステリが紹介されていました。老いぼれ巡査に、小さな娘(もうじき十よ)が「ナイフの血を落とすにはどうしたらいいの」と尋ねるところから始まり、問題のナイフは、男の子が「ある男の人の中から取った」ものでした。なまいきな子どもたちの導きで、どうやら刑務所を出たばかりらしい男の死体が見つかって、ご近所の人々が集められます。生意気な子どもたちと、いささかドジな刑事たちを、面白く読んだ記憶がありますが、再読すると、さすがに、ミステリはさほど上手ではないと分かります。ラファティの書いた珍品といったところでしょう。

 フリッツ・ライバーには「煙のおばけ」という、かつて透視能力を持っていたらしい男が、黒い煤のような何かを、見つけてしまうという、オブセッションなのか怪奇現象なのか分からないまま話が進む怪異譚がありました。しかし、それよりも、ある医学者が、自分の妻の浮気相手を実験台に、意志の力で身体に様々な病状を出現させるという「死んでいる男」が、ストレートなマッドサイエンティストの話として面白い。事件はエスカレートし、ついには、催眠術を導入し、実験台の若者に「死ね」と命令するのです。

 落穂ひろいのきわめつけは、ブライアン・オールディスの「不可視配給株式会社」でした。主人公は若いエンジニアというか駆け出しの整備工で、妻とそのお腹に子どもがいる。そこへ皺だらけのセールスマンがやって来ます。彼は無形物を扱っているといい、人には人生の目的となるような、形のない何かが必要だというのです。しかし、生涯かけてなにかひとつのことを目的とするなど、普通の人の意志で出来ることではありません。しかし、若い男は自分にはその意志があると譲らない。あげく、セールスマンはふたつの塩と胡椒のつぼを取り出し卓上に置きます。このふたつのつぼを、決して動かないように守ることが出来るかというのです。最初のうちはいいだろう。しかし、やがて、そんなつまらないことは、うっちゃってしまいたくなるにちがいない。売り言葉に買い言葉。これをふたりは賭けにしてしまいます。

 卓上のほこりさえ積もらないふたつのつぼ。主人公のコンプレックスとも、なにかの象徴とも言い切れないまま、即物的な存在として、守られていく。その長い年月の物語でした。主人公の家族も周囲も職業も、移り変わっていき、皺だらけのセールスマンが、つぼが動いていないか確認にくるのも、次第に間遠になっていきます。そして、主人公の死まで卓上のつぼは微動だにしません。主人公の人生においてつぼがいかなる意味を持っていたのか、正確には分かりませんが、そこには何かがあり、そしてそれは形がなく、目に見えないのでしょう。さらに、もうひとつの人生にも、そのつぼは働きかけていたことが明らかになる結末が見事でした。

※ EQMMコンテストの受賞作リスト


(最終更新:2014年11月5日)