2

 煉瓦色のタイルに密やかな靴音をたてて入ってきたその客は、前もって決められていたふうにまっすぐカウンターの奥に向かった。暗い灯影のせいで、男の風体は判然としなかった。彼に供するため、老マスターは求められるより先に棚からボトルを取りだした。能登新月はいつものようにカウンターの中央に陣取っていたが、そのとき、寡黙なマスターの視線が、さりげなく、だが、明らかに目配せめいてこちらを捉えるのに気づいた。新月はみずからの煙草の煙に顔をしかめながら、マスターの手に抱えられたボトルのネームプレートをそっと偸み見た……。
 是璃寓はこの夜も空いていた。
 もったいぶって煙草をくゆらせながら、頃合いを見計らって新月はグラス片手にスツールを下りると、猫のように忍びやかにカウンターの奥まで移動して、新たな客の右隣に音もなく着席した。
 ――こんばんは。
 突然声をかけられた男は、怪訝な面持ちで間近からこちらを見据えた。スーツのシルエットやビジネスバッグの趣味から推して、歳のころは三十前後といったところ、だが、垂れ落ちた上瞼や、艶のない不健康そうな肌、何より全身から滲み出る倦怠感が老けた印象を生みだしていた。
 ――どちらさん……。
 戸惑った様子でぼそりとつぶやいたところへ、新月は持ち前の人懐っこさで微笑みかけると、小さく頭を下げていった。
 ――白石さんですね。以前上司がここで懇意にさせていただいたそうです。
 ――上司? 誰のことだろう。
 その男、白石光は、ますます訝しげな顔になって、記憶を辿るようにしばし視線を虚空に泳がせた。
 ――飲みながらほかの客と話すなんて、めったに俺はしないんだがね。その人、なんていう人……。
 ――川上といいます。白石さんから名刺をいただいたそうですよ。たしか出版社にお勤めとか。
 ――ああそう……でも、悪いけど憶えてないな。それに、仕事の話なら遠慮させてくれ。
 早くも興味を失った様子で、それがいつもの流儀なのか、手酌でグラスにバーボンを注ぐとストレートで飲みだした。
 ――わかります。酒の席まで仕事を持ちこみたくはないですよね。
 ――いや、そういうわけじゃないが、ここに来るのは一人静かに飲みたいときだから。
 馴れ馴れしい若者を暗に窘めるように男はいったが、すぐに、
 ――どっちにしろ、近々退職するのでね。
 自発的にそう補足したところを見ると、意地でも会話を拒むつもりはないらしい。
 ――退職というと、別のお仕事を?
 ――いや、しばらくは休養……気の向くままに海外を回ってくるつもりだ。もう日本には戻ってこないかもしれない。
 相手が思いきったことを口にしたので、新月もやや面喰らってポカンとした。
 ――冗談だと思ってるな。本当だぜ。ところで君、何の用……。
 ええ、と新月は軽くいずまいを正すと、それでも朗らかな調子は崩さず本題に入った。
 ――白石さん、じつはぜひとも伺いたいことがありまして、ここんところずっと、今夜こそは今夜こそはとお待ち申し上げていたんですよ。
 ――待っていた? 俺を?
 いくぶん警戒するような目色になって、白石光はチラリとカウンター内のマスターを窺った。
 ――で、いったい何の話だい?
 ――それが、妙なことをいう奴だと思われるでしょうが、鉄仮面の男についてなんです。
 ――鉄仮面?
 鸚鵡返しと同時に、見えないバリアを張ったように相手の態度が硬化するのを、新月は肌で感じとった。
 ――場所は定かでないのですが、この東京のどこかに、鉄仮面を着けたまま暮らしている不思議な男がいると。どうやらその人物は芸術家らしいのですがね。
 ――それも川上さんとやらから聞いたのかい? 俺が話したって? じゃあ、そうとう前の話だな。憶えてないのも無理はない。
 ――そういう人物がいることはたしかなんですね?
 たわいない世間話といった調子を出して訊ねると、白石光はためらいつつも首肯した。
 ――それは本当だ。奴とは高校大学と同級だったんだから。
 ――ああ、白石さんのお友達のことだったんですね。
 ――そう、しかし、あいつのことならなおさらしゃべりたくないな。
 ぶっきらぼうに白石光はいった。
 ――しゃべりたくないというのは?
 ――奴は事故で顔に大怪我を負ったのさ。つまり、仮面は傷痕を隠すため……そういう不幸な境遇なんだ。
 新月はラム酒のロックを注文したあと、さりげなく持ちかけてみた。
 ――その方とお会いすることはできませんかね。
 ――会う? 君が?
 心外なことを聞いたというふうに、白石光の声は棘を含んだ。影を宿した顔つきが見る間に険しくなった。
 ――何が目的でそんなことをいうんだ? 君にその話をした上司は、いまでもここに来るのかい?
 ――ああ、上司といっても先に勤めていた職場の先輩なんです。そういえば見かけませんね。おおかた引っ越しでもして河岸を変えたんでしょう。
 ――なあ、君。
 と、諭すような口調で白石光はいった。
 ――もしも君がゴシップ記者か何かなら、頼むからそっとしておいてやってくれないか。奴は物笑いの種にするような存在じゃない。
 ――記者なんて、そんな気の利いたもんじゃありませんよ。
 ――ゴシップ記者が気の利いた存在かね。まさか警察関係者というわけでもなかろう?
 ――警察ですって? どこからそんな発想が出てくるんです。じつはぼく、目下無職なんです。
 ――ほう、そりゃ大変だ。生計はどうしてるんだい?
 ――幸い、亡くなった両親が財産を遺してくれましてね。
 ――なんだい、遊民か。いい身分だな。ご両親が亡くなったって、君、兄弟は?
 ――七つ上の兄がいます。彼はぼくと違って真面目一本の実際家でしてね、いまは大学病院で外科医をしています。腕前のほどは定かじゃありませんが、万が一、白石さんに何かあった際はご紹介しますよ。いっさい面白味のない堅物ですが。
 ――兄貴は医者、一方、弟は道楽でゴシップ収集か。呑気なものだな。
 ――まあ、性格ですね。しかし白石さん、ぼくはその仮面の人物のことをおおっぴらに喧伝する気はないんです。おおっぴらどころか、こっそり誰かに話すつもりもない。それは信じてもらいたい。
 どうやら探偵社勤めの経歴は伏せておいたほうがよさそうだと新月は考えた。おそらく先輩社員の川上も職業は明かさなかったに違いない。
 ――で、その人物が芸術家というのも本当なんですね?
 ――そう。鉄を素材に独創的な作品を生みだしていた。前途有望な男だったが、工房で作業している最中に爆発事故を起こしてね。
 ――現在はどちらに?
 ――さあね。
 白石光はうるさそうに眉をひそめた。
 ――昔馴染みとはいえ、ここ一、二年の消息は知らないんだよ。あいつは岩手の生まれなんだ。中学のときに東京に越してきたそうだが、察するに郷里にでも帰ったんじゃないだろうか。向こうには親類縁者もいるだろうし。
 ――では、いまは活動していらっしゃらないということでしょうか。
 ――ああ。残念ながら事故を機に芸術への情熱を失ってしまったらしい。一念発起して作品づくりを再開してくれたらいいんだがね。一部では評価が高まりつつあったんだから、きっと歓迎されるだろう。君は知らないだろうが、藤江恭一郎という男だ。
 ――えっ。
 その名を聞いた瞬間、思わず新月は一声発したまま絶句した。
 ――知ってるのかい?
 明らかに様子の急変した隣客に、今度は白石光のほうが興味を惹かれたふうに身を乗りだした。
 事実、新月は衝撃を受けていた。怪しく波立つ胸を鎮めるため、彼は煙草に火をつけ、それから取ってつけたように相手のグラスに酒を注いだが、その手はわずかながら震えていた。
 ――白石さん、その方とは高校大学と一緒だったとおっしゃいましたね。大学というのは砧美大のことでしょう。
 白石光のくすんだ顔に驚きが広がった。
 ――そのとおりだ。
 ――お二人の在学中、藤江恭一郎さんの身近に、或る厄介な事件が発生しましたね。
 ――君は……。
 唖然としていいかけるのを遮って、もはや相手には目もやらず新月は重ねた。
 ――黒百合番太郎。
 その奇妙な名前が出た途端、白石光は大きく眉を吊り上げて、招かれざる客の横顔を睨み据えた。
 ――いったい、君は何者なんだ?
 ゆっくりと紫煙を吐いたのち、新月はふたたび白石光を見やり、すこし照れたように微笑んで、ぎこちなく答えた。
 ――申し遅れました。ぼく、能登新月といいます。十年前に死んだ能登七海の弟です。仮面……藤江恭一郎さんが着用していたという鉄仮面……もしやそれは、かつての事件と関わりのあるものではないですか?
 この晩、二人は店の階段を地上へ上がったところで別れた。白石光は新月と同じぐらい小柄で、ひどく窶【やつ】れていた。あの藤江恭一郎と同学年なら、姉の七海とは二つ違いで現在二十八、九のはずだが、くたびれた後ろ姿はどうしても中年のようにしか見えなかった。
 饐【す】え臭い路地裏の闇に佇立して、新月は一人つぶやいてみる。
 ――運命に導かれるままに……。
 人並みはずれた好奇心に衝き動かされた傍迷惑な素人探偵、だが、初っ端から事情は変わってしまった。


  3

 十一月十九日、気持ちのいい秋晴れの午後だった。
 能登新月は、渋谷から京王井の頭線に乗って吉祥寺まで出かけた。
 それは、是璃寓で白石光と最初の接触を持った三日後のことであった。
 あの晩、新月が己の素性を明かして以降、白石光の口はすっかり重くなった。新月自身もまた、それ以上話を掘り下げる気にはならなかった。互いの出方を窺うような気まずい空気が、二人の距離を遠ざけてしまった。
 吉祥寺駅を出た新月は、手描きの地図を頼りに五日市街道に向かった。ジーンズにTシャツ、その上にブルゾンを羽織ってきたが、歩くほどに背中が汗ばんできた。
 鉄の芸術家藤江恭一郎がまったくの無名氏でなかったのは幸いだったといえる。インターネットで彼の情報を探ったところ、美術関係のデータベースに簡単なプロフィールが載っていた。昭和五十五年四月十五日、岩手生まれ。砧美術大学で工芸を学び、武蔵野市吉祥寺南町に工房を構える……。
 ただし、藤江恭一郎が奇禍に遭って以降のことは不明だった。現在の工房の様子も前もって把握することはできなかった。
 道すがら、新月は地元の人々に行き当たりばったりに声をかけてみた。すると驚いたことには、そのうちの二人が藤江恭一郎の存在を知っていた。
 非常な長身に薄気味の悪い黒衣をまとった鉄仮面の芸術家。
 たしかにそんな特異な姿では印象に残って当然だ。しかし、仮面はともかくとして、黒衣というのはどういうわけだろう。藤江恭一郎は事故のショックで気が狂れてしまったのか。それとも……と新月は、十年前の夏に起きた事件についてうっそりと思いを巡らす。
 藤江恭一郎がみずから仮面を着けだしたのは、爆発事故による負傷が原因とのことだから、彼は事故を起こしたのち、傷痕【しょうこん】を覆う仮面姿でこのあたりを往き来していたのだろう。だが、藤江(というより、鉄仮面の男)のことを憶えていた付近の住民も、白石光同様、ここ一、二年はその姿を見かけていないらしかった。工房を知っているという一人が、とっくに閉鎖されているはずと前置きしつつ、場所を教えてくれた。かつて板金工場だった建物を借り受けて作業場にしていたという。やや手間取ったものの、首尾よくたどり着くことができた。
 そこはみすぼらしい廃工場だった。藤江恭一郎の工房であったことを示す目印はどこにもなく、かろうじて名称が読みとれる板金工場の古びた看板が、いまなお侘しげに掲げられていた。二階建てで、階下の前面を塗装の剥げ落ちたシャッターが塞ぎ、鍵が掛かっていた。だが、新月にとってそんなものは鍵とも呼べない代物だった。しゃがみこみ、落ちていた針金の切れ端でたやすく開錠すると、彼は短く口笛を吹いた。
 耳障りな音をたてて新月はシャッターを押し上げた。暗い土間に日射しが入りこんだが、それでも視界は悪かった。奥のほうに一箇所、窓があり、そこだけ白い光が射していた。その手前に、階上へ続く小さな階段のシルエットが見える。壁ぎわの柱に照明のスイッチらしきものを見つけ、期待せずに押してみたところ、高い天井の真ん中で水銀燈が一つ、時間をかけてゆっくりと陰気な明るさを帯びていった。いまも誰かが電気代を払っているのだ。
 迷った末、新月はいったん内側からシャッターを閉じた。怖いぐらい密やかな密室に、一人きり彼は取りこまれた。外はいい陽気だが、汗ばんだ体に工場内は寒かった。新月は背中を丸めて身震いしながら、人けのない博物館でも見学するような足取りで探索を始めた。
 看板はなくとも、ここが鍛鉄工房であった名残はちゃんと残されていた。片隅にお手製らしい四角い炉があって、かつては赤く燃え盛っていたであろうコークスの残りかすが散らばっていた。疵だらけの木製テーブルには万力【バイス】が固定されており、金床【アンビル】とワイヤーブラシ、研削砥石のディスクが二、三枚、それから円椅子が一脚、裏返しに載っている。金物はどれもこれも錆びついていた。テーブルの足もとには、灰皿代わりのペール缶が置いてあり、大量の吸殻が溜めこまれたままになっていた。壁の一隅にフックが取りつけられ、テープで継ぎ接ぎしたコード類と、溶接面が掛けてある。また別の一隅には、鋼材の束のほか、塗料の缶と刷毛、ノズル付きのボトル、バケツ、それから汚れきった革手袋とエプロンが投げつけたように地べたに落ちていた。
 みずからの素顔を隠すための鉄仮面も、間違いなくここで作られたのだろう。
 新月は手摺のついた鉄の階段をのぼってみた。二階は和室二間にキッチンという居住空間で、いまは荷物ひとつなくがらんとしていた。ふたたび階下へ引き返し、テーブルの円椅子を下ろして腰かけると、煙草を一本、かつてないほどたっぷり時間をかけて味わった。水銀燈の霞がかった明かりに煙が溶けていく。椅子の冷たさも手伝って、ますます体が冷えてきた。足もとで煙草の火をもみ消したとき、屈んだ拍子に、テーブル下の棚板に文庫本のようなものが置いてあるのに気がついた。取りだしてみると、それは本ではなく、伏せた鉄製の写真立てであった。持ち上げた途端、砕けたガラス片が散らばった。まるで金槌か何かで故意に叩き割ったかのようだ。幸い、なかの写真は無事であった。
 新月はテーブルの上で写真を見つめた。
 おそらく劇場の入口であろう、開放されたガラス戸を背に、夜の路上に集った十数名の若者。彼らの脇には立看板があり、ポスターが貼ってある。大書された劇団名と公演タイトルだけ、かろうじて判読できた。
 黒耀座第九回公演「孤独」。
 写真は客出しあとの記念撮影と思われた。
 観察の末、新月は、前後三列に並んだ顔ぶれのなかから二名の人物を特定するに至った。
 二列目の右端、中腰で写っているのは、見紛うはずもない、新月の姉七海であった。何となく服装にも憶えがある。しかし、彼女が舞台に出演したり公演を手伝ったりという話は聞いたことがないから、これは観劇に行った際、劇団員の知人として集合写真に加わったものだろう。いまや年下になった姉の姿を、こんなところで目にするとは思いもしなかった。
 さらに、前列のほぼ中央に陣取った、頬のこけた髭面の男のことも、新月は記憶のうちに留めていた。しゃがんでいても、図抜けた背の高さがよくわかる。黒耀座の看板役者、沼田欣児……のちに能登家と浅からぬ因縁を持つことになるこの男は、しかし写真のなかでは、花束を胸に満足げに破顔していた。
 新月が見知っている顔はこの二名だけだったが、いま一人、彼の視線を釘づけにした人物があった。
 それは姉の七海とは反対側、向かって左端の後列に控えた少年であった。長身痩躯、沼田欣児と違ってこちらは直立しているだけに、いっそう背の高さが際立っていた。彫りの深い男らしい容貌を、肩まで伸びた長髪が和らげている。もの静かな眸だ。穏やかな表情をしているが、シャッターを切るタイミングがそうさせたのか、笑ってはいない。だが、何より注目すべきはその服装であった。むろん舞台衣裳であろう、彼は丈の長い真っ黒な着衣に身を包み、オートバイのヘルメットでも抱えるように、右手に不気味な鈍色の仮面を携えていた。いくぶん列からはみだしているため、黒衣が足もとまですっかり覆っていることも確認できた。
 姿恰好、身長から推しても、その少年が藤江恭一郎であると、新月には迷いなく信じられた。



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