ほっとしているところである。
フェンシングの名手・五条を筆頭に、函館の平穏を守るべく
日夜奔走する刑事たちを活写する、明治警察物語。
(10年10月刊『ウラジオストクから来た女』あとがき[全文])
高城高 koh KOHJO
2009年7月刊行の『函館水上警察』の続編である。お読みの通り完結編というべきもので、いま私は初めて書いた時代小説に一区切りがついてほっとしているところである。同時に、前編のあとがきで書いたように多くの方々からご教示いただき、お世話になったことに重ねて感謝している。自分でも資料を探すなどして読んだことで勉強にもなり、また改めて考えさせられたことが多かった。例えば明治という時代について。
私はずっと以前、それこそ若い時から明治維新を日本の近代の起点と評価する歴史家や作家の考え方に漠然とした疑いを持って来たような気がする。もちろん、それについて研究したわけではないから、単に明治維新を手放しで礼賛できない東北地方の古い世代の遺伝子のせいなのだろう。そこで今回書いているうち、どうも近代の始まりをこの作品の明治24(1891)年あたり、つまり1890年代に置いてみたいという考えにとらわれたのである。
政治でいえば帝国憲法発布が89年、翌90年に帝国議会の開設である。とはいえ、実態を見れば雄藩による藩閥政治は大正初期まで続き、議会そのものが制限選挙による議員で構成されていた。天皇の大権の絶対性を盾とする特異な立憲体制が確立された近代のスタートであった。
近代経済の前提になる産業革命はどうだろう。維新後、殖産興業に力を借りようとした御雇外国人は、社会、教育など制度的な近代化には貢献したが、まだ土台の貧しい工業化の助けにはならなかった。やっと80年代末の官業払下げをきっかけに企業設立が相次ぎ、綿糸紡績業が勃興してさらに台湾領有に伴う製糖業、木材パルプの原料化成功による製紙業などと日清戦争(94-95年)に前後して工業化が進む。いずれも軽工業の分野で、鉄鋼、機械、造船といった重工業の分野は後れを取る不均衡な産業革命だが、やはり90年代がその始まりといえるのではないだろうか。
90年代がそれ以前と違ってくるのは、何といっても社会、文化といった分野であろう。風俗を例にとれば女性の髪型で束髪がポピュラーになるのはこの頃からである。文学でいえば、二葉亭四迷が初めて言文一致体の『浮雲』を発表したのが87-89年で、こうした小説を読むことで我々は初めて当時の人たちはこんな喋り方をするのだな、と分かる。そしてこれらの文学に出てくる語彙は今でも使われている言葉なのだが、90年代以前には存在しなかったものが多い。言葉ということでは、明らかに90年代が境目である。それ以前の明治は、いろいろな面でいわば江戸の尻尾をぶら下げていた時代だったような気がする。
前編は函館が開港150年を祝う年に出版され、明治の函館を少しでも知ってもらいたいという私の創作意図に合致することになった。海外に開かれていたということでは、函館より長崎の方が歴史は古いだろう。しかし、長崎がつながっていた世界はオランダや清国で、それによって独特な異国情緒がすでに町を彩っていた。一方、函館には幕末からロシア船が出入りし、開港後はロシア船よりは英米、特に英国船が多く来航してそれも商船、軍艦、海獣密猟船と多彩であった。19世紀の近代化された西欧文化が北のはずれの町にいきなり流入したのである。函館新聞を読んでいると、当時はほかの都市では恐らく見られないような市民生活や商売をうかがわせる広告が目につくのである。この一足早い町のハイカラさが文学でも大正以降になって、例えば長谷川四兄弟のようなモダニズムの逸材を生み出すのだった。
後編でも前編同様に実在した人物が数多く登場するが、フィクションであるから時期や場所などで実際の函館の歴史と食い違うところもある。ここで二つばかり大きな相違点をお断りさせていただきたい。
「聖アンドレイ十字 招かれざる旗」のアークティック号が逃げ込んだ先は函館港ではなく、神奈川県三浦半島金田湾であった。英露の軍艦が対決したその当時の経過は、外務省外交史料館ではうかがいしることができなかった。作品の中で触れているその六年前の事件については、断片的ながら両国のやり取りがうかがえる外交文書があるのに不思議である。マイクロ化作業のため一部封鎖していた資料の中にあったのかもしれなかった。しかし、函館新聞ははるか本州のこの事件を八回にわたって経過を伝えてくれている。水夫たちが太平洋酒店で飲んで暴れるなど市民に迷惑をかけた密猟船だが、地元にカネを落としてくれたし知名度が高かったことから、わざわざ情報を集めて報道したのだろう。
最終回に描かれたマルモ森田一家による警察署襲撃は、実はこの十年以上も後の事件で、舞台も函館ではなく十勝地方でのことであった。『北海道警察史――明治・大正編』(1968年)が十ページ以上を費やして記録しているが、この時、博徒らは警官たちを署内から追い払い、保護されていた敵方の一丁派系幹部を滅多刺しにして殺してしまったのである。この頃になってもまだ道東などでは警察力が劣勢に立たされていたのだった。
博徒たちは内部に記録めいた書き物を遺さないし、函館新聞だけでなく当時の新聞は原則として博徒についてはほとんど記事にしなかったので、樺太から一道一府六県にまたがるこの組織の全容と歴史は分からないことの方が多い。そこで存命の関係者からの聞き書きをまとめた大西雄三著『実録北海博徒伝――森田常吉聞書』(1980年、札幌。みやま書房)は、裏付け資料の言及に足りない部分はあるが今となっては貴重である。
これによると東京進出をもくろむマルモ森田は明治32年夏、吉原の親分に喧嘩状を突きつけて子分たちを東京に送り込んだ。吉原勢を加勢する東京連合と白装束のマルモの決死隊の衝突は警官隊に阻まれてしまう。マルモ側は長引くと見るや品川沖に船を借り切って出撃の本拠とした。結局、武州(神奈川、埼玉)の親分が仲裁に乗り出し、吉原も縄張りに抑える東京の大物と森田常吉が兄弟分となることで収拾した。その固めの儀式が函館で行われることを事実上の勝利と受け止めた祝賀会は、港内に数十艘の艀船を浮かべて畳を敷き詰め、市民も加えた無礼講で三日三晩続いたという。
明治40年、刑法が改正され、北海道の警察官定員も十年前の二倍になった。同43年、函館地裁検事局の指揮で、常吉親分をはじめ樺太から東京まで計81人の貸元ら幹部が博徒結合罪で逮捕され、組織は壊滅した。服役後の常吉は白い顎ひげの好好爺としてひっそりとした隠居生活を送り昭和10年三月、自宅で84歳の生涯を閉じた。これは函館新聞が二段見出しで、また読売新聞も「丸茂の親分逝く 任侠謳われた生涯」と写真入りで報じた。
登場人物のその後ということでは、英国領事のジョセフ・ロングフォードは明治35年まで長崎領事を務め、外交官引退後はロンドン大学の初代の日本学教授に就任しており、日本に関する著述もあるようだ。
前編には、日本で初めて強制集団種痘を行った深瀬洋春を登場させたが、この後編では弟の深瀬鴻堂が活躍する。日本でもよく読まれている英国の旅行作家、イザベラ・バードはその蝦夷地紀行で鴻堂と函館病院を高く評価しており、函館の医学界の黎明期を切り開いた兄弟なのである。私は新聞記者として函館に勤務していた四十数年前、三代目の鴻一郎氏にお会いして函館特有の夏のヤマセ(東風)とリュウマチ症状の相関についての研究を取材し、コラムに書かせていただいたことがある。1891年開業という北海道では最も古い病院である医療法人鴻仁会深瀬病院はいま四代目の晃一氏が院長を務められている。
最後に函館水上警察署の現状に触れておこう。昭和27年に函館西警察署と改称しており、庁舎もかつての真砂町のなお北東側の海岸町に昭和59年になって移築された。庁舎が岸壁に面しているわけではないが、港内パトロールの任務は変わらず担っており、警備艇おしま(19トン)が明治時代と同じように巴港を巡回している。
2010年7月
高城 高
■ 高城高(こうじょう・こう)
1935年北海道函館市生まれ。東北大学文学部在学中の55年、日本ハードボイルドの嚆矢とされる『宝石』懸賞入選作「X橋付近」でデビュー。大学卒業後は北海道新聞社に勤務するかたわら執筆を続けたが、やがて沈黙。2006年の『X橋付近 高城高ハードボイルド傑作選』(荒蝦夷)、08年の〈高城高全集〉全四巻(創元推理文庫)の刊行で復活を遂げる。09年には時代警察小説『函館水上警察』(東京創元社)を発表し、絶賛を博した。
推理小説の専門出版社|東京創元社