第1回 パスポートナンバーTK49494949の叫び
第2回 落下の山村
第3回 笑いを灯す人
第4回 摂氏四五・一度の異邦人
第5回 世界の終わりとアンダーグラウンド・モスク
2017年7月5日
ウズベキスタン・サマルカンド―ヒヴァ―ヌクス
第2回 落下の山村
第3回 笑いを灯す人
第4回 摂氏四五・一度の異邦人
第5回 世界の終わりとアンダーグラウンド・モスク
2017年7月5日
ウズベキスタン・サマルカンド―ヒヴァ―ヌクス
1.
夜行列車でウズベキスタン・ヌクスからカザフスタン・ベイナウに抜けたあと、乗り合いタクシーでカスピ海沿岸の都市アクタウを目指した。
窓外に覗くのは、雲ひとつない澄み切った青天。黄土色と緑のまだら模様の平野。高い樹木はなく、地平の果てまで見渡せる。そちこちでラクダが放牧され、まばらに生えた草を食んでいる。
二、三時間経つと砂岩地帯に入り、なだらかな丘陵が見えてきた。点々と続く丘と丘のあいだには塩湖らしき白みがかった大地が遠望され、ごま粒大のちいさな人影がいくつか揺らめいている。
約六時間後には、蜃気楼めいたおぼろな青を湛えたカスピ海が、そして灰色がかった街並みがはるか遠方に浮かび上がってきた。
マンギスタウ州の州都アクタウ。そこはぼくが勝手に呼んでいる「エアーズロック型都市」であった。とどのつまり広大な荒野のあと、とつじょとして切り立った岩山のように街がはじまるのだ。街なかはミクロライオンという区画で分けられており、郊外に向かうつれミクロライオンの番号も一六、一七、一八と増えてゆく。かつてはウラニウムや石油といった天然資源掘削の労働者の町として隆盛したそうで、今でも古びをまとった労働者用のアパートが散在している。
インターネットであらかじめ目星をつけておいたホステルはエアーズロックでたとえるところの崖っぷち、ミクロライオンの番号でいうとどんじりに近い三二に位置していた。新しい地区ゆえか、タクシーの運転手はホステルの位置が分からず、あたりを行ったり来たりし続ける。
そしてついには、無情の通達がなされた。
「ここで降りて、自分で探してくれ」
えー、もうちょっと頑張ってみてよぉ、ぶーぶーぶーと反駁してみるも、タクシーには先を急ぐ人たちも同乗しているのでやむなく断念。
しぶしぶ降りた先は、小さな商店と建設中の高層マンションが点在するだけのひと気ない大通りだった。五〇度近かったウズベキスタンと比べるとだいぶ暑さは和らいだが、砂まじりの風が猛烈な勢いで吹き荒れており、目を開けていられない。じゃりっとした気持ち悪い感触が口いっぱいに広がり、さきのタクシー運転手に対するぶーぶーぶーも瞬く間に燃え広がってゆく。
数十分かけて、全身砂まみれになりながら商店の店主や地元民に尋ねまわったすえ、ようやくホステルを発見した。道路工事現場にぐるりを囲まれた一角で、遠目ではホステルと分からないようなプレハブの倉庫みたいな外観をしている。
入り口のガラス扉を開けると、真っ先にペンキのにおいが鼻についた。長方形の大広間の四方には部屋番号のプレートが掛かった扉が等間隔に並んでおり、片隅にはソファ、テレビ、給湯設備などが申し訳程度に置かれているものの、総じて内観も倉庫のように殺風景で、がらんとしたスペースばかりが目につく。おまけに電気もついていない。
「誰かいませんかぁ?」
大声で叫ぶと、角部屋の扉が開き、太っちょの若者が出てきた。「よぉ、調子はどうだ、兄弟?」といきなり野太い声で話しかけてくる。その気さくな物言いに若干戸惑いつつも部屋が空いているか、見せてもらえるか尋ねてみると、彼はすかさずにっと笑いかけてくる。「もちろんだ、兄弟、ついてこいよ」
案内された一〇六室は、ダブルベッド、クローゼット、扇風機、書きもの机の備わった清潔な部屋だった。シャワーとトイレは共同で、値段は一泊約六〇〇円だという。
「ここのホステルはまだ出来て間もないんだ」と若者はすこし誇らしげに言う。「あとすこししたらエアコンも取り付ける予定だし、これからもっと良くなっていくはずだぜ、兄弟」
たしかに、家具調度はニスでつや光りしているし、床にも壁にもかすり傷ひとつついていない。これで六〇〇円なのだから文句のつけようがない。
だがこのとき最も注意を引きつけられたのは、そんな素晴らしい部屋を説明してくれる若者のほうだった。名をゼンといい、ほぼ必ず語尾に「Bro」をつけてくる。「Dude」や「Man」はともかく、「Bro」を語尾につける人には個人的にあまり会ったことがなかったので、なんだか銀幕のギャングスターとでも話しているような気になってくる。
「長旅で疲れてるんだろ、兄弟? パスポートはあとでいいから、いまはゆっくり休んどきな、兄弟」
そう言って右ほほにえくぼをつくるゼン。
キャッチコピーをつけるなら〈優しい陽気なギャングスター〉。
部屋の扉を閉めて、バックパックをおろした。今になって疲労感がこみ上げてきて、ベッドにばたりと倒れこむ。シーツがひんやりとしていて気持ちいい。久しぶりのシングル・ルームだからか自然と気分も高揚する。
そして、静かだ。
耳に届くのは、うつろに響きわたる工事の金属音のみ。窓外では砂塵のカーテン越しにうっすら灰色の街並みが広がり、何人もの労働者たちが建設中のマンションの足場で作業している。このミクロライオンは新しい開発地区のはずなのに、わびしさばかりが立ちこめている。さながら世界の終わりのようだ。
そもそもアクタウは長期旅行者とそこまで縁がない。世界一周旅行者や中央アジアあたりを周遊する旅行者の多くは、ウズベキスタンのあと、砂漠の真ん中で燃えさかる天然ガス・クレーターを見るためにトルクメニスタンへ抜け、そこからイラン、ないしはカスピ海をわたってアゼルバイジャンへ向かう。逆もまたしかりだ。
ぼくもガス・クレーターには長年恋い焦がれていたが、トルクメニスタン・ビザが高額なうえ取得にも時間がかかるので断念した。さらに最近は日本からのグループ・ツアーもあるぐらいメジャーになっているようで、あまのじゃくなぼくはクレーターへの憧憬もなんとはなしに失ってしまった。
それよりもいま興味があるのは、地下モスクだ。
旅行ガイドブック『ロンリープラネット』によると、ここマンギスタウ州西部に広がる砂漠にはカザフスタンのイスラム教徒のあいだで聖地とうたわれている地下モスクが存在し、日々、何百人もの巡礼者が訪れているのだという。外国人も来訪可能で、地下モスクにある巡礼宿ではほかの巡礼者とともに無料で寝泊まりもできるのだ。
こんなのときめかずにはいられない!
と、興奮していたら眠気がすっかり吹き飛んでしまったので、ゼンのいるオフィスに行って、地下モスクへの行き方を尋ねてみた。だが彼は「おれは行ったことないし、よく分からないな」と首を振る。「もうすこししたらオーナーが来るから、彼に聞いてみればいいぜ、兄弟」
なんでもゼンはオーナーの甥っ子らしく、ここの二階のデザイン事務所でデザイナーとして働くかたわら、ホステルの手伝いをしているのだという。
「地下モスクもいいけど、アクタウに来たからにはやっぱりカスピ海に行くべきだぜ、兄弟。いまの季節なら海水浴だってできるしな、兄弟。それにこの街の中心にはフィッシュバーっていうおいしい魚料理のレストランもあるんだ。カスピ海で獲れた魚だぜ、兄弟。そんなに高くないから、一度は食べてみるべきだぜ、兄弟……」
と、地下モスクそっちのけでアクタウのことを延々とすすめてくるゼン。口調も態度も初対面とは思えないほど親しげだし、こうも「兄弟、兄弟」と言われ続けると、本当に兄弟になったような親近感さえ芽生えてくる。
しばらくのち、チェスのポーンみたいな平坦な顔と体つきをした五〇代ぐらいの男性がやってきた。
「ここのオーナーだ」とゼンがえくぼをつくりながら言う。さらにオーナーは英語が達者ではないらしく、通訳までしてくれた。「地下モスクはバスじゃ行けないらしいぜ、兄弟。だけど乗り合いの巡礼タクシーがあるらしい。だいたい六時間ぐらいの道のりで、朝の七時ぐらいにここにやって来るんだってよ、兄弟。道中はふたつの聖地に立ち寄って、最後にベケット・アタっていう巡礼宿のあるメインの聖地に行くみたいだな、兄弟」
「巡礼タクシーは毎日あるんですね?」
「あぁ、ただし、オーナーが用意できるのは片道だけだ。帰りのタクシーはベケット・アタで手配するしかないぜ、兄弟」
「ベケット・アタだと、簡単にほかの乗り合いタクシーを捕まえられるんですか?」
「なんの問題もないさ、兄弟。あそこにはいつもたくさんタクシーがいるからな、朝飯前だよ、兄弟」
一抹の不安が。
海外では大丈夫だと言われて、大丈夫だったためしがあまりない。しかも途中からはオーナーの通訳ではなく、ゼンがゼン自身の言葉で答えている感すらあった。
「……まぁ、分かりました」しばし考えたあとでぼく。「今日のところはゆっくりして、明日はカスピ海でも見に行くことにします。なので、巡礼タクシーは明後日の早朝でお願いしますよ、兄弟」
2.
夜のとばりが降りたころ、ほかの宿泊客が帰ってきたのか、薄い壁越しに物音が聞こえはじめた。入り口の外にある喫煙所に行くとかならず誰かしらがいて、片言の英語で言葉を交わすことになる。どうやらこのホステルは仕事関係で長期滞在しているカザフスタン人が多いらしく、ぼくのような外国人旅行者はほぼ皆無だった。
そんな宿泊客のひとりに、カザフスタン空軍のパイロットがいた。彼は数年前に、アフガニスタンからタジキスタンに向かって侵攻しようとしていたタリバン勢力を、タジキスタン軍とロシア軍との合同で空爆し、撃退したそうだ。ふだんはアクタウ郊外の軍事施設に勤務しており、この日もカーキ色の軍服に身を包んでいた。しかも本日付で少佐に昇進したらしく、ほこらしげに勲章を見せながら「これからクラブでお祝いパーティーするんだけど、良かったらどうだ?」と誘ってくる。
面白そうではあったし、一〇年前だったら多少無茶をしてでも乗っていたところだけど、今日は疲れていたので丁重に断った。自分も歳を取ったんだな、と妙なところで実感。
すこし時間をおいてふたたび喫煙所に行くと、今度はセルヒオという、がっしりとした体格のロシア系カザフスタン人に出くわした。ふだんはカザフスタン・アルマトイで家族と暮らしているが、現在はエネルギー関係の仕事の都合でこのホステルに投宿しているのだという。英語があまり話せないためか、彼は初っ端からスマホで「マイ・ワイフだ」と奥さんの写真を見せてきた。
空前絶後の美女。
ベラルーシ人で、光沢美しい黒髪に彫刻のように整った目鼻立ち、誰かに似ている……。そう、「ペネロペ・クルス!」
するとセルヒオは気を良くしたのか、がははと豪快に笑い、「ドリンク、ドリンク!」と足下に置いてあったビール瓶を差し出してきた。そしてそのまま息子との雪かきの動画やらケーキ職人である奥さんの作ったケーキの写真やらを見ながら、おのずと宴会がはじまる。
「マイフレンド、まだ飲み足りないな」
ビールをぜんぶ飲みほしたあとも、ふたりして商店に赴き、大量のビールとつまみを買った。ぼくもお金を出そうとすると、セルヒオが「マイフレンド」と首を振ってくる。
「ここはおれに払わせてくれ。おまえはおれの大事なゲストなんだから」
そんなこと言われた以上は、もうとことん飲むしかない。さっき誘ってくれたパイロットに若干の申し訳なさを覚えつつも腹をくくり、飲んで、飲んで、飲み明かした。
世界の終わりみたいなところなのに、一日がなかなか終わらない。
明くる日の午後、頭のなかいっぱいに銅鑼の音が響きわたるなか、路線バスに乗ってアクタウ市街地へ向かった。三〇分ほどで適当に飛び降り、カスピ海に出てみる。
第一印象、でかい。
それもまあそのはず、面積は約三七万平方キロメートルで、左右に果てなく広がる水平線からは内陸の湖という印象はさらさら受けない。カスピ海という名にたがわず、波もある。砂浜は少なく、ごつごつとした岩礁が続いている。波打ち際では水着すがたの男女が手をつないで散歩し、母と子が水遊びをしている。
ちなみにカスピ海は、カザフスタン、トルクメニスタン、イラン、ロシア、アゼルバイジャンの五カ国に面している。湖とするか海とするかで領海の線引きの仕方が変わってくるそうで、それはつまりカスピ海に埋蔵する豊富な天然資源の分配にも影響するため、複数国が「海」を主張しているのだという。
そういった地理的な意味合いだと、アクタウが「世界」の終わりというのは正しいかもしれない。ここは中央アジアのほぼ最西端であり、カスピ海のはるか先にはぼくの次なる目的地、コーカサス地方が待っているのだ。
期待に胸をはずませながら海辺の遊歩道をるんるんスキップで散歩。
一角にはバーやレストランやホテルが連なっており、旧ソ連時代の名残か飾り気のない無機質な建物もあれば、近代風のオープンカフェがあったりと、新旧の息吹きが入り交じっている。コンクリート壁の一角やマンションの側面には色鮮やかなグラフィティが描かれ、波止場の欄干には恋人たちの名前が書かれた南京錠がたくさん掛けられていた。
海の近くには第二次世界大戦の記念碑や詩人タラス・シェフチェンコ像があった。彼はこの街出身らしく、アクタウは九二年までシェフチェンコという名で呼ばれていたらしい。
最後に、義兄弟ことゼンに教えてもらったフィッシュ・バーというシーフード・レストランへ足を運んだ。小規模ショッピングモールに併設された西洋風の瀟洒な内観で、観光客用の英語メニューまで用意されていた。ゆえに、一皿一〇〇〇円強と値段もやや張る。 なお、長期旅行者は倹約が至上命題であるため毎食一〇〇〇円もかけておられず、タイなら屋台のカオマンガイやパッタイ、インドなら安食堂の油っこいターリー、メキシコなら軽食屋のタコスと、地元民にまざって二、三〇〇円程度のごはんを食べるのが定石である。ことに西欧や北欧などは日本と同等かそれ以上に物価が高いため、レストランに毎日通うこともかなわず、往々にしてホステルのキッチンで自炊するはめになる。
というわけで、一〇〇〇円の重みをかみしめながらカスピ海の魚のグリルをぱくり。うまい……! 魚料理自体久しぶりだったし、中央アジアの料理があまり口に合わなかったので感涙にむせびそうになる。
良い映画でも観終わったあとのような余韻に浸りながらホステルに帰還。夜半、部屋でくつろいでいると、とつじょ扉が激しくたたかれた。
「マイフレンド、サプライズだ!」扉越しでもはっきりと分かるセルヒオの声。「出かける支度をして、外に来てくれ。今すぐにだ!」
なにがなんやら分からないがあわててホステルの外に出てみると、一台のセダンが停まっていた。「タクシーをハイヤーしたんだ」とセルヒオが顔一面に真昼のような笑みを爆発させる。「さぁ、アクタウ・ツアーのはじまりだ!」
たじろぐぼくをよそに、セルヒオはお姫さまでもエスコートするみたいにタクシーの扉を開け、車内に導いてくれた。さらには瓶ビールまでたっぷり用意しており、「ドリンク、ドリンク」と差し出してくる。このテンションからして、ついさっきアクタウ市街をまわってきたとはとても言えない。
タクシーは郊外をぐるりと走ったあと、高級マンションの建ち並ぶ一角に入った。
「マイフレンド、ここは金持ちの住むところだ」とセルヒオが窓外を指さす。「この国は汚職だらけだからな、みんな汚職のお金で建てたやつだ。お金が汚いほど、きれいな建物ができあがるんだよ」
がっはっはと豪快な笑い。
そんなブラック・ジョークのあとは海辺でタクシーを降り、真っ暗なカスピ海を眺望した。はるか彼方の海上にはほの白い光がたゆたっている。
「あれは貨物船だ」と腰に両手をあてながらセルヒオ。「ロシアとかアゼルバイジャンと行き来してるんだ。もっとも、あっちからの積み荷はたくさんあっても、こっちからの積み荷は少ないけどな」
がっはっは。
なぞなぞみたいでなにが面白いのかよく分からなかったが、続いて、きらびやかな海辺のプロナードへ。
そこらじゅう色とりどりの電飾でかざられており、「I?Aktau」のシンボルまであった。静寂だった昼間とは打ってかわり、レストランやクラブから陽気な音楽が漏れ聞こえ、恋人や家族連れでにぎわっている。暑い国の人々は日中は家で休み、夜半に出かけることが多いが、アクタウもおなじらしい。
波打ち際で、なにも見えないカスピ海を背景にセルヒオと一緒に記念撮影。「ワイフにさっそく送るよ」とにっこにこの彼。
それから本日二度目のシェフチェンコ像を訪れ、ぼくはさも初めて目にしたかのように「おぉっ」とうなり声をあげてみせる。締めくくりにはライトアップされた観覧車をうっとり眺め、軽食屋でサンドイッチまでごちそうになった。
ペネロペ・クルス級の妻がいるというのに、もしやぼくを狙っているのではないか。そう疑ってしまうほど至れり尽くせりのサプライズ。
「セルヒオ、たしかにあなたならペネロペ・クルスだって落とせるよ」
ツアー終了後、ぼくがそう言うと、セルヒオは今宵最高潮のテンションで哄笑する。
がーはっはっは!
3.
アクタウ三日目の朝七時、地下モスク行きの巡礼タクシーに乗車した。
白のミニバンで、扉を開けるなり白いスカーフを頭にまいたおばちゃんたちがいっせいに目を向けてくる。「ハロー」と朗らかに話しかけてみるが、揃いもそろって反応はなし。すでに満席だったので補助席にちょこんと腰をかけ、背中をちいさく丸める。
ミニバンは荒野をひた走り、途中、シャナオゼンという小さな町を経由した。あとで知ったことだが、巡礼タクシーはシャナオゼンからも出ているようで、アクタウからバスでここまで来て巡礼タクシーに乗り継ぐ者も多いそうだ。
また、シャナオゼンは油田の町としても知られており、郊外の平野ではおびただしい数の石油掘削機が稼働していた。巨大なパーツがそれぞれ噛み合い、添水のようにヘッド部分を上下に振っている。ピタゴラスイッチみたいに面白くて、ついついじっと見入ってしまう。
そんな折、前の座席に座っていたキャップ帽の少年に話しかけられた。「どこから来たの」「なんの仕事をしてるの」「日本ってどんなところ」とつたない英語ながらも、スマホの翻訳アプリを駆使して積極的にコミュニケーションを図ってくる。
彼はカザフスタン・アルマトイの高校生で、母親と叔母とともに二日ものあいだ列車に揺られ、今朝、アクタウに到着したのだという。しかも今日のうちにこの巡礼タクシーでアクタウに引き返し、アルマトイに帰るそうだ。
「お母さんや叔母さんは前に来たことがあるんだけど、ぼくはまだだったから連れてこられたんだよ」と、彼はさもあまり気乗りはしなけどついてきたかのような口振りで言う。巡礼と一口にいえど、巡礼者の心構えは三者三様らしい。
巡礼タクシーはシャナオゼンの外れに建つ一軒の小さな商店に立ち寄った。ほかの巡礼タクシーもたくさん停車している。
「今日はカザフスタンの大型連休の初日なんだ」とキャップ帽の少年が教えてくれた。「だから、ふだんの何倍もの巡礼者がいるらしいよ」
すこしのち、商店から大きなビニール袋をいくつもさげたおばちゃんたちが出てきた。巡礼者はここで巡礼宿に寄付するための食料や飲みものを購入していくのだそうだ。ぼくは昨日、万が一の場合に備えて購入しておいたミネラルウォーターやビスケットを寄付することに。
ふたたびタクシーに乗り込み、数時間ほどで第一の聖地に到着。
地平線まで続く乾いた砂岩地帯のなか、ちいさな石造りの囲いがぽつんと建っている。その手前に並べられたベンチには大勢の巡礼者が腰かけており、三々五々に石造りの囲いのなかへ入ってゆく。ぼくもキャップ帽の少年の家族に「こっちに来なさい」と誘われ、一緒にベンチに座った。
やがて順番が来ると、囲いの入り口にいたムッラー(イスラム僧)らしき男性に白い布を手渡された。キャップ帽の少年らに続いて囲いのなかに入ると、中心に枝葉のない一本のちいさな木が植わっていた。巡礼者たちはそれを左回りでまわりながら手を木にあて、ひたいにあて、祈祷のような言葉をつぶやく。なかには木に白い布を結んでいる人もいた。
ぼくも見よう見まねにまわりながら手を木に、おでこにあててみる。白い布を木に結びつけてみたい気持ちもあったのだが、イスラム教徒でもない異邦人のぼくがそんなことをしていいのかよく分からず、なにより後ろがつかえているので悠長に結びつけているひまがない。
結局、三回ぐらいまわって、ふたたび石の囲いの外に出た。みな、ぞろぞろとタクシーのほうに戻ってゆく。
「これで終わり?」あっけにとられ、少年に訊いてみた。
「終わりだよ」と彼は淡々と答える。
「この布は?」
「記念に持って帰ればいいよ」
「結びつけなくていいの?」
「大丈夫だよ」
「でも、どうして結びつける人がいるの?」
「お願いごとをしてるんだよ。でも、べつに結ばなくてもいいんだ」
そんなにアバウトなの?
片言の英語のやりとりゆえ、なにか誤解があるのではないかと思い繰り返し確かめてみるも、やはり同様の答えがかえってくる。この一連の儀式の意義についても、英語で言うのが難しいのか、そもそもの説明自体が難しいのか、「なんて説明したらいいかよく分からないな」との返答。
うーん、と釈然としないままタクシーに乗り込み、テンポ良く第二の聖地に到着。
ここでもキャップ帽の少年の家族と行動をともにした。ぼくらがまず向かったのは駐車場わきのトイレ。なんでも巡礼者は聖地に入る前にトイレで用を足し「身を清める」のが慣わしとなっているらしい。
それからキリル文字で「ショパン・アタ」と刻まれた白い石門をくぐり、アラビア文字や渦巻きの文様が豊かに施された一〇世紀頃の共同墓地を進んだ。たどり着いた先は、石灰岩のような白っぽい岩壁をくり抜いて造られたほら穴だった。ここでも巡礼者たちがベンチに腰かけ、順番待ちをしている。
ぼくらも順番を待って、ほら穴に入った。内部は天井が低く、ひんやりとしており、いくつかの小部屋に分かれていた。色鮮やかな絨毯の敷かれた一室ではムッラーが座しており、一〇名ほどの巡礼者らとともに彼を囲むようにして腰を下ろした。全員が座したところで、ムッラーは祈祷の言葉を唱え、最後にまたもや白い布を手渡してきた。ほかの小部屋は、一二世紀に没した聖人ショパン・アタとその家族の霊廟になっていた。
その後、ほら穴からさらに進んだ先にあった丘の上で、中央に植わっていた一本の木のまわりをぐるぐるまわった。ここでも白い布を木にまいてみようと思ったが、やはりぼくなんかがまいてもいいものなのかと頭のなかもぐるぐるまわって、またもや機を逸してしまう。
結果、謎の白い布が二枚に。
キャップ帽の少年はやはり「これも大事に持って帰ればいいよ」と言う。なんか、すごいふわふわした巡礼だ。
少年の家族のあとに続いて、駐車場近くの休憩所へ。
長テーブルに用意されたお菓子やスイカやチャイを飲み食いしながら、巡礼者らと片言の英語や身ぶり手ぶりでコミュニケーションを図っていると、たくさんの金だらいが陸続と運ばれてきた。茹でた平麺の上に茹でたヒツジ肉のかたまりが載せられた料理、ベシュバルマクである。キルギスタンやカザフスタン定番のごちそうで、「五本指」というバシキール語の意味どおり五本の指でつかんで食べるのだ。
巡礼者たちが床に置かれた金だらいのまわりを囲み、鍋パーティーみたいな輪がいくつもできていく。彼らは慣れた手つきで肉塊をちいさく裂き、骨の髄まできれいにしゃぶってゆく。なかにはヒツジの頭や得体の知れぬ内臓らしきものまで交ざっていた。
ヒツジ肉は好き嫌いがけっこう分かれると思うが、ぼくはまあまあ苦手なほうである。だが物珍しい日本人観光客とあって周囲も放っておいてくれず、「ここがおいしいんだよ」「ここを食べろ」と次々に手づかみで肉片をわたされる。親切心からそうしてくれることは重々分かっているが、本音を言えば、いまだけは思いっきり冷たくしてほしい。
とはいえ無碍に断ることもできないし、ましてや英語もろくすっぽ伝わらないので断りの言葉も言えない。詮方なく、これはいったいどこの部位なんだろうと思いながら、一口、二口……。
感想はご想像におまかせします。
正午過ぎ、カザフスタン最大の聖地ベケット・アタに到着。
駐車場には数十台もの巡礼タクシーが停車しており、その気になればいくらでも帰りのタクシーを見つけられそうな雰囲気だった。最悪の場合は、キャップ帽の少年たちと一緒に日帰りでアクタウに戻ればいい。
ここでも少年の家族とともにトイレに入り、巡礼宿に水や食料を寄付したあと、「ベケット・アタ」と刻まれた石門をくぐった。そして断崖絶壁に沿って延々と続く石階段をおりてゆく。
周囲に広がるのは雄大な白い岩の大地。低木がまばらに生えているだけで、人家どころか人工物すら見当たらない。この完璧な孤絶が、ベケット・アタの聖地たるゆえんを物語っているような気がする。ところどころ色彩の微妙に異なった地層が連なっており、一部の砂岩には貝の化石らしきものも混じっていた。いまは見る影もないほどからからに乾ききっているが、マンギスタウ州には塩湖もあるようだし、かつてここら一帯は海だったのかもしれない。
ベケット・アタのほら穴の前は、大型連休の影響かすさまじく混雑していた。狭い入り口めがけて巡礼者たちが殺到し、ムッラーらしき男性が列をつくるように呼びかけている。ぼくらも人混みにまざって、砂漠の強烈な日差しにじりじり焼かれながら順番が来るのをひたすら待った。
周囲の巡礼者を打ち眺めながら、ふと思う。
聖地というからには、メッカのような一種ものものしい雰囲気を想像していたのだが、小さな子供もちらほら見かけるし、陽気な笑い声もときどき聞こえてくる。けっして浮ついているわけではないが、ことのほか安穏としているのだ。
それに、男性よりも女性のほうが多い気がする。みな一様に白いスカーフを頭にまいているが、中東諸国ほど戒律が厳しいわけでもない様子で、目と目が合うと、笑いかけてきたり英語で話しかけてきたりする。
「どこから来たの?」と興味を持たれ、「なんでこんなところに来たの?」と不思議がられ、「まさか日本人が来るなんてね」と驚かれ、「カザフスタンはどこに行ったの?」と訊かれ、「万博にはぜひ行くべきよ」とすすめられて(ちょうどこの時期、首都アスタナで万博が開催されていた)。
なかでも熱心に話しかけてきたのは、二〇代後半ぐらいの英語の堪能な女性だった。アスタナからふたりの姉妹と一緒に来たそうで、ベケット・アタは二度目とのこと。
良い機会なので、どうして女性のほうが多いのか訊いてみた。
「そうねぇ」と彼女はかわいらしい丸顔をかしげる。「ここでお願いごとをするとかなうって言われてるんだけど、やっぱり女性のほうが家族のことや子供のこととか、お願いごとが多いからじゃないかしら。とくにここでお祈りをすると、子宝に恵まれるってよく言われてるのよね……。あとちなみに、ここの巡礼宿で見た夢は正夢になるとも言われてるのよ。わたしは前回来たとき、なにも夢を見られなかったから、今日はちゃんと寝て、良い夢を見ようと思ってるの」
なるほど、ベケット・アタの巡礼は日本でいうところの神社の参拝に近いものなのだろうか。
ついでに帰りのタクシーについて相談してみると、彼女は自分たちの乗ってきたタクシーで一緒に戻ろうと誘ってきた。「わたしたちは明け方の四時に帰る予定なんだけど、それでもいいなら、あとでタクシードライバーに連絡しておくわよ」
ワンワンだったらしっぽでもふりふりするような、またとない申し出。
明け方四時という出発時間が多少気になったが、彼女いわく、巡礼者のほとんどは遠方から来ているため、帰りの列車や飛行機の時間に合わせ、深夜から早朝にかけてベケット・アタを発つのが常らしい。
「でも、起きられるかな?」
ぼくが何気なくつぶやくと、彼女は無邪気に笑った。「寝過ごしても、そのぶん素敵な夢を見られるんだから、それはそれで良いじゃない」
小粋なジョークだが、こんな荒野に置き去りにされるというのはあまり笑えない。
かくて帰りの手段を確保し、不安を解消したところで、いざほら穴のなかへ。
その前にいちおうベケット・アタなる人物について簡単に説明しておくと、彼は一八世紀頃の伝説的なイスラム教指導者、科学者、哲学者である。ここマンギスタウの出身で、一四歳のときにヒヴァ・ハン国の首都ヒヴァ(前回の旅行記でも紹介した現在のウズベキスタン・ヒヴァ)のマドラサ(神学校)で科学を学んだ。四〇歳にしてスーフィズムの指導者になり、マンギスタウに戻ってきたあとは四つのモスクを建設し(うち一つがここの地下モスクである)、ひいては聖人として崇められるようになったのだという。
かくなる歴史的背景を知っていればより味わい深い見方や体験ができたのだろうが、このときのぼくはほぼなにも知らない状態だったので、なんだかよく分からないうちにすべてが過ぎてしまった。
まず、内観はさきのショパン・アタと大同小異で、ムッラーから祈祷の言葉を授かり、ほら穴の一室に植わっていた木のまわりをぐるぐるまわった。またべつの一室はベケット・アタの霊廟になっていた。そして、ここではなぜか謎の白い布をもらえなかった。すでに二枚もらっているし、どうせなら三枚コンプリートしてみたかった(あとで調べたところ、これは災いから守ってくれる聖なる布であり、家に持ち帰って家族や友人とその効能を共有できるらしい)。
すこし拍子抜けしてしまったのは、地下モスクという呼び名とは裏腹に、まったく地下ではなかったことだ。たしかに長い階段をくだりはしたが、それはほら穴の外だったし、地下に来たという感覚はおよそない。
ただしこれはあくまでも、予備知識も持たずにのこのこやってきた無知蒙昧な無神論者の日本人観光客が抱いた所感であって、そもそもベケット・アタは「地下モスク」という言葉に踊らされて安易に足を延ばすような場所ではないのだろう。
今回のまとめとして、未来の旅行者にワンポイント・アドバイス。ベケット・アタに行きたいのであれば、きちんと予習してから行きましょう。
4.
というわけで、ちんぷんかんぷんのままほら穴から出たあとは、キャップ帽の少年の家族にくっついて来た道を戻った。ただし、帰り方にも宗教的な手順があるらしく、いろいろと寄り道をしながら。
まず、道ばたで焚かれていた炎に手をかざし、顔の表面をなぞる。
次に、泥水が湧き出ている井戸のような場所に立ち寄り、泥をひたいや頬に塗る。少年の母親いわく、美容に良いのだという。
最後に、階段の途中にあった屋根つきの休憩所で聖水だという湧き水を飲む。ここの水はさきの泥パックしかり、健康に良いともっぱらの評判らしい。美容とか健康とか、ベケット・アタが女性に人気なのはこういうのも一因なのではなかろうか。ちなみにこの湧き水をポリタンクやペットボトルに入れて持ち帰る人も大勢いるようで、少年の母親も持参した五個のポリタンクにわき水を注ぎ入れ、ぼくと少年と母親で手分けして馬車馬のごとく上まで運ぶことになった。
汗まみれで巡礼宿に到着。
玄関口には巨大な靴箱があり、靴を脱ぐ決まりになっていた(余談ではあるが、アジア圏には家のなかで靴を脱ぐ習慣のある国が数多あり、今回の旅でいうとキルギスタンやウズベキスタンもそうだった)。緑色の絨毯が敷かれた縦長の広間では、大勢の巡礼者が長テーブルに着き、チャイやお菓子に舌鼓を打ちながら談笑をしている。広間の左手は男性用の共同寝室、右手が女性用で、男性用の寝室を覗いてみると、敷き布団が壁に沿ってずらりと並び、何人もの巡礼者が仮眠を取っていた。
とはいえ、時刻はまだ一五時。思いのほか早く巡礼が終わってしまったので、とくにやることもない。これからどうしようかな。そう思いながら広間をぶらぶらしていたら、長テーブルの一角を占めていた若者のグループに声を掛けられた。「とっておきのを飲ませてやるよ、すごく健康に良いんだ」
出てきたのは、一・五リットルのペットボトルに入った白濁した液体。訊けば、自家製のラクダの乳酒だそうだ。こわい気持ちも多少あったが、昼ごはんのベシュバルマクのおかげで食に関するリミッターが外れていたせいか、けっこうすんなり飲めた。キルギスタンで飲んだ馬乳酒しかり、味はケフィアに近い。
ぼくがおいしいと言うと、周囲はこれも飲め、これも食えと、チャイやらお菓子やらフルーツやらの小皿を持ってきてくれた。その後も、さまざまな巡礼者がのべつまくなしに輪に加わっては、日本やぼくのことを興味津々に訊いてくる。ほかに外国人旅行者はいなかったし、いやが上にも注目の的になる模様だ。しかも絶えまなく話者が入れ替わり、それぞれ自己紹介してくるため、とてもではないが名前を覚えきれない。そんなぼくの心中もすっかり見透かされているようで、ときたま「ところで、わたしの名前おぼえてる?」とからかわれたりもした。
そうこうしているうちに日が暮れて、夕食の時間。
ぼくも手伝い、男性陣が総出で調理場からベシュバルマクの入った金だらいをリレー形式で広間に運んだ。
ベシュバルマクも二度目となると、物怖じはしない。正体不明の部位にも、手づかみで渡される肉片にも、物怖じはしない。
ただそれでも、味は変わらない。
夕食後、キャップ帽の少年らをはじめ、日帰りの巡礼者たちが続々と去っていった。 ぼくはそれからもなにをするわけでもなく、広間の長テーブルでチャイを飲みながら巡礼者たちと四方山話に明け暮れた。
日中からすでにして女性の割合が高かったが、夕食後の「珍奇な日本人観光客を囲む会」の顔ぶれはほぼ女性だけになった。おしゃべり好きな長い黒髪の女子大生二人、英語の教師を目指しているというメガネの高校生、デザイナーの妻だという清楚な女性……。ここにいる女性陣だけでもアイドルグループとして売り出せそうなほど美女ぞろいで、疲れ知らずに次々と質問を浴びせられる。
「結婚はしてないの?」「どうして結婚しないの?」「恋人はいるの?」「仕事は?」「日本のどこ?」「どれぐらい旅行してるの?」「次はどこ行くの?」「カザフスタンの○○は行った?」「メアド交換しましょう」「Instagramやってる?」「Facebookは?」 いやぁ、巡礼宿がこんなに楽しい場所だとはしらなんだ。
そんなにやにやが止まらないハーレム状態であったが、彼女たちから異口同音に言われたのが「髪を切れ」である。
「あなたは髪を切ったほうがいいわね」
「どうしてそんなに伸ばしてるの」
「まるで女の子みたいじゃない」
「短いほうが似合うわよ」
「そうそう、そのほうがずっと男らしくなるわ」
とまあ、とにもかくにも、おまえはまず髪を切れ、話はそれからだ、といった調子なのである。
このときのぼくは鎖骨に届くぐらい髪の毛が伸びていたのだが、たしかに思いかえしてみれば、これまでカザフスタンの街なかで見かけた男性はそろいもそろって髪が短かった。この国はジェンダー・ロールが明確なのか、「男たるもの短髪であれ」といった概念が定着しているのかもしれない。
しまいには内気なのか英語をうまく話せないのか、ずっと遠巻きにぼくらのことを眺めていた女の子まで、無言でこちらを凝視しながら、自分の前髪の束をつかみ、はさみで切る仕草をしてきた。
「えぇ、切りますよ、切りますから……」
そう苦々しく伝えると、彼女はぱっと笑みを咲かせる。さもぼくが髪を切ることで、彼女の人生に素晴らしい一ページが刻まれるかのような黄金の笑みを。
夜中の一時過ぎ、楽しくもどこか歯がゆくもあったハーレムも終わりを迎え、ひとり、またひとりと寝床に入っていった。あるいは、大型連休のせいで巡礼者があふれかえっており、共同寝室には寝るスペースもろくにないため、広間の絨毯に身を横たえる。
ぼくも仮眠を取って、正夢とやらを見てみたかったのだが、いまになってふたつの心配事に襲われた。
ひとつめは単純に、うっかり寝過ごしてしまわないかということ。
ふたつめはややこじれた問題だが、丸顔の彼女が指定した出発時間の四時が、アクタウ時間なのかアスタナ時間なのかということ。カザフスタンは国土が広大なため、自国内でもアスタナとアクタウでは一時間の時差がある(アクタウの四時はアスタナの三時にあたる)。ふつうに考えれば現地時間なのだが、彼女はアスタナ出身だし、交通機関によってはアスタナ時間を採用しているところもあると小耳に挟んだことがある。
たしかめたくとも、彼女はすでに女性用の共同寝室で眠っているため、しかも名前を忘れてしまったため打つ手がない。いくら日本人観光客といえど、イスラム圏で女性の寝室に無断で入ったらテヘペロじゃすまされないだろう(いや、イスラム圏じゃなくてもそうか)。いまからほかの巡礼者のタクシーに乗せてもらうという選択肢もあるが、彼女はすでにタクシードライバーにぼくのぶんの席をお願いしているだろうし、断りも入れずにドロンするのも忍びない。
だから、徹夜。
チャイを何度も飲んではトイレに行き、影絵やあやとりで遊んだりしながら、女性用寝室にちらちら目を配らせる。のぞき魔と誤解されないよう、同時に周囲の目も気にしながら。
そしてアクタウの三時、つまりアスタナ時間でいう四時。
この頃になると、両手の寝室から男女がぞろぞろ出てきて、慌ただしげに巡礼宿をあとにしはじめた。一人ひとりの顔を目で追いかけるが、あのかわいらしい丸顔はない。
彼女が寝室から出てくるところを見逃してしまった場合も想定し、駐車場に行ってみた。凍てつく強風が吹きすさぶなか、闇夜に彼女たち三人のすがたを探しもとめるがどこにも見当たらない。やっぱり現地時間だったのだろうか。
巡礼宿の広間に戻り、壁にもたれかかりながら女性用寝室のほうを祈るような気持ちで見つめ続けた。すると、アクタウ時間の四時五分前ぐらいに、丸顔の彼女と姉妹ふたりが急ぎ足で寝室から出てきた。
あぁ、良かった!
と思ったのもつかの間。
目と目が合った瞬間、彼女はこんなことを口走った。
「あら、あなた、まだいたの」
ぼくの存在すら忘れていたかのような言葉。
しかし同乗させてもらう立場ゆえ、その場はなにも言わず、彼女たちについてそそくさと駐車場へと向かった。凜とした静けさのなか、駐車場ではすでに何台ものタクシーの明かりがともり、巡礼者たちが矢継ぎ早に乗り込んでいる。
彼女たちのタクシーは旧ソ連時代の軍用ジープで、アンティーク風の外装や計器やハンドルが恰好よかった。彼女ら三人が後部座席に、ぼくは助手席に乗り込んだ。
タクシーが走り出すと、窓外はすぐに黒い絵の具で塗りつぶされたような完璧な闇で覆い隠された。はるか前方を走るほかのタクシーのテールランプが、蛍の光のようにゆらゆら漂っている。
「みなさんは、アクタウに戻ったあとどうする予定ですか?」とバックミラー越しに話しかけてみる。
「とくになにも」と丸顔の彼女が淡々と答える。「すこしのんびりして、明日のフライトでアスタナに帰るわ。また仕事のはじまりよ」
「日常に戻っていくというわけですね」
「良くも悪くもね。あなたは?」
「アクタウですこし休んだあと、アゼルバイジャンのバクーに向かいます」
「アゼルバイジャンか……。バクーなら、わたしも五年ぐらい前に行ったことがあるわ。とっても良いところだったけど、物価がとても高くて、ごはんひとつ食べるのにも悲鳴をあげちゃったな」
「いまなら、原油価格下落とかの影響で物価がだいぶ安くなってるらしいですよ。旅行もしやすいかもしれません」
「そうね。またいつか行ってみたいけど、これからまた日常に戻っていくというときに、そんな先のことは考えられないわね」
「……そういえば、なにか夢は見られました?」
「えぇ、見たわ」
「どんな夢を?」
「それは言えないわよ。だれかほかの人に話してしまったら意味がなくなってしまうもの。こういうのは自分の胸のうちにそっとしまっておかなくちゃ」
「……なんだか分かるような気もします」
「あなたはどうなの? 良い夢、見られた?」
ここでぼくは、出発時間がアクタウ時間なのかアスタナ時間なのか分からず徹夜したことを告げた。彼女は苦々しく笑った。「それはごめんなさい。わたしも配慮が足りなかったわね。きちんと伝えておくべきだったわ」
「いえいえ、ただぼくが心配性なだけです。ふつうに考えれば現地時間ですからね」
「……それにね、正直に言うと、わたしは、あなたがほかの人にタクシーを頼んだんだとどこかで思い込んでいたのよ。巡礼宿に戻ってきたあと、あなたとは話す機会もなかったから。あなたがほかの人たちと楽しそうにしゃべってるところはすこしだけ見かけたんだけど、きっとそのせいで勘違いしちゃったのね。ごめんなさい」
「いえ、じっさいにぼくもおしゃべりに夢中になりすぎて、ついさっきまで帰りのタクシーのことも忘れていましたから。でも、結果的にはこうして無事タクシーに乗せてもらえたので大丈夫ですよ。気にしないでください」
「だといいんだけど……。でも、やっぱりちょっと残念ね。夢を見られるせっかくの機会だったのに」
「……だけど、今回の巡礼をきれいにまとめるとしたら、ぼくにとってはベケット・アタでの滞在そのものが素敵な夢を見ているような感じでしたよ。いろんな人と話せたし、いろんなことを知れました。こうしていまあなたと話しているのも本当に有意義な、夢みたいに素敵なひとときです」
さらにきれいにまとめるなら、ベケット・アタで過ごした夢のようなひとときをこうして文字に起こすことによって、今一度、あの時間を再体験することができたし、あるひとつの物語として再現することができた。
これもまたある種の正夢なのかもしれない。