ヨーゼフ・メンゲレ、アウシュヴィッツの「死の天使」と呼ばれたナチスの医師。
小社刊の(アフィニティ・コナー 野口百合子訳)で〈おじさん先生〉として描かれた男。
彼は、優生学研究に取り憑かれ、純粋なアーリア人種を作り上げるために、と、アウシュヴィッツに移送されたユダヤ人たちを対象に思いつくかぎりの信じ難い人体実験を続けた。
特に、双子の研究が有名で子供たちを集め、そこはメンゲレの〈動物園〉と呼ばれていた(に描かれています)。子供たちの目の色を変えようと眼球に薬品を注射する、比較研究のために双子の片方の臓器に手を加える、二人の子供を手術でつなぎ合わせてしまう……等々、書くもおぞましい様々な実験が伝えられている。
それは、アウシュヴィッツから生還した人々や、そこで医師の手伝いをしていた人間たちの証言が裏付けていることだ。
そのメンゲレが1945年にアウシュヴィッツが解放された後、逃走し、南米に逃亡、多くの偽名を使いながら、驚くべきことに1979年にブラジルの海岸で心臓麻痺で死亡するまで逃げ続けたのだ。それは、あのアイヒマンがアルゼンチンでイスラエルの特務機関モサドによって誘拐され、イスラエルで死刑になってから、さらに時を経てからのことだった。
多くのナチス幹部はヒトラーを筆頭にベルリン陥落時に自殺したが、南米に逃げた者も多い。それ故、ヒトラーやハインリヒ・ミュラーなどもどこかにひそかに逃亡して生き続けたといった怪しげな伝説は数多くある。
なぜ、多くのナチ残党が、そしてメンゲレが南米で生きつづけることができたのか?
アルゼンチンのペロン大統領(あのエビータは彼の妻)という絶対的な支援者がいたことをご存じの方も多いかと思うが、それにしても……である。
本書は、ヨーゼフ・メンゲレの逃亡生活という後半生を綿密な取材と研究により見事に描き上げたノンフィクション・ノヴェルである。当時の南米における元ナチスたちのコミュニティーの実態、なぜアイヒマンは捕まり、彼は捕まらなかったのか……メンゲレの生家のこと、メンゲレの結婚、離婚、再婚……そしてその後の女性関係、友人たち……といった様々な事柄が資料を駆使して書き込まれている。
決して大冊でない本書の内容の濃密さには驚かされる。それは、著者オリヴィエ・ゲーズがジャーナリスト出身であることに拠るところ大だろう。
また、彼はアウシュヴィッツ裁判、アイヒマン裁判に力を尽くした検事フリッツ・バウアーを描いたラース・クラウメ監督の『アイヒマンを追え! ナチスがもっとも畏れた男』の脚本を担当し、ドイツ映画賞脚本賞を受賞したことでも知られている。そして、その仕事がきっかけで、本書を書くことになったという。
ヨーゼフ・メンゲレは1979年まで生きていた。つまり、当時の世界の動き、イスラエルのモサドの動きなども把握していた彼は、アイラ・レヴィン原作の映画化『ブラジルから来た少年』(1978年。これはメンゲレをグレゴリー・ペックが演じ、彼を追うサイモン・ヴィーゼンタールを思わせる老人役をローレンス・オリヴィエが演じている)の存在も、『マラソンマン』(1976年 監督 : ジョン・シュレジンジャー メンゲレがモデルと言われる歯科医をローレンス・オリヴィエが演じ、ダスティン・ホフマンの歯を削る拷問シーンは有名)も知っていたはずだ。
メンゲレを扱った映画としては2013年の『見知らぬ医師』(監督 : ルシア・プエンソ アルゼンチン映画)もよく知られているし、息子ロルフと父メンゲレを描いた『マイ・ファーザー 死の天使』(2003年、監督:エジディオ・エローニコ)、やはり検事フリッツ・バウアーを描いた2014年『顔のないヒトラーたち』(監督 : ジュリオ・リッチャレッリ)は、アイヒマンを追う話ではあるが、メンゲレの名前もはっきり出して捕えようとする人々が出てくる)など数多い。(『ブラジルから来た少年』は改めて見たが、B級感がすさまじい!)
この本に出会うまで、南米の元ナチスのコミュニティーがここまでのものだったとは知らなかったし、ドイツ、ギュンツブルクのメンゲレの生家が世界的な農業機器の大会社でそれゆえ、ギュンツブブルクには、メンゲレの名のついた通りが存在する(メンゲレ社は2011年まで存在した)ことも知らなかったし、メンゲレが晩年に結婚を望んだ女性が、「私が知っていたメンゲレは優しい紳士で、彼がそんな人だったなんてとても信じられない」と語る映像が残っていることも、息子のロルフが父親メンゲレと会って語り合ったことをインタビューで答える映像があることも知らなかった。
驚くことばかりだ。しかし怪物のような彼も人間で、今これを書いている自分も人間で、人間とはいったい何なのだろう……という問いばかりが渦巻いている。
印象的な装丁は柳川貴代さんによるものです。
*なお、著者オリヴィエ・ゲーズ氏は11月9日に来日、各地でトークイベントが予定されています。
11月10日 アンスティチュ・フランセ横浜 17:30 より
11月11日 アンスティチュ・フランセ東京 16:00より
対談相手は平野啓一郎氏 司会 沼野充義氏
11月13日 関西学院大上ヶ原キャンパス 16:50より
11月15日 名古屋外国語大学 13:20より
アリアンス・フランセーズ愛知フランス協会 18:00より
11月16日 紀伊國屋書店 新宿本店9F イベントスペース 19:00より
鼎談 ゲーズ氏、佐々木敦氏 訳者・高橋啓氏
いずれも通訳付きで要予約です。
詳細は追ってイベント情報欄でお知らせ致します。