異常者や生まれながらの殺人者を例の極北として、ウールリッチに明らかなのは、犯罪に関わる人間は、一般の人々とは別人で、犯罪はそうした普通の人々とは無関係なところで起きるという認識です。これは、ひとつのコードないしはタテマエかもしれませんが、それを愚直に守るウールリッチは、そのコードないしはタテマエを信奉しているか、それに洗脳されているのでしょう。マリファナでも喫って正気を失わないかぎり、普通の人は犯罪を犯すことはない。そういう認識です。のみならず、普通の人は、それに関わることすら考えづらいと思っているフシもありますが、被害者に対してそこまで寛容でないとは、言わないでおきましょう。
 そういう認識がプラスの方向に働いたのが「わたしが死んだ夜」という佳作です。妻が自分の殺害を依頼しているところを偶然立ち聞きした主人公が、逆にその男を殺します。善良な主人公は、そのときを境に犯罪者の道を歩み始めます。自分を殺そうとした妻のアイデアにのって、死体を自分に見せかけ、保険金の詐取を図るのです。そして、保険金がおりるまで身を隠すのですが、その間に次々と危機が訪れて……という話。この小説の佳作たる所以は、主人公が犯罪者から善良な市民に戻ってしまうところにあり、しかも、結局のところ、その境目がなんだったのか、分からないままなところなのです。したがって、ウールリッチの中には、善人と犯罪者の二分法は生きていたのかもしれません(結末の主人公の述懐は二分法を否定しているとは言えませんし、こんなつけ足しのような台詞を加えること自体が古めかしいでしょう)が、結果的にはユニークな佳作となりました。
 さて、犯罪が普通の市民にまったくの無関係なら、安全ではありますが、危険に巻き込まれる話は、単なる絵空事になってしまいます。ファンタジーを書く気のないミステリ作家は、普通の人々の手に汗を握らせるべく、そこで頭を悩ませることになります。ウールリッチが見つけたひとつの方法は、詳細を不明にしたまま犯罪を描くことでした。
 たとえば、「借り」「負債」)といった作品にも、その発想は部分的に出てきています。かつて娘の生命を救ってくれた男が、犯罪者となって主人公の刑事の前に現われ、娘を助けた借りを返せと迫る。その男の犯した殺人は曖昧なままです。もっとも、枝葉の部分と言ってしまえばそれまでですし、そこを省略するために用いた手法が古びている(というより、そんな小細工なしで、不明なままの方がもっといいのに)せいもあって、完全には生きていません。しかし、少なくともふたつ見るべき作品があります。
「形見」「遺贈」)は、自動車で逃避行中の男女が別れるところから始まります。厳密には、女は知らずに連れてこられたらしいが、いまは知ってしまっている。知ってしまったがゆえに、女は去って、男はひとり車を走らせる。ところが、ふたり組の男から強引に停車させられ、脅迫まがいのやり方で同乗されてしまいます。このふたり組は、通俗的な意味での危険な犯罪者で、車の男を殺そうとするだろうと、読者は考えます。事態は淡々と進行し、ふたり組は男を殺して自動車と身分証明書などの書類を奪う。結末に到るまで意外なことはほとんど起こらないまま、小説は終ります。読後、奇妙な感じに囚われるのは、ふたり組に殺された男が、そもそも逃げる原因となった犯罪が、説明されないままだからです。その感覚は素晴らしい。確かに、オチに向けての伏線がくどいために、いくらなんでも、あからさますぎるとか、あげつらうところはあるでしょう。しかし、だからと言って、冒頭の男女の別れの場面をなくすのは、悪手中の悪手です。これをなくして、結末の意外性を際立たせようなどと考えるのは、筋悪の極みです。この男女の別れが指し示すところに向かって進んでいくのが、この小説の要なのですから。
 もうひとつは戦後の作品の「選ばれた数字」です。あるホテルの一室から、一組の男女がふたりの男たちによって拉致される。おいおい分かってきますが、舞台は1929年のニューヨーク。拉致した側のふたりと拉致されたカップルには面識がないようです。どうも、カップルは善良な人間で、こんな目にあう理由が分からないらしい。けれど4人を乗せた車は、ニューヨークを半分以上縦断し、州外に出てしまう。冒頭こそ、ウールリッチふうのムーディな調子が翻訳からもうかがわれますが、拉致に及んでからは端正で切り詰めた描写で話が進みます。そして、ふたりの男がカップルを殺すまでが淡々と描かれる。ノワールと見まがうばかりの、こんな短編を書いていたのかと、今回この作品を初めて読んだ私は驚きました。惜しむらくは、最後のパラグラフが不要に見えることですが、しかし、そこを補ってあまりある不気味さに満ちた一編です。ここでも、ふたり組がカップルを殺す理由は明確にされていません。

「形見」にも「選ばれた数字」にも、謎やトリックや意外性は存在しません。「形見」のオチは意外ではないし、「選ばれた数字」のラストは不要でさえありました。しかし、読者は片時も目を離すことができないまま、ラストまで吸い寄せられていくでしょう。ウールリッチに必要だったのは、読者をラストまで引っ張っていく要素を、アイデアとして思いつくことではなく、読者がラストまで引っ張られるように、小説を仕組むことであったはずです。にもかかわらず、ウールリッチはアイデアを核に小説を書こうとした気配が濃厚です。もっとも、これは誰でも陥る罠ですが。
 しかし、ウールリッチ自身、なんのタネもシカケもないまま、ほぼ完璧に読者を結末まで引っ張っていく、素晴らしい短編を書いているのです。それが1937年の作品、稲葉明雄が精選作品集を出したとき表題作とした「さらば、ニューヨーク」です。
 語り手でもあるヒロインが自宅に戻ると、ガスの匂いがするところから、話は始まります。失業し金を貸してもらうあてもない夫のレイフが、自殺を企てたのです。幸い助けることができましたが、すでに彼女の結婚指輪さえ食料に変わっていました。万策尽きているのです。ところが、夫は突然金を借りられるあてを思い出したと言い出します。彼女は夫を放り出した会社の社長のことだと疑い、止めようとしますが、夫はむしろそう言われて初めて社長のことに気づいたようでした。彼は外出し、明け方近く大金を手に戻ります。翌朝、彼女は新聞で社長が強盗に殺されたこと、被害額が、夫の手にしていた金額と一致することを知るのです。新聞を置き、背中をまるめた夫の後ろ姿を見た彼女は声をかけます。「あたしたち、ここを出たほうがいいんじゃない?」
 これが「さらば、ニューヨーク」の冒頭部分ですが、実は、これ以上説明することはなにもないのです。あとは、題名をもう一度思い出してもらえれば。ジョー・ゴアズがMWA賞の最優秀短編賞を得た「さらば故郷」が最初に邦訳されたとき、各務三郎が「こうしたタネもシカケもないクライム・ストーリイが短篇賞に選ばれることは、かつてはなかったことです」とリードに書きましたが、先立つこと30年以上の「さらば、ニューヨーク」も、同じくタネもシカケもないクライム・ストーリイでしょう。展開のスピード感をそのまま持続するかのような、しかし、孤独と不安をこの上なく感じさせる結末まで、淀みなく小さな事件が連鎖していく。しかし、その段取りのこまやかなこと、緊張感がゆるむことがありません。将棋には、必然手が続くという表現がありますが、良い短編の展開には似た感覚を覚えることがあります。
 そもそも動機は失職と窮乏による金銭目的なのですが、そこに到る段取りの丁寧さを見てください。自殺を図ったところへ帰ってきて助けてくれた妻は、結婚指輪を売ってふたり分の食料を抱えていたのです。あるかどうかも分からないツテをあると言った瞬間、妻の口からは思いもよらなかったツテの名が飛び出す。考えてみればその相手は、金もあれば彼に対する道義的責任もあるから、金くらい貸すかもしれない(そんなはずはないのに!)。妻は妻で予感したかのように「まちがったことだけはしないでね」と口にする。これでも少々はしょったのですが、こうしたディテイルが順に積み重なっていくことで、人は初めて犯罪に走りうる。そのとき、人は正常でも異常でもありうる。常習者でも非常習者でもありうる。
 そして、この小説の眼目は、妻はついに夫に犯行を確認しないことでしょう。だから、ナメた読者なら、最後まで、実はやっていなかったというオチになることを恐れるかもしれません(ウールリッチはそういうことも平気でやりますし)。半可通な読者なら、そうしたオチがないことに、不平を言うかもしれませんね。しかし、確認の言葉すら言い出せない地平に立って、なお、ふたりは信じあっています。少なくとも、ニューヨークを発つまでは。前回指摘した、ウールリッチの他の作品にしばしば登場するカップルとは、そこが決定的に異なります。これをアイデアと呼ぶなら呼んでもいいでしょう。それでパターンに分類したければ、どうぞ、おやりなさい。しかし、アイデアとパターンを生かすには、ここにある小説の技倆が必要なことも忘れずに。
 こんなに素晴らしい作品を書きながら、ウールリッチは、それを契機に変化することはなかったようです。門野集は「夜はあばく」「さらば、ニューヨーク」だけが、一般の文芸誌掲載だったことを指摘して、「作者の気合いがひしひしと伝わってくる」と書いていますが、私には「夜はあばく」は凡庸な作品にしか見えません。もっとも、精神病の研究と知識の普及は、20世紀にかなり進歩した部分があるので、古びやすい内容だとは言えます。しかし、それを割り引いても、「さらば、ニューヨーク」の素晴らしさには、到底及びません。
 門野集の指摘で大切なのは、両作品が文芸誌に向けて書かれたという点です。ウールリッチの構え方が異なったのは、おそらく間違いないでしょう。それをストレイトノヴェルに対するコンプレックスと見るのも、間違いではないかもしれません。モームが「創作衝動」で諷刺した「探偵小説を芸術の高みに引上げる」という発想は、そうしたコンプレックスの裏返しの形にすぎないでしょう。しかし、文芸誌に書く、つまり、目の肥えた読者を意識するという、ただそれだけの心構えひとつで、ミステリの短編は飛躍的に進歩し洗練しうる。ストレイトノヴェルで名を成すことのなかった不遇な作家が、「さらば、ニューヨーク」という短編で後世に示したのは、この一事ではなかったか? ウールリッチ=アイリッシュでひとつとなれば、私は躊躇せずに「さらば、ニューヨーク」を採ります。


小森収(こもり・おさむ)
1958年福岡県生まれ。大阪大学人間科学部卒業。編集者、評論家、小説家。著書に 『はじめて話すけど…』 『終の棲家は海に臨んで』『小劇場が燃えていた』、編書に『ミステリよりおもしろいベスト・ミステリ論18』 『都筑道夫 ポケミス全解説』等がある。


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