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 タクシーが井ノ頭通りから吉祥寺通りに入るころには、雨脚は目に見えて強くなっていた。
 先日徒歩で辿った道のりは途中から記憶が曖昧で、真夜中の車窓に見る風景ではなおのこと、運転手に的確な指示を出しかねた。およそ憶えているあたりまで来たところで、新月は雑木林の在り処を訊ねてみた。幸い運転手は見当がついたようだった。どうやらあの晩の新月は異界に迷いこんだわけではなかったらしい。
 数分後、濡れたフロントガラスに立ち塞がった漆黒の壁がヘッドライトを呑みこんだ。手前を右折してしばらく走ると、林の奥へ向かうトンネルめいた細道が視界に入った。やや通り過ぎたところで新月は車を停めた。気は急いていたが、目的の邸まで乗りつけたくはない。傘を持ってこなかったことだけが悔やまれた。たった一人、丑三つ時の闇に消えていく客はさぞや怪しく見えたことだろう。
 白い息を吐きながら新月は足を速めた。暗い一本道に連なる朧な街燈が妙に懐かしい。前回と違って道行きの不安はない。遙か頭上の枝々は、ふたたび訪れた小さな生き物を氷雨から護った。
 今夜、この道の先に重大な出来事が待っている。はっきりと一つの答えが出る。電話の男の声を新月は信じていた。騙し討ちを疑る気持ちはいつのまにか失せていた。粗忽なのか、胆が据わっているのか、どちらにしても彼の行動を律するものは昔から徹底して変わらない。
 いまや新月の歩みはほとんど駆けるようだった。雨音さえ聞こえない静寂【しじま】をもどかしげな息遣いが着実に移動していく。やがて辿り着いた最後の袋道の突き当たり、三角屋根の洋館は月明かりのない暗闇に凍えながら眠っていた。今夜は門燈もともっていない。展けた夜空から降りかかる雨に顔を濡らしながら、新月はアラベスク模様の門扉を潜り、庭木のあいだを抜けて玄関に向かった。
 勝手に上がれというのが電話の指示であった。そっと扉を開き、念のため一声かけてから靴を脱いだ。
 底冷えのする邸内は、あの雑木林よりも深い沈黙と闇黒に包まれていた。足袋跣【たびはだし】から這いのぼってくる冷たさは、肉体以上に心を萎縮させた。手探りで明かりをつけると、奥へ伸びる褐色の廊下が現れた。
 新月は音もなく歩きだした。いくつかの扉を通り越して最初の角を曲がる。先ほど点けた明かりはもう届かなかった。どこかに別のスイッチがあるはずだが見つけられず、そのまま暗がりを進んだ。たいして大きな家とは思えないのに、不思議なぐらい長い廊下である。ほどなくそれはコの字に折れた。すると、前方の閉じた扉から、かすかに光が漏れているのが目に入った。
 廊下のいちばん奥の部屋……そこが目指す場所に違いなかった。
 扉の前に立ち、新月は耳を澄ました。どこからも、何の物音もしなかった。なぜかしらこのとき、突如として悪い予感がむくむくと湧き上がった。彼はゆっくりと三度ノックしたのち、ノブを回した。
 書斎とおぼしき部屋であった。カーテンの閉じた窓ぎわに立派な机があり、電気スタンドがともっているほか、書架の手前に据えられたフロアスタンドの電球が、緑色のシェイドを透かして柔らかな光を放っていた。書架はなぜか空っぽだった。フロアスタンドの支柱は細く、明かりはまるで宙に浮いているように見えた。
 新月の部屋に置かれているのと似たソファとガラステーブルが、不自然に壁ぎわまで押しやられている。毛足の短いカーペットの中央付近、もともとそれらが置かれていたと思われる場所にあるのは黒い肱掛椅子で、蹴り飛ばされたように横倒しになった椅子の真上に、だらりと縊死体がぶら下がっていた。
 いくつもの影が交錯する室内で、死体の存在感は圧倒的であった。それは大蝙蝠のように、長大な鍾乳石【つららいし】のように、ぞろりと長い黒衣をまとって新月の眼前に垂れていた。何の用途か、部屋の天井には格子状に黒い鉄筋が張られていて、その一本にロープの片端が結ばれているのだった。死体は鉄の仮面を着けていた。それは美しい少女の顔をして、涼しげな微笑を湛えていた。
 新月は立ち竦み、いっとき呼吸さえ忘れたが、次第に落ち着きを取り戻していった。
 真夜中に呼びつけてまで見せたかったものはこれか。頭上の死体を見据えながら彼は思った。何と芝居がかった演出だろう。だが、面白いといえば面白い……。
 彼は笑みを作ろうと努めたが、小刻みに痙攣する唇からこぼれでたのは、かすれ声の短い呟きであった。
 ――七海……。
 無意識に発せられたその名が奇妙な時間差をもってわが耳に届いたとき、衝動的に泣き笑いのような感情が彼のなかで弾けた。
 七海……そうだ、あのころの自分は、姉のことをこうして呼び捨てにしていた……いまのいままで、そんなことさえ自分は忘れていた……。
 しばらくして、新月は弧を描くように死体の足もとを移動した。すると、薄暗い部屋の一隅から光の反射が鋭く片目を射た。それは薄暗がりの壁に立てかけられた等身大の鏡のいたずらであった。鏡面にはちょうど机の電気スタンドが映っていた。わずかに眉をしかめて、新月は窓ぎわの机に歩み寄った。
 スタンドの光に照らされて、卓上には奇妙な形をした或る物体が載っていた。或る物体……それが何を意味するものなのか、すぐにピンと来た。新月は口笛を吹くみたいに吐息をついた。脳裡にわだかまっていた疑問が、狭霧が晴れるがごとく霧散していく感覚を、密やかな興奮とともに彼は味わっていた。
 卓上にはもう一つ、新月に宛てた大判の封筒が置かれていた。手に取って注意深く封を切る。中身は二種類の書面であった。一通はごく短い手紙、もう一通はわりあい長い文書で、一頁目にはただ一文字、「軛【くびき】」とある。
 机の前に立ったまま、新月は短い手紙に素早く目を通した。眸にまぶしい純白の便箋を、彼はしばし食いいるように見ていたが、横転した肱掛椅子を本来の位置まで運んでくると、軽く手で払って腰を下ろした。そうして背後の高みから死者に見つめられながら、「軛」と題されたページをそっと捲った。



佐々木俊介(ささき・しゅんすけ)
1967年青森市生まれ。専修大学文学部国文科卒業。95年、『繭の夏』が第6回鮎川哲也賞に佳作入選し、デビュー。2004年、第2作『模像殺人事件』を上梓。
http://ssk921.blog9.fc2.com/
(2010年6月7日)


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