2

 大道寺家は高台にある広壮な邸で、どことなく淋しげな気配を湛え、冷え冷えとしていた。全体的に明るさに乏しいのは仮面のせいだろうか。どこを取っても私には憶えがなかった。
 美紗の部屋は二階にあった。掃除が行き届き、モデルルームのように整った状態で、客人を迎えるみたいに私を待っていた。真っ白な壁にフローリングの床。水色の羽根布団に覆われたベッド、机、本棚。入口の正面に出窓があり、小さなサボテンの鉢がちょこんと二つ並んでいる。清々しいが個性の感じられない部屋だ。それでも卓上の小物や、カーテンのデザインや、ベッドの枕もとに置かれたぬいぐるみなどはいかにも女の子らしい。
 かつてこの部屋で、当たり前のようにくつろぎ、眠り、時には涙したであろう私。だが、それは本当にこの私だったのだろうか?
 壁に立てかけられた姿身で、事故以来、初めて仮面を着けた自分を目にすることになった。こちらのしぐさを忠実に真似る、その異様な人影が私自身だとは、どうしても受けいれられなかった。恐ろしくもあり、滑稽でもあり、やがて悲しみが津波のように押し寄せてきた。
 静養とリハビリの日々が始まり、おぼつかない足取りながら、徐々に歩けるようになった。しかし、階下へ降りるのは困難だったし、ましてや戸外に出るなど当分は望むべくもなかった。毎日のように出窓から外を眺めた。幸い誰かに見られる立地ではない。眼下には広々とした中庭。高い塀と、さらに高い庭木が、芝と花壇の庭を縁取っていた。
 街並みを越えて、はるか遠くに奇妙な塔が見える。尖塔ではない。上から下までほぼ同じ幅で、頼りないぐらい細長いのだ。煙突のようでもある。周辺に高い建物はなく、その塔だけがぽつんと空に突きだしている。あれはいったい何だろうと、ずっと私は不思議に思っていた。
 案の定、刑事は家にも訪ねてきた。別荘で一緒だったらしい「知人」を警察は捜しあぐねていた。伊豆の別荘は、季節柄、ましてや夜ともなればほとんど人けのない場所にあるという。捜査は難航していた。繰りだす質問に捗々しい返答も得られず、何の進展も見ないまま彼らは帰っていった。
 私は誰とそこにいたのだろう? 仮に疚【やま】しいところがなくても、こんな結果になっては名乗り出るにも勇気が要るに違いない。それとも、初めからそんな人はいなかったのかもしれない。となると、私はたった一人で、何のために遠い別荘を訪ねたのか。

 あり余る時間を使い、私は美紗の部屋で自分に関する手がかりを探しはじめた。最初に興味を惹かれたのは机に置かれたノートパソコンだ。特にメール。だが、電源を入れて失望した。持ち主の人となりを物語るような履歴が残っていないのだ。購入後まもないのかもしれない。机のブックスタンドには堅苦しい本が数冊。大学で使っていたテキストだろう。日記でも出てくればと期待して抽斗を探ってみたが、見つからなかった。
 文芸サークルに所属していたというだけあって、本棚には隙間なく文庫本が並んでいた。漫画もあった。何冊か手に取ってみたものの、どれも読む気が起きなかった。文芸サークルといっても、私自身が書いた文章がどこにも見当たらないのは、やはり幽霊部員だったからだろうか。
 白い壁の一面はウォークインクロゼットだった。引戸を開けるとたくさんの魅力的な服がかかっていた。高価そうなものばかりで、着丈は私にぴったりだ。もともと少女のようにか細い体型だったようだが、いまでは華奢を通り越して窶【やつ】れてしまっている。おかげでウエストが緩かった。
 クロゼットには箱詰めした靴も多数収納されていた。大きさはUSサイズで七インチ。洋服同様、それらも包帯を取った足にフィットした。高いヒールを履くと、私の身長は一七〇センチくらいあるようだった。
 或るとき、本棚の片隅に小さなアルバムを見つけた。写真は最近のものばかりらしく、枚数も多くない。友達と一緒の笑顔。大道寺美紗が非常な美人であることを、ここでも贔屓目なしに認めざるをえなかった。自画自讃。そうかもしれない。けれどこれぐらいは許してもらえると思う。なぜならその美しさは、もはや永遠に喪われてしまった幻なのだから。アルバムの途中に三箇所ほど不自然な空白があった。きっと彩乃さんが病室に持ってきてくれた写真がそこにあったのだろう。

 帰宅以来、パパは腫れ物に触るように私に接していた。大半は仕事で家を空けているものの、二人きりで話すときの態度には深い慈しみが感じられた。けれど、その温かさの陰で、鎖されてしまった私の未来に打ち拉がれているさまは、どんなに隠しても伝わってきた。それが私には辛かった。
 ――なぜパパは、先生の反対を押し切って私を連れ帰ったの?
 ――もっと病室にいたかったかい?
 ――そんなことはないけど。
 急な退院が決まったとき、たぶん私はホッとしていたと思う。それと同時に、いうにいわれぬ疚しさも感じていた気がするのだ。記憶がないというのは想像以上に恐ろしいことだ。振り向けば、深く、暗い、巨大な穴がぽっかりと口を開いている。高い岸壁から海面を見おろしていると、無意識のうちに重心が傾き、澱んだうねりに吸いこまれそうになるように、私はその深く、暗い、巨大な穴に、魅入られたように身を投じそうになる。私は自分の正体に自信がなかった。もしも大道寺美紗でなかったら、無残な姿のまま抛りだされてしまうかもしれない。そうして私は何者でもない、塵から生まれたような得体の知れない存在になるのだ。
 ――私はいつ仮面を取るの?
 ――もっと元気になってからだ。
 ――私が恐ろしい顔になっていたらどうする?
 ――心配するな。こうしているあいだにも、死んだ皮膚の下からきれいな肌が再生しているよ。痛みはあるかい?
 ――いいえ。
 ――うん。そのときが来たら、世界一の名医にお願いしよう。これが誇張じゃないのはわかるだろうね。
 ――うちがお金持ちだから?
 ――そうだ。こういうとき、お金は大事だよ。
 ――そうね……この家に生まれてよかったわ。
 ――お前はこの先、何十年と生きていくんだ。一年やそこら閉じこもっていたって何の問題もない。いい機会だからたくさん本を読みなさい。
 一方、彩乃さんはパパ以上にこまめに部屋を訪れては、明るい声でたわいないおしゃべりをしていった。たわいないといっても、その態度の端々には、私の記憶を引きだそうと苦心している様子がうかがえた。当分のあいだ、できるだけそっとしておこうというパパと、さりげなく再生を促そうとする彩乃さん。どちらの気遣いもありがたく、またいくぶんかの重荷を私に強いた。
 彩乃さんは頻繁に外出しているようだった。午後になると、車のエンジン音が毎日のように聞こえてくる。シトロエンは焼けてしまったが、うちにはなお二台の車があるのだ。たしかに、こんな邸にこもっていてもつまらないだろう。

 自宅に戻って二週間が過ぎたころ、家政婦の松原さんがドアをノックして、一人の訪問客を取り次いだ。来客があったら必ず報せてくれるよう、前々から彼女には頼んでおいた。勝手に追い返されてしまっては、記憶を取り戻すための重要な手がかりをみすみす放棄することになりかねない。パジャマ姿の私は慌ててガウンを羽織った。それからベッドに滑りこみ、首まで羽毛布団で覆って待機した。
 ほどなく現れたのは、意外にも若い男だった。冴えない地味な服装と、艶のない乾いた黒髪。引き緊まった頬に無精ひげを蓄えている。顔立ちは悪くない。印象的なのは二重瞼の目。もの静かな眸はしかし、気軽に歩み寄った足が思わず止まるような、冷たい色をしていた。
 松原さんが去るのを待って、青年は藍沢崇と名乗った。彼はしばし私の顔を見つめたのち、美紗の恋人であることと、鉄仮面を作ったのが彼の友人であることを告げ、さらに、彼と美紗の関係は大道寺家には伏せられていたはずだといい添えた。
 ――ひょっとして、別荘で一緒だったのはあなたなの?
 ――違う、俺じゃない。
 ――お友達が仮面を作ったってこと、警察には伝えた?
 ――いや。
 ――どうして? みんな仮面の出所を必死になって探ってるはずよ。
 ――それについては俺なりに思うところがある。いずれは警察にも話すつもりさ。だが、まずは君に会うのが先だと思ったんだ。君は声もしゃべり方も変わったね。
 ――声帯が駄目になってしまったのよ。ひどい声でしょう? 最初は短い単語さえ正確に発音できなかったの。
 ――たしかに以前とは違う。でも、悪くはない。それぐらいなら魅力的なハスキーボイスで通るよ。
 藍沢崇は机の前の回転椅子に腰かけると、煙草を取りだして斜【はす】に咥えた。彼の挙措は荒っぽかったが、それは神経質な内面の裏返しのようにも映った。私は仮面の奥からライターの炎を見つめた。不思議と火に対する恐怖心はなかった。
 ――この部屋に灰皿はないわよ。
 ――ああ。
 つぶやいて、藍沢崇はポケットから携帯灰皿を出した。
 ――ねえ、私は煙草を吸った?
 ――いや。少なくとも俺の前で吸ったことはなかった。君の口から煙草の匂いがしたこともないよ。
 煙草火の不始末。やはり別荘には誰かがいたということか。
 藍沢崇はなおも私を見据えていたが、もちろんその目が捉えているのは仮面の顔だった。
 彼が説明するところによると、鉄仮面は個展の目玉として制作されるはずだった作品の一部だという。それは大道寺美紗の顔であると同時に、シンデレラの顔でもあった。シンデレラといえばガラスの靴だが、彼の友人は、ガラス彫刻で女性の裸像を作り、鉄の仮面と鉄のハイヒールを装着するつもりだったそうだ。ところが、ガラスの彫像に取りかかったところで、工房から鉄仮面と鉄靴が盗まれた。仮面は前後に分割された状態で保管されていた。後日、彫像に嵌めこんで溶接する予定だったが、運命の女神の気まぐれな采配は、生身の頭部に仮面を固着させたのだ。
 ――あなたのお友達は、どうして私の顔なんか作ったの?
 ――君は、望まれてモデルを務めたのさ。
 ――彫像も私の身体になるはずだったってこと。
 ――そうだろうな。だが、盗難のせいで制作は頓挫した。俺の目の前で、あいつは作りかけのガラス像を叩き壊してしまったよ。
 ――誰が仮面と靴を盗んだか、目星はついてるの?
 ――いや、まったく。ただひとつたしかなことは、いま、俺の手のすぐ届くところに仮面があるってことだ。長らく行方不明だった仮面がね。おかしな話だと思わないか。
 ――私が盗んだとでもいいたいの?
 ――さあね。しかし、君以外の何者かが君にそれをかぶせたのは間違いない。何人であれ、自分の顔に装着した仮面に溶接を行えたとは思えないからね。ドライヤーを扱うのとはわけが違う。
 ――それ以前に、素人にそんな作業は無理じゃないかしら。
 ――たしかに或る程度の技術は要るし、道具も要るな。繰り返すが、誰かが君に仮面をかぶせたんだ。興味深いのは、君自身もそれを望んでいたか否か。
 ――望むわけないじゃない! この仮面のせいで私がどんなに苦しんでいるか、あなたには想像もつかないでしょう。
 ――君は、本当に美紗なのか?
 唐突に核心を衝かれ、ベッドの上で私は身を硬くした。
 ――なあ、何か隠しているなら教えてくれないか。
 ――わからない……。
 嘘はつけなかった。
 ――自分でも、わからないの。
 藍沢崇は卓上にあった紙とペンを取って私に差しだすと、名前を書くよう求めた。私は常時白い手袋を着けている。努力したが、指がこわばって上手く書けなかった。一メートルもあるペン先で書いたみたいに文字が歪み、のたくった。それでもどうにか「美紗」と記すことができた。
 ふいに彼は私の手首をつかむと、軽々と立ち上がらせた。腕の腱に電気が走り、私は呻いた。藍沢崇の両手が真正面から肩に置かれた。
 ――背丈は美紗と一緒だな。
 ――疑ってるのね。
 私は衝動的に彼の手を振り払い、不器用な歩みで窓辺へ逃げた。レースのカーテン越し、夏の午後は陰鬱に曇っていた。
 背後で悩ましげな声がつぶやく。
 ――左京氏はなぜこんな姿の君を娘と認めたのだろう。
 ――じつの父娘よ。理屈じゃないわ。
 振り返ると、疑惑の視線が仮面の奥の眸を射た。
 ――そんな目で見ないで!
 出せない声を私は荒らげた。
 そのとき、松原さんがアイスティーを運んできた。私はストローでしか飲み物を口にできない。私たちが押し黙ってしまったので、松原さんは気まずげな様子でそそくさと出ていった。
 気を取り直して私は訊ねる。
 ――美紗は、どんな子だった?
 ――一言でいえば、勝気でわがままなお嬢様だね。
 ――要するに、性格が悪いってことね。
 ――そんなことはない。何をしても、何をいっても、不思議と彼女は他人を不快にさせなかったよ。人好きがするというのかな。彼女はけっして柔らかではなかったが、しなやかだった。このニュアンス、伝わるかな。
 ――何となく、ね。わがままだったというのはどういうこと?
 ――友達だろうが恋人だろうが、君はすべての人の上に君臨していたのさ。周りも、君自身も、それが当たり前だと思っていたんだ。
 ――まるで選ばれた存在みたいね。
 ――そのとおり。いまごろ気づいたのか?
「彼女」から「君」へ、藍沢崇のなかで大道寺美紗の存在が揺らぐ。彼の困惑のほどが切ないぐらい伝わってきた。
 ――あなたはいくつ?
 ――二十八。
 もうすこし若いと思っていた。
 ――八つも上の人を、私、好きになったのかしら。
 ――八つぐらい珍しくもないだろう。
 ――私たちはどこで知り合ったの?
 ――まったく思いだせないのか?
 ――ええ。
 私のどこが好きだったの……? そういいかけて、呑みこんだ。
 落ち着きなく視線をさまよわせながら、藍沢崇がいった。
 ――靴を知らないか。
 ――靴?
 ――さっき話した鉄のハイヒールさ。火事場から見つかったという話は聞かなかった?
 ――いいえ。そんなものが残っていれば、今日までに誰かが私に話したはずだわ。たぶん、別荘にはなかったのよ。
 ――あのハイヒールは、はたして君のその足に合うだろうかね。
 遠まわしの皮肉。私が美紗ではないと考えているのだ。クロゼットの靴がちゃんと履けたことを彼は知らない。
 ――あなたのお友達はなんていう人。
 ――藤江。藤江恭一郎。何か思いだせるかい?
   ――いいえ。
 ――素晴らしい芸術家だったよ。ただし狂気と紙一重のところもあった。いまにして思えば、仮面も靴も本当は盗まれてなんかいないのかもしれない……。
 ――どういうこと……? その人はいまどこにいるの?
 つかのま言葉を探すような逡巡を示したあと、藍沢崇は私の背後の窓外に目を向けた。
 ――あいつは消えたよ。事情があって芸術の道を捨てたんだ。
 ――思わせぶりな答え方ね。なぜ私がその人のモデルをしていたの?
 ――藤江に強く請われて、俺が君を供したからさ。個展が済んだら作品を譲ってもらう約束でね。だから、君がかぶっているその仮面は俺のものでもあるってことだ。いまは預けておくが、近い将来、必ず返してもらう。
 ――これは外せないのよ、外したくても。
 ――なら、君ごと持ち帰らなくちゃならないな。
 また来るといい残し、藍沢崇はふいと部屋を出ていった。煙草の残り香が青年の体臭のようだった。私は白い手袋の手で窓を開けた。
 久しぶりにしゃべりつづけ、ぐったりしてしまった。ベッドに倒れこみ、突然現れた男のことを考える。彼は私が大道寺美紗だとは信じていないようだった。すこしでも信じていたら、あんな接し方ができるはずがない。彼の知る恋人と、どこか違うところがあったのだろうか。
 いまさらのようにどす黒い不安が襲いくる。私は大道寺美紗か、それとも……?
   いつか誰かが、灰色のハイヒールを手に、意地悪な笑みを湛えて私のもとへやってくるだろう。硬い鉄の感触のなかへ、恐る恐る私は素足を挿しいれる……その場景を思い描くと身震いがした。
 一方、よくよく考えてみれば、こちらも藍沢崇の話を頭から信ずる理由はないのだった。ほんの一年前、活き活きと青春を謳歌していたころ、私はあの冷たい眸の青年を好きだったのだろうかと想像してみる。現実味はなかった。さりとてありえないこととも思わなかった。どちらともいえる。結局、すべては曖昧なままだった。

 自宅療養の日々は続いた。主治医の森本先生が定期的に往診に来てくれた。入念にマッサージが施され、こまめに包帯が交換された。今後の人生において、これほどガーゼを消費する機会は二度とないだろう。
 考える時間はいくらでもあった。私はつらつらと推理を重ねる。別荘への往路、立ち寄ったガソリンスタンドやコンビニで、美紗は仮面など着けていなかった。ということは、いま私の顔に貼りついている仮面は、別荘内で装着されたと見てよいだろう。藍沢崇がいうには、仮面の溶接を一人で行うのは難しく、実際、そのとおりだと思う。つまり、別荘には私のほかに誰かがいたのだ。ガソリンスタンドやコンビニの店員が、美紗は一人きりだったと証言したらしいが、同行者が店内に入らなかっただけかもしれないし、あるいは美紗とは別々に別荘を訪れたのかもしれない。それは誰か。男か、女か。なんとなく、男だという気がする。それが藍沢崇であるなら話は早いが、彼でないとしたら……?
 或る日、退屈しのぎにまたクロゼットを探っていると、冬物のコートのポケットから外国煙草とライターが出てきた。煙草の銘柄は女性好みで、銀のライターも女性が持つのにふさわしい洒落たデザインだった。私は混乱した。すこしためらってから、一本抜き取って仮面の唇にそっと挿し、不器用に火をつけてみる。絹のように柔らかな煙の玉とともに、メンソールの清涼感が口いっぱいに広がった。
 懐かしい味がした。


  3

 藍沢崇の出現が契機になったわけではあるまいが、私が快方に向かっていると聞き知った友人たちが見舞にくるようになった。みんな若い。男と女、半々だった。異様な姿の私を目の当たりにし、平静を装おうと努めるさまには同情を禁じえなかった。ここを訪れること自体、大いに逡巡したに違いなく、素直に感謝しなくてはならないだろう。
 私の知らない私との思い出話。私にはいくつかの世界があったようだ。大学の友人たちが藍沢崇や藤江恭一郎の存在を知っている様子はなかった。
 驚いたのは、多くの訪問客のもとを刑事が訪ねていたことだ。そのなかには、別荘で一緒だったらしい「知人」について証言した諸橋文絵もいた。幼馴染。同い歳の短大生。小さくて可愛らしい。
 私は彼女を文絵と呼び捨てにしていたらしいので、そうすることにした。向こうにとってはそれが自然なのだし、こちらもすぐに慣れた。記憶回復の助けになればと考えたのだろう、文絵は子供のころからの写真の束を持参していた。そのうち、長じてからの何枚かは、本棚のアルバムに収められていたものと一緒だった。つまり、見舞に来てくれる前から、私は彼女の顔を目にしていたわけだが、改めて写真を見せられるまで気づかなかった。きっと私は、アルバムのなかに自分の姿だけを追っていたのだろう。
 内心、ちょっとしたばつの悪さを感じながら訊いた。
 ――私に彼氏がいたことは知っていた?
 ――ええ、知ってたわ。
 ――どんな人?
 ――そうね……。
 と、今度は文絵のほうが気まずげな態度を見せた。
 ――美紗がどう考えていたかわからないけど、彼氏と呼んでもいいような男友達が、あなたには複数いたの。病院にもお見舞にきたはずよ。
 私は驚き、戸惑いながらつぶやく。
 ――病院では、面会謝絶だったから。
 ――そうだったわね。私も足を運んだのだけど。
 ――名前を教えて。
 高橋くん、大学の同級生。カミカゼと呼ばれていた年上の青年、こちらはショットバーのバーテンダー。カミカゼとは妙な綽名【あだな】だ。どういう由来だろう?
 ――あとは?
 ――もう一人、名前は知らないけど、そのバーテンより年上の人……。
 ――藍沢崇……?
 ――ああ、そうかもしれない。いえ、でも、違う名前だった気もするけど。
 ――私、嫌な女ね。
 何気なくつぶやくと、文絵は身を折って笑い、それから急に泣きだして私を抱きしめた。抱きしめられながら、私は重ねて訊いた。
 ――そのなかの一人と、私、別荘へ行くといっていた?
 ――それが、わからないの。でも、きっとそうじゃないかって私は想像してた。
 シトロエンでの伊豆行きは泊りがけのデートだった可能性が強まった。

 見舞客への応対は想像以上に心身への負担が大きかった。彼らが帰ったあと、私は半日ほど横にならなくてはいけなかった。それでも友人たちはまだましで、もっと気の滅入る客人もあった。パパの妹である叔母と、その娘だ。親族では拒むわけにもいかないが、見舞と称して、実情は私の正体を探ろうとしているのだ。二人は、暗に美紗が殺害されたのではないかという疑念さえほのめかした。どうやら財産狙いの替え玉と疑っているらしい。おかしな話だ、私は死にかけたというのに。では、いずれ私がパパと彩乃さんまで殺すというのだろうか。
 別の日、私はまた刑事の訪問を受けた。叔母たちが馬鹿なことをしゃべったのではないかと身構えたが、特にそういう質問は出なかった。代わりに、藤江恭一郎という男に憶えはないかと訊かれた。なぜだか知らないが、このとき私は、いいえ、と答えていた。
 刑事が来た翌日、藍沢崇がふたたび姿を見せた。ひどく思い悩んだ顔をしていた。別荘での事故について、彼は独自に調べているようだった。
 ――昨日、警察に藤江恭一郎を知っているかと訊かれたわ。
 ――警察に? それで何て答えたんだ。
 ――知らないって。だって事実だもの。
 ――事実ね。
 藍沢崇は皮肉っぽく笑った。
 ――そんなことをいったら、いまの君は誰のことも知らないじゃないか。
 私は言葉に詰まった。記憶にこそないが、その男のことは聞き知っている。なぜ私はそれを口にしなかったのだろう。藤江恭一郎とは、私にとってどんな存在だったのだろう。これほど悲惨な被害者でありながら、時おり自分が犯罪者であるかのような気がしてくるのが嫌だった。
 ――あなたのほうは何かわかったの?
 ――いや。だが、見えない誰かが何かを企んでいるのはたしかだ。今回の出来事には大きな罠が仕掛けられているに違いない。
 ――罠?
 ――そう、いわばシンデレラの罠さ。しかし俺は騙されはしない。いずれ必ず暴いてみせる。そのときには君の正体もはっきりするはずだ。
 ――どこまでも疑っているのね、私のことを。
 ――一日も早く記憶が戻ることを祈っているよ。
 いまでも美紗を愛していると、彼はいった。

 伊豆の一件とは関係ないが、ずっと気になっていた謎が解ける日が来た。出窓から見える、あの煙突みたいな細長い塔のことだ。或るとき、洗濯物を運んできた松原さんに訊ねると、彼女は目を細めて不思議そうに窓外を眺め、すぐに破顔した。
 ――お嬢さん、あれは塔ではありません。
 ――じゃあ、何?
 ――あすこに遊園地があるんです。あれは大観覧車ですよ。
 ――観覧車……?
 ――ええ。でも、いわれてみれば、たしかに棒っきれが立ってるみたいに見えますねえ。
 私は目から鱗の落ちる思いだった。そう、要するに眺める角度の問題なのだ。
 このとき、ふいに私は観覧車に乗っているイメージを呼び覚ました。高みから見下ろす広大な街並み。遠く灰青色に煙っているのは海だろうか。いつのことだろう。窓から見える、あの観覧車からの光景なのか。私の向かいに誰かが坐っている。その顔は、姿は、薄陽の下の影のようにぼんやりしているが、男性であるのはたしかだった。なぜなら私は、彼の声やそのとき交わした会話の一部まで思いだしたからだ。かすかな振動を伝える狭いゴンドラのなかで、私たちはシンデレラの話をしていた。このとき彼は、「シンデレラ」の語源が「灰」、つまり「燃えかす」であると教えてくれたのだった。
 あるいはそれは、いつか見た夢かもしれない。よくわからない。
 これが記憶の戻る端緒となるのだろうか?



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