蜃気楼のごとく消えた謎の芸術家、藤江恭一郎。
彼の手になる仮面をめぐり各地で事件が頻発する。
仮面づくしの連作短編ミステリ。
前口上
吉祥寺駅の南口から井の頭公園を通り抜けて低い土手を上ると、碁盤の目に路地の入り組んだ品のよい住宅街が広がっている。住所でいうと、このあたりは三鷹市井の頭である。これを西へ向かえば、知らず識らずにまた広大な井の頭公園に呑みこまれることになり、所は武蔵野市御殿山と変ずる。一般に「武蔵野」の響きからイメージされる雑木林は、吉祥寺周辺ではこの御殿山の公園敷地内に美しい姿の大半を留めるのみだが、じつは吉祥寺通りをくだって自然文化園を過ぎた先の目立たぬ一角にも、丈高な雑木林の残る秘密めいた土地がある。
その小暗い木立のなか、いかにも人目を避けるような風情で、ささやかな洋館が潜んでいるのだった。白壁にフランス瓦の赤い三角屋根をいただき、周囲の環境も相まって、どことなく別荘然、四阿【あずまや】然として見える一軒家である。この淋しい家の存在を知る者は少ないが、さらにそこの住人、全身を黒衣に包み、鉄の仮面をかぶった異様な人物については、近隣の住民ですら見かけた者は稀であろう。
すこし前、藤江恭一郎という若き芸術家がいた。
知名度は低く、発表作品も多くないが、独特の個性を持つ仮面作家として一部で評価の高まりつつあった青年だ。
藤江が作品づくりに好んで用いた素材、それが鉄である。鍛鉄【ロートアイアン】。コークスを焚いて鉄を熱し、ハンマーで叩きのめし、火花を散らしてバーナーで焼き切る。やがて最後の工程において表面を埋め尽くす点描のごとき鎚目【つちめ】は、冷たく硬い鉄仮面に命を吹きこみ、あたかも人肌と見紛うほどの質感さえもたらすのだった。
仮面作家としての藤江恭一郎の活動期間はごく短かった。工房における不幸な事故が、彼の芸術家生命を奪ったのだといわれている。
ところで、蜃気楼のように姿を消したこの若き芸術家に関し、以前からまことしやかに囁かれている噂があった。
いわく、藤江恭一郎の手になる作品には呪いが籠められているとの一種の怪談で、いかにも眉唾ものの話だが、事実、彼の生みだした仮面にまつわる奇怪な出来事が、さまざまな場所でたしかにいくつも起こっていた。
第二話 シンデレラ
1
昨年十一月半ばの深夜、大道寺家の伊豆の別荘が火災に見舞われ、若い女が黒焦げのマネキンみたいな姿で見つかった。被害者は大道寺家の一人娘、美紗と思われた。別荘の前庭には同家所有の黄色いシトロエンが駐まっていたし、この晩、美紗は東京の自宅に帰らなかった。
救けだされた女の様子は酸鼻を極めていた。燃え尽きた衣服。全身を覆う火傷。煤にまみれた容貌は、汚れを拭い落とすと大道寺美紗であるかに見えたが、尋常ならざるひとつの障壁のせいで、即座に身許を断定するわけにはいかなかった。人事不省の被害者は、いかなる理由からか、容易に外すことのできない仮面を装着していたのだ。仮面は鉄で作られており、大道寺美紗の顔をしていた。
鉄仮面。
それはまったく芸術と呼ぶにふさわしい出来映えだった。頭髪がなくてもひと目で若い女であることがわかる。滑らかな額、長く弓を引いた先細りの眉、その下にやや離れ気味の切れ長の眸がある。鼻筋は主張しすぎることなくすっきりと抜け、わずかに開いた唇は薄く、あるかなきかの微笑を留めている。
皺らしい皺のないみずみずしい顔立ちだが、同時にその仮面には、言葉に表しがたい複雑な陰翳と深みも与えられていた。仔細に観察すれば、それは驚異的な執念で施された槌目のなせるわざだと気づくはずだ。目を凝らさねば見過ごしてしまうほどの繊細な凹凸が、本来なら小面【こおもて】のごとくのっぺりと見えるはずの人造物を、限りなく生身の人間に近づけているのだった。
仮面は耳の裏を境に前後二分されており、被害者の頭部を挟みこんで念入りに継ぎ目を溶接してあった。これを外すとなると、強引に焼き切る以外に手立てはない。死線を往きつ戻りつする患者にとって、それはあまりに無謀な手段だったし、ましてや火の海で熱せられた仮面は、皮膚と癒着している可能性さえあったのだ。
焼け焦げた生き人形。それが八か月前の私だった。
救出から一週間後、白い病室で私は意識を取り戻した。その日は奇しくも二十歳の誕生日に当たっていた。おかげで奇蹟はいっそうの祝福をもって迎えられたが、私の肉体には大がかりな植皮が不可欠であり、事故のショックからかあらゆる記憶を喪っていた。
聞けば、伊豆の別荘は全焼に近かったという。そんななかで一命を取りとめたのは、居間のフランス窓を突き破って(それは火炎の熱気で勝手に割れたのかもしれない)、テラスから暗い中庭のプールに転がりこんだおかげだった。プールの底には、落ち葉に埋もれてわずかに水が溜まっていたのだ。救急搬送された私の体内からは睡眠薬の成分が検出されたらしい。おそらくは朦朧とした状態で、それでも私は本能のままに行動し、九死に一生を得たのだった。
或る友達の証言から、問題の日、大道寺美紗は家族に内緒で、知人と二人、別荘を訪れていたらしいことがわかった。ただし、その知人とやらが何者なのか証言者は聞いておらず、火災後、くだんの人物の行方も定かでなかった。街道ぞいのコンビニ店員は、買い物に来たのは美紗一人だったといい(刑事が持参した顔写真によって、それが本人であったことが確認された)、また、ガソリンスタンドでは、黄色いシトロエンに乗っていたのが運転席の美紗だけであったという証言が得られた。
以上の手がかりから、ほぼ確実であろうと認められるのは、この日、美紗が別荘に向かったという一点だけだ。その別荘が炎上し、現場から私が発見された。私は大道寺美紗だろうか? おそらくそうだろう。しかし、なぜ自分と同じ顔の仮面を着けていたのかが謎である。そもそも、誰が、何のためにそんなものをこしらえたのか。
生命の危機は脱したものの、私の声帯は焼け爛れ、指紋は焦げ、皮膚の引き攣れた右手は、まともな文字を書くことを頑に拒みつづけた。
ベッドの上、地獄の業火に焼かれるような全身の痛みはやむことを知らず、私は潰れた喉で狂ったように絶叫した。私を黙らせるため、大量の薬液が注射針から注ぎこまれた。細心の注意を要する皮膚移植。感染症の懸念。軟膏の匂いが私の体臭になった。切れ切れに聞こえてくる声が、初めて聞き知った言葉のように脳裏に刻まれてゆく。DNA鑑定、歯型の採取、催眠療法。やがて、点滴から流動食への緩やかな移行。仮面の硬い唇はかろうじて経口摂取を受けいれた。柄の細長い小さな歯ブラシが、私のために用意された。
父は忙しい仕事の合間を縫って足繁く病室を訪ねてくれた。大道寺左京。私はパパと呼んでいたらしい。大柄でがっしりした体格に浅黒い肌。秘めたる意志の強さを思わせる、きりりとした眉と目。学生時代にはきっと運動部で活躍したに違いない。
また私は、ぼんやりと意識が戻った日から、甲斐甲斐しく身の回りの世話をしてくれる美しい人の存在にも気づいていた。華やかな顔立ちをした、小柄だが肉感的な女性だ。医療関係者でないことはすぐにわかった。内心、姉だろうかと思いつつ、確認もできないまま、靄のなかをさまようような溷濁【こんだく】の日々が続いた。そうしてある日、看護師からくだんの女性が継母であることを聞かされたのだ。彩乃さんといって、そのとき二十九歳だった。私は驚いた。自分にそんな若い母親がいようとは、誰だって想像できるはずがない。
パパと彩乃さんが結婚したのは五月だという。まだ半年しか経っていない。私は一度でもその人をママと呼んだことがあったろうか。私を産んでくれた本当の母親は、私が十七の年に病気で亡くなったそうだ。ベッドに横たわったまま、私は彩乃さんからそれを聞いた。いまはまだこんな話をすべきではなかったと彼女は謝ったが、こちらがせがんだのだから気にすることはない。
或るとき、私は彩乃さんに頼んで自宅から美紗の写真を持ってきてもらった。いざ目にする瞬間はどきどきしたけれど、素直に美しいと思えたのが嬉しかった。すまし顔の少女。長いストレートの黒髪。軽やかに一筆で刷いたような眉は、きっと剃刀や毛抜きを必要としない生来の形だ。少々お高く留まっているようにも見えるが、私の好きな顔だった。この時点では、まだ私は自分の顔を覆った仮面を見ていなかった。
――仮面の顔は、この写真と同じなの?
――ええ、そっくりよ。
思わず自分の頬に触れてみる。ギプスで固められた手に、鉄の感触は伝わらなかった。
――不思議だわ。どうしてこんな仮面があるのかしら。どうして私がそれを着けているのかしら。
すでに何度も何度も繰り返された問いだった。
――いつか、この仮面を外せるのかな。
――もちろん。身体の傷が癒えて、体力が回復したら。煩わしいでしょうけど、それまでもうすこし我慢ね。
――きっと顔もひどい火傷でしょうね。
――どうかしら。その仮面が護ってくれていたかもしれないし。
――でも、鉄だもの。真っ赤に燃えていたんじゃない? いまの頭はこの写真より仮面に近いでしょうね。もうこんなきれいな髪は生えてこないと思う。
――大丈夫、形成医療の進歩は目覚しいのよ。きっと以前と変わらないぐらいになるわ。
慰めとわかっていたけれど、私は黙っていた。
家族以外は面会謝絶だったが、見舞の品はたくさん届いた。いくつかには手紙も添えられていて、新たな情報をもたらしてくれた。私の知らない私の世界。不思議な気分だった。何も映らない鏡がこの世に存在しないように、私もまた多くの人を映しだす鏡だったのであり、私の世界はたしかに世のなかとつながっていたらしかった。
私は大学生だった。四年制大学の文学部、事故のあった昨年は二年生だった(これは両親からも教えられていた)。テニスと文芸のサークルを掛け持ちしていたが、さほど熱心でなかったようだ。誰かの手紙に、ユーモラスな筆致で幽霊部員と記してあった。何となくいまの自分を象徴するような言葉だと思い、しばらく幽霊という文字から目が離せなかった。命の危険に曝された人間を見舞うにしては、悪気はなくともいささか配慮に欠けた表現だ。
或る日のこと、二人の刑事がやってきて、別荘の火事は過失ではなく、私は誰かに殺されかけたのではないかといった。
火事の原因は煙草の火の不始末と聞いていたが、じつは火元となった居間に、かすかにガソリン臭が漂っていたのだそうだ。仮面をかぶせた理由は不明だが、何者かが火をつけ、昏睡状態の私を放置した疑いがあるといい、心当たりはないかと訊いた。私は何も憶えていなかった。その恐ろしい疑いが本当なら、プールに残っていた汚水は犯人にとって大きな誤算だったのではないか。
現場では、美紗のものらしきバッグの燃え残りや、コンビニエンスストアで購入した飲食物の残骸が見つかっていたが、携帯電話は現場からも自宅からも出てこなかった。
会話の途中で気分が悪くなり、面会は短時間で打ち切られた。今後もたびたび事情聴取を受けることになるだろうと思い、気が重くなった。これ以上、面倒なことには関わりたくない。
私は記憶の回復を密かに夢に求めていた。なにしろ赤ん坊のようによく眠る毎日だったから。楽しい夢は見なかった。火事場の場景が出てこなかったことだけは幸いといえるだろう。
夢のなかで私は子供で、下駄箱の上の金魚鉢に大きな蘭鋳【らんちゅう】を飼っている。或る夏の朝、その赤い魚が腹を見せて浮かんでいるのを私は見た。丸々と肥えた魚を取り巻く世界はあまりに狭く、赤い死骸は一夜のうちに水を腐らせていた。
また、激しく車の行き交う路上にへたりこんだ黒猫の夢も見た。一見したところ怪我は見当たらないが、重傷を負っているのは明らかだった。動けない猫は脱糞していた。車の流れはいつまで経っても途切れなかった。猫の存在を知ってか知らずか、真上を通過してゆくもの。速度を落とし、かろうじて脇をすり抜けてゆくもの。私は歩道に佇んで、ずっとその光景を凝視しているのだった。
やがて、力なく横たわっていた黒猫がふいに頭をもたげてこちらを見た。その様子は奇妙なほどに落ち着いており、すべてを達観しているふうにさえ見える静謐な眸は、何を訴えるでもなくただ私を捉えつづけた。死に瀕した小さな生き物と私は長いこと見つめ合っていた……。
もしかすると、これらは実際に体験したことかもしれない。下駄箱の金魚鉢で蘭鋳を飼っていたことがあるか彩乃さんに訊いてみたが、彼女がパパと結婚したのは最近なのだから、この質問は意味がなかった。今度パパに確かめてみようと思った。
私の素性をはっきりさせるため、必要とあらばDNA鑑定が行われることになるだろう。仮面を外したあとなら、歯型の照合が手っ取り早い。たぶん私はどこかの歯科医にかかっていたはずだ。また、記憶を取り戻すには催眠療法も有効かもしれない。だが、手指のリハビリを開始した数日後、主治医とともに病室に現れたパパが、半ば強引に私を退院させたのだ。あとから知ったが、医師に対してパパは、私を一人娘の美紗に間違いないと断言したのだった。
こうして初夏の昼下がり、私は大道寺家に帰ってきた。
彼の手になる仮面をめぐり各地で事件が頻発する。
仮面づくしの連作短編ミステリ。
前口上
吉祥寺駅の南口から井の頭公園を通り抜けて低い土手を上ると、碁盤の目に路地の入り組んだ品のよい住宅街が広がっている。住所でいうと、このあたりは三鷹市井の頭である。これを西へ向かえば、知らず識らずにまた広大な井の頭公園に呑みこまれることになり、所は武蔵野市御殿山と変ずる。一般に「武蔵野」の響きからイメージされる雑木林は、吉祥寺周辺ではこの御殿山の公園敷地内に美しい姿の大半を留めるのみだが、じつは吉祥寺通りをくだって自然文化園を過ぎた先の目立たぬ一角にも、丈高な雑木林の残る秘密めいた土地がある。
その小暗い木立のなか、いかにも人目を避けるような風情で、ささやかな洋館が潜んでいるのだった。白壁にフランス瓦の赤い三角屋根をいただき、周囲の環境も相まって、どことなく別荘然、四阿【あずまや】然として見える一軒家である。この淋しい家の存在を知る者は少ないが、さらにそこの住人、全身を黒衣に包み、鉄の仮面をかぶった異様な人物については、近隣の住民ですら見かけた者は稀であろう。
すこし前、藤江恭一郎という若き芸術家がいた。
知名度は低く、発表作品も多くないが、独特の個性を持つ仮面作家として一部で評価の高まりつつあった青年だ。
藤江が作品づくりに好んで用いた素材、それが鉄である。鍛鉄【ロートアイアン】。コークスを焚いて鉄を熱し、ハンマーで叩きのめし、火花を散らしてバーナーで焼き切る。やがて最後の工程において表面を埋め尽くす点描のごとき鎚目【つちめ】は、冷たく硬い鉄仮面に命を吹きこみ、あたかも人肌と見紛うほどの質感さえもたらすのだった。
仮面作家としての藤江恭一郎の活動期間はごく短かった。工房における不幸な事故が、彼の芸術家生命を奪ったのだといわれている。
ところで、蜃気楼のように姿を消したこの若き芸術家に関し、以前からまことしやかに囁かれている噂があった。
いわく、藤江恭一郎の手になる作品には呪いが籠められているとの一種の怪談で、いかにも眉唾ものの話だが、事実、彼の生みだした仮面にまつわる奇怪な出来事が、さまざまな場所でたしかにいくつも起こっていた。
第二話 シンデレラ
1
昨年十一月半ばの深夜、大道寺家の伊豆の別荘が火災に見舞われ、若い女が黒焦げのマネキンみたいな姿で見つかった。被害者は大道寺家の一人娘、美紗と思われた。別荘の前庭には同家所有の黄色いシトロエンが駐まっていたし、この晩、美紗は東京の自宅に帰らなかった。
救けだされた女の様子は酸鼻を極めていた。燃え尽きた衣服。全身を覆う火傷。煤にまみれた容貌は、汚れを拭い落とすと大道寺美紗であるかに見えたが、尋常ならざるひとつの障壁のせいで、即座に身許を断定するわけにはいかなかった。人事不省の被害者は、いかなる理由からか、容易に外すことのできない仮面を装着していたのだ。仮面は鉄で作られており、大道寺美紗の顔をしていた。
鉄仮面。
それはまったく芸術と呼ぶにふさわしい出来映えだった。頭髪がなくてもひと目で若い女であることがわかる。滑らかな額、長く弓を引いた先細りの眉、その下にやや離れ気味の切れ長の眸がある。鼻筋は主張しすぎることなくすっきりと抜け、わずかに開いた唇は薄く、あるかなきかの微笑を留めている。
皺らしい皺のないみずみずしい顔立ちだが、同時にその仮面には、言葉に表しがたい複雑な陰翳と深みも与えられていた。仔細に観察すれば、それは驚異的な執念で施された槌目のなせるわざだと気づくはずだ。目を凝らさねば見過ごしてしまうほどの繊細な凹凸が、本来なら小面【こおもて】のごとくのっぺりと見えるはずの人造物を、限りなく生身の人間に近づけているのだった。
仮面は耳の裏を境に前後二分されており、被害者の頭部を挟みこんで念入りに継ぎ目を溶接してあった。これを外すとなると、強引に焼き切る以外に手立てはない。死線を往きつ戻りつする患者にとって、それはあまりに無謀な手段だったし、ましてや火の海で熱せられた仮面は、皮膚と癒着している可能性さえあったのだ。
焼け焦げた生き人形。それが八か月前の私だった。
救出から一週間後、白い病室で私は意識を取り戻した。その日は奇しくも二十歳の誕生日に当たっていた。おかげで奇蹟はいっそうの祝福をもって迎えられたが、私の肉体には大がかりな植皮が不可欠であり、事故のショックからかあらゆる記憶を喪っていた。
聞けば、伊豆の別荘は全焼に近かったという。そんななかで一命を取りとめたのは、居間のフランス窓を突き破って(それは火炎の熱気で勝手に割れたのかもしれない)、テラスから暗い中庭のプールに転がりこんだおかげだった。プールの底には、落ち葉に埋もれてわずかに水が溜まっていたのだ。救急搬送された私の体内からは睡眠薬の成分が検出されたらしい。おそらくは朦朧とした状態で、それでも私は本能のままに行動し、九死に一生を得たのだった。
或る友達の証言から、問題の日、大道寺美紗は家族に内緒で、知人と二人、別荘を訪れていたらしいことがわかった。ただし、その知人とやらが何者なのか証言者は聞いておらず、火災後、くだんの人物の行方も定かでなかった。街道ぞいのコンビニ店員は、買い物に来たのは美紗一人だったといい(刑事が持参した顔写真によって、それが本人であったことが確認された)、また、ガソリンスタンドでは、黄色いシトロエンに乗っていたのが運転席の美紗だけであったという証言が得られた。
以上の手がかりから、ほぼ確実であろうと認められるのは、この日、美紗が別荘に向かったという一点だけだ。その別荘が炎上し、現場から私が発見された。私は大道寺美紗だろうか? おそらくそうだろう。しかし、なぜ自分と同じ顔の仮面を着けていたのかが謎である。そもそも、誰が、何のためにそんなものをこしらえたのか。
生命の危機は脱したものの、私の声帯は焼け爛れ、指紋は焦げ、皮膚の引き攣れた右手は、まともな文字を書くことを頑に拒みつづけた。
ベッドの上、地獄の業火に焼かれるような全身の痛みはやむことを知らず、私は潰れた喉で狂ったように絶叫した。私を黙らせるため、大量の薬液が注射針から注ぎこまれた。細心の注意を要する皮膚移植。感染症の懸念。軟膏の匂いが私の体臭になった。切れ切れに聞こえてくる声が、初めて聞き知った言葉のように脳裏に刻まれてゆく。DNA鑑定、歯型の採取、催眠療法。やがて、点滴から流動食への緩やかな移行。仮面の硬い唇はかろうじて経口摂取を受けいれた。柄の細長い小さな歯ブラシが、私のために用意された。
父は忙しい仕事の合間を縫って足繁く病室を訪ねてくれた。大道寺左京。私はパパと呼んでいたらしい。大柄でがっしりした体格に浅黒い肌。秘めたる意志の強さを思わせる、きりりとした眉と目。学生時代にはきっと運動部で活躍したに違いない。
また私は、ぼんやりと意識が戻った日から、甲斐甲斐しく身の回りの世話をしてくれる美しい人の存在にも気づいていた。華やかな顔立ちをした、小柄だが肉感的な女性だ。医療関係者でないことはすぐにわかった。内心、姉だろうかと思いつつ、確認もできないまま、靄のなかをさまようような溷濁【こんだく】の日々が続いた。そうしてある日、看護師からくだんの女性が継母であることを聞かされたのだ。彩乃さんといって、そのとき二十九歳だった。私は驚いた。自分にそんな若い母親がいようとは、誰だって想像できるはずがない。
パパと彩乃さんが結婚したのは五月だという。まだ半年しか経っていない。私は一度でもその人をママと呼んだことがあったろうか。私を産んでくれた本当の母親は、私が十七の年に病気で亡くなったそうだ。ベッドに横たわったまま、私は彩乃さんからそれを聞いた。いまはまだこんな話をすべきではなかったと彼女は謝ったが、こちらがせがんだのだから気にすることはない。
或るとき、私は彩乃さんに頼んで自宅から美紗の写真を持ってきてもらった。いざ目にする瞬間はどきどきしたけれど、素直に美しいと思えたのが嬉しかった。すまし顔の少女。長いストレートの黒髪。軽やかに一筆で刷いたような眉は、きっと剃刀や毛抜きを必要としない生来の形だ。少々お高く留まっているようにも見えるが、私の好きな顔だった。この時点では、まだ私は自分の顔を覆った仮面を見ていなかった。
――仮面の顔は、この写真と同じなの?
――ええ、そっくりよ。
思わず自分の頬に触れてみる。ギプスで固められた手に、鉄の感触は伝わらなかった。
――不思議だわ。どうしてこんな仮面があるのかしら。どうして私がそれを着けているのかしら。
すでに何度も何度も繰り返された問いだった。
――いつか、この仮面を外せるのかな。
――もちろん。身体の傷が癒えて、体力が回復したら。煩わしいでしょうけど、それまでもうすこし我慢ね。
――きっと顔もひどい火傷でしょうね。
――どうかしら。その仮面が護ってくれていたかもしれないし。
――でも、鉄だもの。真っ赤に燃えていたんじゃない? いまの頭はこの写真より仮面に近いでしょうね。もうこんなきれいな髪は生えてこないと思う。
――大丈夫、形成医療の進歩は目覚しいのよ。きっと以前と変わらないぐらいになるわ。
慰めとわかっていたけれど、私は黙っていた。
家族以外は面会謝絶だったが、見舞の品はたくさん届いた。いくつかには手紙も添えられていて、新たな情報をもたらしてくれた。私の知らない私の世界。不思議な気分だった。何も映らない鏡がこの世に存在しないように、私もまた多くの人を映しだす鏡だったのであり、私の世界はたしかに世のなかとつながっていたらしかった。
私は大学生だった。四年制大学の文学部、事故のあった昨年は二年生だった(これは両親からも教えられていた)。テニスと文芸のサークルを掛け持ちしていたが、さほど熱心でなかったようだ。誰かの手紙に、ユーモラスな筆致で幽霊部員と記してあった。何となくいまの自分を象徴するような言葉だと思い、しばらく幽霊という文字から目が離せなかった。命の危険に曝された人間を見舞うにしては、悪気はなくともいささか配慮に欠けた表現だ。
或る日のこと、二人の刑事がやってきて、別荘の火事は過失ではなく、私は誰かに殺されかけたのではないかといった。
火事の原因は煙草の火の不始末と聞いていたが、じつは火元となった居間に、かすかにガソリン臭が漂っていたのだそうだ。仮面をかぶせた理由は不明だが、何者かが火をつけ、昏睡状態の私を放置した疑いがあるといい、心当たりはないかと訊いた。私は何も憶えていなかった。その恐ろしい疑いが本当なら、プールに残っていた汚水は犯人にとって大きな誤算だったのではないか。
現場では、美紗のものらしきバッグの燃え残りや、コンビニエンスストアで購入した飲食物の残骸が見つかっていたが、携帯電話は現場からも自宅からも出てこなかった。
会話の途中で気分が悪くなり、面会は短時間で打ち切られた。今後もたびたび事情聴取を受けることになるだろうと思い、気が重くなった。これ以上、面倒なことには関わりたくない。
私は記憶の回復を密かに夢に求めていた。なにしろ赤ん坊のようによく眠る毎日だったから。楽しい夢は見なかった。火事場の場景が出てこなかったことだけは幸いといえるだろう。
夢のなかで私は子供で、下駄箱の上の金魚鉢に大きな蘭鋳【らんちゅう】を飼っている。或る夏の朝、その赤い魚が腹を見せて浮かんでいるのを私は見た。丸々と肥えた魚を取り巻く世界はあまりに狭く、赤い死骸は一夜のうちに水を腐らせていた。
また、激しく車の行き交う路上にへたりこんだ黒猫の夢も見た。一見したところ怪我は見当たらないが、重傷を負っているのは明らかだった。動けない猫は脱糞していた。車の流れはいつまで経っても途切れなかった。猫の存在を知ってか知らずか、真上を通過してゆくもの。速度を落とし、かろうじて脇をすり抜けてゆくもの。私は歩道に佇んで、ずっとその光景を凝視しているのだった。
やがて、力なく横たわっていた黒猫がふいに頭をもたげてこちらを見た。その様子は奇妙なほどに落ち着いており、すべてを達観しているふうにさえ見える静謐な眸は、何を訴えるでもなくただ私を捉えつづけた。死に瀕した小さな生き物と私は長いこと見つめ合っていた……。
もしかすると、これらは実際に体験したことかもしれない。下駄箱の金魚鉢で蘭鋳を飼っていたことがあるか彩乃さんに訊いてみたが、彼女がパパと結婚したのは最近なのだから、この質問は意味がなかった。今度パパに確かめてみようと思った。
私の素性をはっきりさせるため、必要とあらばDNA鑑定が行われることになるだろう。仮面を外したあとなら、歯型の照合が手っ取り早い。たぶん私はどこかの歯科医にかかっていたはずだ。また、記憶を取り戻すには催眠療法も有効かもしれない。だが、手指のリハビリを開始した数日後、主治医とともに病室に現れたパパが、半ば強引に私を退院させたのだ。あとから知ったが、医師に対してパパは、私を一人娘の美紗に間違いないと断言したのだった。
こうして初夏の昼下がり、私は大道寺家に帰ってきた。




