ホーガンの神学的な
世界観の上に構築された
ハードSF

SF評論家 礒部剛喜 Tsuyoki ISOBE

火星の遺跡
 紛争調停人キーラン・セインは久々に火星を訪れる。ちょうどそのころ火星の都市では、テレポーテーション技術の人体実験にベンチャー宇宙企業体の一つであるクアントニックスが成功していた。地球の科学研究機関が柔軟性を失い、さながら化石状態に陥ってしまったこの時代、リスクの高い事業に投資して大きな成功を狙う惑星間営利企業が科学的発展をリードしていたのだ。
 この実験の関係者に接触を試みていたキーランは、そのテレポーテーション技術と火星の荒野で発見された一万二千年前の巨石遺跡とが奇妙な接点を持つことに気づく。
 この火星の遺跡は太古に地球で巨石文化を築いたのと同じ建設者によって造られたらしいのだが、頑迷固陋な懐疑主義に憑かれた地球のアカデミズムは太陽系規模の古代文明が存在していた証拠を黙殺していたのだ。しかも考古学遠征隊はある宇宙企業体の関係筋から圧力を受けていた……。
 滅亡した古代文明の遺跡から未知のテクノロジーが発見されるという物語は往々にして、月面で太古の軍事基地の廃墟が発見される(ハミルトン『虚空の遺産』〔1960年〕)とか、ユカタン半島の古代遺跡からステンレス製のナイフが発掘される(ラインスター「死都」〔1946年〕)とか、さらには星間戦争で劣勢にたつ地球防衛軍が太古に崩壊した人類文明の遺産を発見し反撃に転じる(ボーヴァ『星の征服者』〔1959年〕)とかのSF的なインパクトを狙った状況で始まるものだが、本書『火星の遺跡』Martian Knightlife(2001年)はやばい仕事専門の紛争調停人キーランが休暇を装って火星を訪れるところから始まる。加えて火星の遺跡を暴くものたちが、かつて古代エジプトの王墓を暴いたものたちにファラオの呪いが降りかかったように、不運に見舞われる。
 ファラオの呪いとは、1922年にエジプトのツタンカーメン王墓の発掘に関わったカーナヴォン卿をはじめとする人々が不可解な連続死をとげた事件のことだ。太古の巨石遺跡の謎を探ろうとしたものが不運に見舞われるという伝承はよくある。しかし、その遺跡の呪いが偶然の連鎖ではなく、〈失われた古代科学〉に起源を持つものであったなら、近代懐疑主義精神を持つハードSFの読者諸賢はそれを容易に受けいれられるだろうか?
〈失われた古代科学〉――いまは聴かなくなって久しい、ひどく魅力的なこの言葉は作家黒沼健が造ったものだ。彼は、ピラミッドをはじめとする巨石文化を残した古代文明には重力を制御できる高度な科学があったが、文明の崩壊によって喪失されたというテーマの短編を書き、現代のわれわれが知りえないテクノロジーを〈失われた古代科学〉と名づけたのである。
 滅亡した太古の文明に現代科学を凌駕するテクノロジーがあったとする〈第一紀文明テーマ〉は、かつてはSFではお馴染みのものだったが、1970年代を境に姿を消していった。このころ、人類は太古に地球外知的生命体と遭遇していたという〈古代宇宙飛行士飛来仮説〉を提唱したエーリッヒ・フォン・デニケンのノンフィクション『未来の記憶』(1968年)がベストセラーになったものの、近代懐疑主義精神の旺盛なSF作家もその読者も同書を擬似科学だと看做し、そうした超古代文明仮説から距離をおくようになったからだ。SFは擬似科学ではなく正統性を持った近代科学に基づいて書かれるべきだというハードSFへの嗜好が強まったのだ。そして〈第一紀文明テーマ〉はハードSFとは背馳する関係だとされていった。
 だが本書『火星の遺跡』は、ハードSFの名手であるジェイムズ・P・ホーガンが、古色蒼然たる〈第一紀文明テーマ〉に挑んだ異色作だ。
 ホーガンの代表作とされる『星を継ぐもの』(1977年)もまた、滅亡した超古代文明とのコンタクトが描かれてはいるものの、本書と『星を継ぐもの』の間には峻厳な断絶が存在していると言っていい。『星を継ぐもの』は王墓をあばくものに生じる呪いなどという怪談とは無縁の物語であり、アトランティス、レムリアなど神秘主義者によって提唱された超古代文明への接点をあえて忌避しているからだ。
 さらにホーガンは、本書が描かれた興味深い動機について次のように記している。
「十代の少年のころ、主に1930年代に書かれた、ミステリ作家レスリー・チャータリスの古典的な怪盗ロマンである〈聖者〉(セイント)こと〈サイモン・テンプラー〉シリーズに夢中になったものだ」(著者サイト過去ログ“Background”より。現在はインターネット・アーカイヴ上にある)
 このシリーズは、ユーモアとサスペンスが巧妙に組み合わさった、モダンな文体で描かれた古典的なヒーロー物で、その後に続いた多くの冒険小説に影響を与えた。ホーガンは「昨今のフィクションによくある陰鬱な主人公たちと比べると、理想主義や善人が最後に勝利を収める同シリーズの魅力はいっそう際立つ」とも述べている。主人公キーラン・セインがイニシャルのKTから〈ナイト〉と呼ばれたりするなど、本書にはサイモン・テンプラーへのオマージュがちりばめられている。
 失われた異教的な古代文明の謎に(ハードボイルドの私立探偵か、一匹狼の傭兵か、それとも埋蔵金めあての冒険家かという読み替えも可能な)凄腕の紛争調停人が挑むという物語は、ハガードの『ソロモン王の洞窟』(1885年)やメリットの『イシュタルの船』(1926年)に接近を見せた、ホーガンらしからぬモダン・スペースオペラだと言ってもいい。
 だが本書には、ホーガンが『揺籃の星』(1999年)で見せた、ご存じイマヌエル・ヴェリコフスキーの『衝突する宇宙』(1950年)への接近のさらなる深化とともに、ヘレナ・ブラヴァツキーのような神秘主義者が唱えた〈第一紀文明テーマ〉が内包されている。それは次に引用した一文からも明らかだ。
……いまもその正体について論争が続く進歩した文明が、地理学でも、天文学でも、数学でも、多くの面で謎のままとなっているその他のスキルにおいても驚くほどの知識を有した文明が、かつては最古の文明と考えられていたエジプトやシュメールよりもずっとまえに存在していたのだ、と。これは世界のあちこちに巨大な石の構造物――現在では、同一の、あるいは関係の深い建造者の手になるものとされている――が残っていることから単に〝技工石器〞(テクノリシク)文明と呼ばれているが、紀元前一万年ごろに地球を襲った惑星規模の大変動によって一掃されてしまった。(本書69頁~70頁)

 これが本書で繰り返し語られる世界背景だ。太古の地球と火星に壮大なテクノリシク文明圏が存在していたが、太陽系規模の天変地異によって滅亡したという設定は、ヴェリコフスキーの『衝突する宇宙』そのものと言っていい。シオニストの精神医学者ヴェリコフスキーは、木星から分離して地球に接近した怪彗星ティフォンが内惑星軌道にとどまり、現在の金星になったのだという史実性を、旧約聖書の記述に求めたのだった。
 デニケンもまた、地球外知性体が太古に来訪したという史実を世界各地の神話から演算しようとしている。『未来の記憶』『衝突する宇宙』の双方に共通する、旧約聖書を神話ではなく宇宙的な異変の記録だと看做して史実を導きだそうとする思考は、現代のキリスト教原理主義者(福音派プロテスタントとも呼ばれる)に見られる聖書直解主義とよく似ていた。
 ただ、ヴェリコフスキーは怪彗星の接近がそれまで栄華を誇っていた古代の超文明を滅亡に追いやったとまでは考えていなかったし、デニケンも太古の文明が太陽系規模の異変で滅亡したとまでは語っていない。では、本書に描かれた太古の超文明が太陽系規模の異変で滅亡したという夢想(ヴィジョン)はホーガンの独創なのだろうか?
「……人類の歴史には現在の文明以前に高度な文明が存在していたことは明らかだ。この太古の先進文明とは〈大洪水以前〉の時代に発展した文明であり、〈ノアの大洪水〉で繰り返し語り継がれてきたカタストロフィに関する伝承は、二度に亘る大規模な災害が文明を崩壊させたことを示す太古の記憶の名残なのである」
 本書で描かれる世界観に酷似したこの一文は、ヴェリコフスキーの熱烈な支持者だった天体物理学者モーリス・ジェサップの著書The Case for the UFO: Unidentified Flying Objects(UFOの真相、1955年)からの引用だ。中南米には現代の科学を凌駕する高度な文明がかつて存在したが、『衝突する宇宙』で論じられた異変によって滅亡したのだというジェサップの仮説は、本書に描かれるホーガンの夢想(ヴィジョン)によく似ている。これは偶然ではないであろう。
 ヨーロッパ、アメリカで現代文明以前に高度な科学文明が存在していたという仮説は、普遍的に提唱されてきたと言っても過言ではない。
 アーサー・C・クラークが異端な科学の守護者と評したフィラデルフィアの政治家イグネイシャス・ドネリーは、ユダヤ人でもシオニストでもなかったが、超古代文明論の古典的な研究書Atlantis: The Antediluvian World(アトランティス――大洪水以前の時代、1882年)によってヴェリコフスキーの先駆者だと看做されている。『衝突する宇宙』が刊行される以前から、ユダヤ・キリスト教の世界観にあっては、太古に滅亡した高度な文明の存在は抵抗なく受けいれられてきたようだ。
 なぜならオスヴァルト・シュペングラーの『西洋の没落』(1918~22年)に代表されるように、人類の歴史には一定のサイクルがあるとする歴史循環論がキリスト教社会で強く支持されるものだからだ。現代アメリカで強い政治勢力として擡頭してきた福音派にはっきりと見られるように、聖書は人類の再生サイクルを示す予言書と受けとめられている。故に古代エジプト、インカ、アステカ文明の滅亡が、聖書に予言された歴史サイクルの具体的な証拠と考えられたとしても、それほど不思議ではない。
 この物語で試みられたテクノリシク文明へのホーガンのアプローチには、二つの意味で呪縛がある。
 その一つはそれが地球外の遺跡であっても、いにしえの巨石文化の謎を暴こうとするものたちに降りかかる呪いである。ホーガンは巨石遺跡の探究に伴って生じる呪いの起源にも、これもまた一見彼らしからぬ説明を加えている。だが彼の夢想(ヴィジョン)のなかにあっては、ファラオの呪いによって不可解な連続死が生じることにも合理的な理由がなければならないのだ。
 そしてもう一つの呪縛とは、太古に滅亡した巨石文明もキリスト教的な歴史循環論の枠組みのなかに取りこもうとする、ヴェリコフスキー的な歴史観への回帰である。キリスト教とは無縁の古代の巨石文明の滅亡であってさえ、予言書としての聖書と歴史循環論の正統性を証明している、とホーガンは看做さざるにはいられないのだ。
 かように、本書ではテクノリシク文明の存在そのものが聖書的な宇宙観の呪縛の裡にある。
 おやおや、これではまるでホーガンにキリスト教原理主義への傾斜があるかのような解説になってしまった。彼の小説の魅力の一つは、ハードな科学考証がその核に秘められていることにあったのではなかっただろうか?
 いや、厳密な科学性があるからこそホーガンはこの物語を描いたと言えるのではないか。近代科学を追求してきたユダヤ・キリスト教社会の科学者たちは、神の偉大さへの信仰を強力な動機としてきたとも言えるからだ。アインシュタインが語ったとされる「科学と宗教はいずれ一体になる」という有名な言葉も、相対性理論が彼の神学と矛盾していないことを示唆している。科学と神学は必ずしも相反するものとは言えないのだ。歴史循環論も同じである。キリスト神学的世界観と科学的な探究心が相互に矛盾なく共存できるのであれば、それはホーガンの文学宇宙にも当てはまるはずである。
 かくて本書『火星の遺跡』は、ヴェリコフスキー的宇宙観とデニケン的な〈古代宇宙飛行士飛来仮説〉の結合の産物というより、ホーガンの神学的な世界観の上に構築されたハードSFの一つと解釈することが正しい理解となるのではないだろうか。

 2018年10月



【編集部付記:本稿はジェイムズ・P・ホーガン『火星の遺跡』(創元SF文庫)解説の転載です。】



■ 礒部剛喜(いそべ・つよき)
 1962年生、UFO現象学者・SF評論家。日本大学法学部卒。第2回日本SF評論賞優秀賞受賞。訳書にジャック・ヴァレ『異星人情報局』(創元SF文庫、2003年)がある。