10
白石光が新月に宛てたメッセージには手描きの地図が添えられていた。藤江恭一郎の住まいへ至る道のりを最寄駅から示したものだが、新月が意外の念に打たれたのは、そこに記された駅名が吉祥寺であったことだ。これを灯台下暗しといわずして何といおう。消息不明とされていた藤江恭一郎は、あたかも追っ手の裏を掻くごとく、かつての工房と目と鼻の場所に潜伏していたことになる。
十二月一日の午後九時すぎ、新月は吉祥寺駅のホームに颯爽と降り立った。クリーム色の革ジャンにジーンズといういでたちで南口の階段を駆け下りた彼は、滑るように人ごみを抜けて井の頭公園に向かった。十二月といってもさほど寒さは感じなかった。月の明るい晩であった。
今夜、ついに藤江恭一郎との対面が叶う。工房を訪ねたあの秋晴れの日から二週間と経っていない。ここまでの進み具合は文句なしに上首尾といってよい。だが、軽快な足取りとは裏腹に、内に秘めた緊張感は一足進むごとに増していくようだった。
人世を捨てた鉄仮面の芸術家。能登七海殺害の容疑者。得体の知れない怪人物の懐に単身飛びこむ以上、けっして油断してはならない。この先に待ち受ける危険を甘く見ては駄目だ。
努めて警戒を募らせる一方で、新月はまだ見ぬ謎めいた相手に対し、遠い昔、悪夢のなかでまみえたあやかしと再会するような、奇妙な懐かしさを感じてもいた。美しい恐怖に彩られた猟奇の徒の妄想は、膨らみすぎるほどに膨らんだ末、いつしか憧れとも友情ともつかぬ親しみの念を育んでいたのだ。
古寂びた石段を下り、井の頭公園の闇間に踏みこんだ新月は、池の端を大回りして吉祥寺通りを目指した。足早に歩きながら彼は思いを巡らす。
この大事な一夜に、白石光は立ち会わないのだろうか。同席するなら道案内してくれてもよさそうなものだから、今夜は一対一の対面になると覚悟しておいたほうがいいだろう。そういえば、白石光は十一月いっぱいで勤めを辞め、海外遊行の旅に出るといっていた。どこまで本気か知らないが、もう日本には戻らないかもしれないとさえ。まるでわが身と引き換えに、消えた友人を現世に連れ戻したかのようだ。
それにしても、あの男はずいぶんあっさりと藤江恭一郎の居場所を突き止めたものだ。どうやって見つけたのだろう。新月が面会の要望を伝えてからお膳立てが調う今日までの展開は、いささか出来すぎているような気もする。やはり白石光は前々から藤江恭一郎の所在を知っていたのかもしれない……。
吉祥寺通りに出たところでいったん新月は立ち止まった。携帯電話の時刻表示は九時二十分であった。車のライトが忙しなく往き来する脇で地図を検めたのち、ふたたび彼は歩きだした。
公園を抜け、自然文化園の長い外壁をやり過ごす。土地鑑のある地域はとうに過ぎ、指示された道筋を黙々と辿るうち、自分がどのへんにいるのかさっぱりわからなくなった。地図はあれども手描きの略図、どこまで正確か甚だ心もとない。地名でいえばまだ御殿山のあたりか、それとも想像とはまるで違う方角に向かっているのか。ふと気がつくと新月は、己の靴音だけが侘しげに響く、深閑とした闇の懐をさまよっているのだった。
見回せば周囲は漆黒の雑木林であった。背後で見えない扉が鎖されたかのごとく、来た道を振り返ってもただただ墨のような闇である。まるで巧妙なトリックに嵌められた気分だ。先へ続くうねる細道には車ばかりか人っ子ひとり姿はなく、点々と連なる朧な街燈のほかいっさい明かりもなくなった。丈高な樹林は夜空をも道幅に截り取っていた。駅前で振り仰いだ月は、いまやどこにも見えなかった。
猟奇の徒を標榜する新月のこと、この程度で怖気づきはしないが、当てにしていた目印を見落とすのだけは避けねばならない。辿ってきた歩みが正しければ、この一本道の先に枝道があるはずなのだ。
ともあれ一つまた一つと街燈を頼りに、ギロギロと目を凝らしながら歩きつづけていると、やがて右手前方の樹々の隙間から、街燈とは異なる明かりがかろうじて認められた。と、じきに現れたのは待ち侘びていた枝道で、先ほど見えた明かりがその先にある。ほっと胸を撫で下ろす思いで勇んで進むうち、徐々に視界が展け、空には円い月が顔を出した。ようやく辿り着いた袋小路の奥にともっていたのは、人待ち顔の青白い門燈であった。
黒い雑木林の懐深く、このような場所が秘されていようとは、いったい誰に想像できただろう。
それは魔女の隠れ家とでも喩えたいような三角屋根の洋館であった。さほど大きな家ではない。平屋か二階建てか、シルエットからは判断しかねた。アラベスク模様をあしらった門扉の向こうに黒煙のごとく庭木が繁り、そのあいだを甃【いしだたみ】のアプローチが抜けていた。
門柱に表札は見当たらなかった。この期に及んで臆する気持ちが覘いたが、勇を鼓して新月はインターホンのボタンを押した。やや置いて応答があり、客人を差し招く素っ気ない言葉が鬱々と響いた。それはほんの束の間の出来事であったが、何かで口もとを塞いだようなくぐもった男の声を耳にした瞬間、初めて恐怖が好奇心を上回り、背筋に冷たい戦慄が走った。
あらゆるものが死に絶えたような静寂のなか、甃にかすかな靴音をたてて新月は前庭を奥へ向かった。高い常緑樹に挟まれたアプローチは、いったん突き当たって右に折れた。続いて、今度は左折したところで、前方に玄関ポーチが見えた。そのときだった。
ふいに背後に気配を感じた。振り返った途端、さしもの新月も引き絞られるように心臓が縮んだ。彼の後ろ、すぐ間近に、いつのまにか一人の男が立っている。庭木が一本あとを跟けてきたかと思うほど、とてつもなく背の高い男だ。
藤江恭一郎……とっさにそう思ったが、それにしては様子が妙だった。月明かりの下、男は襤褸のようなコートを着て、鍔の歪んだ帽子を目深にかぶっていた。帽子からはみ出しているのは汚らしい蓬髪、その隙間から覘いた顔にはたしかに仮面が装着されている。しかし、話に聞いただけとはいえ、どう見てもそれは鉄仮面とは思われない。いま新月の前にあるのは、白いキャンバスにやたらめったら絵の具を塗りたくったような、胸の悪くなるほど不快な仮面なのだ。混沌のなかに目鼻が見える。両目は極端に細く、口角を吊り上げた裂け目が猥雑な笑みを浮かべている。
そんな馬鹿な、と強いて打ち消したそばから、われ知らず新月はその名を声にしていた。
――影百合……!
異様な仮面は狂気の笑いを笑っていた。ふらつくように上体を揺らしながら、強烈な邪気を立ちのぼらせてじりじりとこちらに迫ってくる。新月は恐怖に総毛立った。目の前の怪人が影百合……あの沼田欣児だとしたら、彼の狂気は見せかけでない。
植栽に左右を塞がれた甃を新月は二歩三歩と後ずさった。と、いきなりそこで踵を返し、邸の玄関に向かって一気に駆けだした。
後方で仮面の男が叫ぶのが聞こえた。意外な大声で放たれたのは「藤江!」という一語であった。すると、その呼びかけに応じたかのように前方のドアが開き、ゆらりと現れたのはやはり長身の人物だ。暗がりのせいで明瞭ではないが、長い黒衣をまとい、死人のようなあの顔色は、たしかに仮面に相違ない。
老人めいた動作でゆっくりと近づいてくる黒衣の人物のもとへ、新月は迷うことなく駆け寄った。そうするより手がなかったし、どういうわけかこのとき、新月には黒衣の人物が味方であるように信じられたのだ。
藤江恭一郎……幻影のなかからついに立ち現れた恐ろしくも甘美なる友人。
手の届く距離で正対し、新月は高い位置にある仮面をまじまじとその目に捉えた。そうして、背後から迫る危険など頭から消し飛ぶほどの激しい衝撃を覚えたのだ。
悲劇の芸術家、最後の作品。
みずからが装着するために作り上げた特別な顔。
それは息を呑むほど写実的な仮面であった。艶々しい肌に浮かんだ優しくも凛とした表情が、えもいわれず美しい。表情だけではない。額から頭頂へかけての滑らかな流れ、左右に突き出た小さな耳。おそらくは後頭部の形状に至るまで、一分の隙もない造形が成し遂げられているであろうことが正面からでも想像できた。
そこにあるのは紛れもなく、新月のよく知る少女の頭部であった。
言葉にならない感情が新月のなかで逆巻き、荒れ狂った。彼は絶句し、震え、棒立ちになった。 十二月の月光に冴え冴えと蒼ざめた少女の顔が、可笑しなぐらい高いところで幻のように揺らいだとき、すぐ後ろで衣擦れの音がして、強烈な一撃が新月の後頭部を襲った。
11
気がつくと新月はベッドに横たわっていた。見慣れぬ天井が真上にある。自分の置かれた状況が呑みこめなかった。
薄暗がりでいっときぼんやりしていたが、ふいに本能的ともいうべき身の危険を感じ、ばね仕掛けのように起き上がった。その途端、項のあたりに激痛が走った。思わず頭に手をやると、包帯でぐるぐる巻きにされているのがわかった。
どうやらそこは病室のようだった。窓があり、白いカーテン越しに薄日が射している。壁ぎわのハンガーにクリーム色の革ジャンが掛かっており、ベッドの脇のワゴンには、彼の所持品がビニール袋に入れて置かれていた。財布とハンカチ、携帯電話。携帯に手を伸ばし、日時を確かめると、二日の午前九時すぎであった。
もう一度、注意深く枕に頭を乗せ、白い天井を眺めつつ記憶を手繰る。吉祥寺駅からの道のり、雑木林の奥の青白い門燈、植栽の庭、月明かり、現れた二つの仮面……ちゃんと憶えている。夢以上に夢らしい一夜だったが、けっして夢ではない。ただ、いかなる次第でここにいるのかがさっぱりわからない。
ゆうべ……そうだ、自分はあの暗い庭先で仮面の男に襲われたのだ。影百合……振り向くと影百合が真後ろに立っていた。邪悪な仮面。雑多な色彩を撒き散らした、反吐の出そうな仮面だった。
あのとき自分は、相手の総身から放たれるただならぬ敵意を感じ取ったのだ。逃げ道はなく、腕力ではなおさら分が悪かった。そこで邸のなかにいるであろう藤江恭一郎に助けを求めるべく駆けだした。とっさのこととはいえ、われながら奇妙な心理だ。姉を殺したかもしれない男。沼田欣児同様、狂気に蝕まれている危険性のある男。それでも自分は彼のもとへ走った。その結果……どうなったろう?
現れた黒衣の鉄仮面は、幻のように、夢魔のように、そこにいた。まさかあのような状況で対面することになろうとは思ってもみなかったが、とにかくそれは待ち焦がれていた瞬間だった。しかし、いざ面と向かって驚いた。動揺した。と同時に、すっかり自分はあの仮面に魅入られてしまい、時が止まったみたいに陶然となった。そこをいきなり背後からガンとやられて、それきり何が何やらわからなくなった……。
自分を襲った男、あれは本当に沼田欣児なのだろうか? 現時点ではそうとしか思えない。どうして奴があんなところにいたのだろう。やはり退院後の藤江恭一郎と出所後の沼田欣児はつながっていたのか。しかしそうなると、ゆうべの対面に一役買った白石光の立場をどう解釈すればよいのか。彼はこうなることを知っていたのだろうか。
なぜ自分は襲われたのか? むろん彼らにとって邪魔な存在だったからに違いない。理由はおおよそ察しがつく。ところが、どういうわけか自分は消されずに済んだ。なぜだろう。とどめを刺すのは容易だったはずだ。まずは警告ということか。自分を生かして帰すのがどんな結果を生ぜしめるか、わからぬはずはないのに。
それにつけても印象深いのは鉄仮面だ。間違いなくあれは亡き姉の顔だった。事故のあと藤江恭一郎が工房にこもって作っていたのは、かつて彼の恋人であった少女の顔だったのだ。
ゆうべ、暗がりの庭で、月光に照らされた仮面を目の当たりにしたときの衝撃、過去に味わった憶えのない感情のざわめき……。
あのときの感覚が、見知らぬ病室のベッドの上で勃然として甦った。昨夜の体験を思いだせば思いだすほど、こんなところで寝ている場合ではないという焦躁が湧いてきた。
仰臥したまま、新月は気を鎮めるようにゆっくりと息を吐いた。部屋は適度に暖かく、眠くはないがその気になればすぐにでも眠れそうだった。いまは焦ってもしかたがない。
それにしても、いつまでこうして放っておかれるのだろう。
ワゴンの財布を取って、中身を検めてみた。心配もしていなかったが、紛失したものはなさそうだった。
無造作に財布を戻し、目をつむる。静かだった。物音ひとつ聞こえない。ここは本当に病院だろうか? 早くことの次第をはっきりさせたい。だが、何にせよ不安な気持ちは薄らいでいた。あれこれ考えるのもだんだん億劫になってきた。知らぬ間にまどろみかけていたせいかもしれない。
そうしてどのぐらい時間が経ったか、ふいに入口のドアが開く音がして、硬い足音が近づいてくるのがわかった。弛緩した頭で看護師かなと思ったところへ、
――おい。
やけに無愛想に呼びかけられて目を向けると、意外や意外、黒縁眼鏡の兄が渋い顔でこちらを見下ろしていた。
――ここは……兄さんの病院ですか。
唖然として新月は訊ねたが、怪我の影響もあるのか、思いのほか呑気な声が出た。
――馬鹿をいえ。連絡を受けてわざわざ様子を見に来たんだ。急いで仕事に戻らなくちゃならない。
いわれてみればしっかりコートを着こんでいる。突然の訪問者を新月は腑抜けたように見つめた。
兄の大地は新月より七つ上、亡き姉の四つ上、とある大学病院で外科を受け持っている。丸顔の童顔はいかにも兄弟らしく似通っているが、歳の差以上に落ち着き払った堅実な印象は、二人が別の世界の住人であることを物語っているようにも見えた。
――何があった。
ベッドの脇に仁王立ちしたまま大地はいった。
――それが、ぼくにもよくわからないのです。どうしてここにいるのか……。
――お前、井の頭公園のベンチで引っくり返っていたらしいぞ。
――公園のベンチですって?
虚ろな目を瞬間的に見開いて新月は問い返した。
――今朝がた、たまたま通りかかった人が救急車を呼んでくれたそうだ。一見酔い潰れた学生のようだが、よく見ると頭に怪我をしているというのでね。ゆうべ、何があったんだ。誰かに絡まれでもしたのか。
――憶えてません。おおかた酔っ払って勝手にこけたんでしょう。
――吉祥寺で飲んだのか?
難詰するような兄の口調は毎度のことだった。新月はためらった。今回の一連の出来事は兄とも無関係ではない。だが、いまはまだ事情を説明する気にはなれなかった。いずれ話すときが来るかもしれない。新月自身が答えを見つけだしたあと……辿り着いたその答え如何では。
それにしても病院へ担ぎこまれた顛末は不可解であった。漆黒の雑木林の奥、藤江恭一郎の邸の庭で殴られた自分が、一夜明けると井の頭公園のベンチに転がっていたとは。
――兄さん。
新月はぽつりといった。
――沼田欣児という男を憶えていますか。
――沼田……?
つかのま、大地は虚を衝かれたような表情を見せた。探るように包帯姿の弟を見つめるうち、その顔は徐々に険を帯びていった。
――それはゆうべのことと関係しているのか?
――いえ。
――お前、まさか……。
といいかけて、そこで大地はふっと調子を変えて続けた。
――なあ新月、いったいお前はいつまで遊んで暮らすつもりだ?
――遊んでるんじゃありません。生きてるんです。
――わけのわからないことをいうんじゃない。いいか、俺は近い将来能登外科医院を再建するつもりでいる。そのときはお前、事務でもしろ。それが親父とお袋へのいちばんの供養だ。
――兄さん、あいにくですが、ぼくはもう一度探偵業をやろうと思ってるんです。
――馬鹿め。前に逃げだしたじゃないか。お前みたいな根性なしに務まるものか。どこも雇っちゃくれないさ。
――だから、今度は一人でやるんですよ。
――一人でだ? 勝手にしろ。
あきらめ顔で吐き捨てて、大地は腕時計に目をやった。
――重傷ならうちの病院へ移すつもりだったが、たいしたことはなさそうだな。
――ええ、平気です。
――何かあったら電話しろ。
そういい残して立ち去りかけた兄の背に、新月は声をかけた。まったく無意識のうちに……自分でも説明のつかない衝動がその言葉を吐かせた。
――今年で十年になります。
足を止めた大地が怪訝そうに振り返った。
――十年……何が十年。
――いえ、何でもありません。
新月は微笑んで、もう兄のほうは見ずに呟いた。
――ああ、とにかくぼくは不思議なんだ。もうすこし考えてみなくちゃいけない……。