「創作衝動」は、それほど日本人に読まれているとは考えられませんが、次のくだりを引用すると、ミステリファンの中には、あれっと思う人がいるかもしれません。
「インテリたちに、品格をおとさずにミイちゃんハアちゃんになれる機会を与えてやったら、感謝感激おくあたわずってことになるだろうさ」(龍口直太郎訳・原文旧字)
イアン・フレミングのジェイムズ・ボンドものが、イギリスで、とりわけ知的な読者層で評判になっていることを知って、その理由として、都筑道夫が、このモームの皮肉(正確には登場人物の台詞ですが、この人物は皮肉のつもりで言っているのではないでしょう。あくまでモームの皮肉です)を引いたのでした。「これは、なかなか的確に、クライム・ストーリーの本質をいいあらわしているようだ」としながら。都筑道夫の引用は1964年の「フレイミング・フレミング」を参照しましたが、異なる文章で何度か読んだ記憶があるので、これがモームのこのくだりを、最初に引いたものではないかもしれません。しかし、60年代のことであることは確かでしょう。
この台詞は、「創作衝動」の結末近くに出てくるのですが、そこに至るあらすじを、詳しく書いておきましょう。
「アルバート・フォレスター夫人がどのような経路をたどって『アキレスの像』を書くに至ったか、おそらくそれを知っている人間はごく少ないと思う」と「創作衝動」は始まります。『アキレスの像』は、どうやら大成功を収め、売れに売れたようです。その経路の「手短な説明」を「私」は物語ろうというわけです。それは「私たちの時代の文学史に対する一つの不思議な脚注と考えられるかも知れない」のです。というのは、フォレスター夫人は、後世に残る格調高い詩と散文を書くことで定評があり、彼女が開く火曜日のお茶の会と土曜日の昼餐会は、知的な人々の集まるサロンとして確固たる地位を得ていましたが、残念なことに、彼女の書く本は、どれも売れなかったのでした。エイジェントは版元に、売れ筋と抱き合わせで、彼女の本の出版を引き受けさせているのです。「私」は、フォレスター夫人のこれまでの作風や、彼女のサロンに集まる人々、そこでのフォレスター夫人の態度などを、まず描いていきます。上品で知的で、洗練されているのかもしれないけれど、おそらくは退屈な集まり。「私」はドアを開けてくれた女中にむかって「今日は礼拝がありますか?」と口をすべらせてしまいます(それを知ったフォレスター夫人との、その後のやりとりに、読者はニヤリとさせられる)。昼餐会は見事な食事とワイン、それに葉巻がふるまわれ、その趣味の良さが、サロンの令名を高めています。食事や葉巻に話題が及ぶと、フォレスター夫人は、夫に任せていると、嬉しそうに話すのです。フォレスター氏は干し葡萄の商いをしています。彼はフォレスター夫人の夫として、この集まりに顔を出していますが、芸術とは無縁の人で、暗黙のうちに、無視してかまわない、飲み食いの勘定を受け持つためだけの存在として、立場が定着していました。フォレスター夫人の夫として、ただそこにいるという役割を果たすのです。
こうした諸々が、全体の半分ほどをかけて説明されたのち、事件が起こります。ある日、コックのブルフィンチ夫人とフォレスター氏が、駆け落ちをし、氏が残した書き置きは、午後のお茶の会の席上で読まれてしまいます。氏は、文学にも芸術にもうんざりしていたのでした。自尊心が高く威厳を尊ぶフォレスター夫人は、夫に帰ってくるよう頼むことなど論外(あたしに、コックなどを相手に愛情を争えとおっしゃるの?)ですが、文学活動やサロンの交わりに今後経済的困難が生じるのは、目に見えています。エイジェントが中心となって、夫を「帰ってこさせる」よう、夫人を説き伏せます。
ここから先は、結末まで書いてしまいますので、ご自分で読まれる方は、この段落はとばしてください。フォレスター夫人はブルフィンチ夫人の家へ、夫を訪ねます。彼はすでにブルフィンチ夫人との隠居を考えていて、年900ポンドの三分の一はフォレスター夫人に仕送りできると言います。保っていかなければならない体面のあるフォレスター夫人には不足な額です。夫人の文才はお金にはなりません。そこでブルフィンチ夫人が言います。「なにか面白い、スリル満点の探偵小説をお書きになったらどうですの?」フォレスター夫人は「批評家が雨あられと攻撃を浴びせるわ」と言下に拒否します。そこで、フォレスター氏が「そうとも限らんよ」と口にするのが、先に引用したインテリたちに云々の台詞です。フォレスター氏とブルフィンチ夫人が親しくなったのは、共通の趣味である探偵小説を介してだったのです。ふたりは、フォレスター夫人が探偵小説を書くとするならばという仮定のもと、お喋りがはずみます(気持ち分かりますね)。しかし、「あなたは三十年の間、イギリス文学の最高のものにかこまれていながら、何百冊という探偵小説を読んでいたんですね」と、フォレスター夫人は、ここで夫婦の間に「越えがたい深淵」があったことに気づくのです。話し合いは不調に終わりました。帰宅の道すがら、しかし、夫人にあるアイデアがひらめきます。考え込み、そして「そうだ、エドガア・アラン・ポオがいた」と思いつきます。彼女の知る作家で探偵小説を書いた人がいたのです! 彼女は家に戻り、宣言します。「あたしは探偵小説を芸術の高みに引上げるつもりです」。周囲は驚き「アルバートさんのほうはどうなりましたか?」と訊ねます。「アルバート! あたし、用事で出かけてすっかりそのことを忘れてしまいました。ハイド・パークを歩いて、そのインスピレーションを受けたのです」。これが『アキレスの像』が書かれるに至った経緯なのでした。
売れない真面目な文学と、俗で売れる探偵小説という対比は、「創作衝動」から半世紀以上経過した現代の日本でも、うっかり通用してしまうかもしれません。あらすじからだけでもお分かりのように、皮肉たっぷりのコメディと言ってしまってもいいような短編でした。紹介できなかった細部には、もっと笑いの種が詰め込まれています。
越川正三の『サマセット・モームの短編小説群』でも、かなりのページを割いて、この短編に触れていますが、これには異論がないわけではありません。越川説を見ながら、もう少し内容に踏み込んでみましょう。
越川説では、まず、フォレスター夫人をおべっかに耳の慣れた文学的には才能のない作家で、「私」だけがそれを見抜き、皮肉っていると読む立場を取ります。フォレスター夫人には本当に才能がないのかどうかは、ちょっと問題になるところです。本当に才能がないのなら、ここまでその存在を許してきた取りまきも無能ということになります。しかも、そんな無能な作家でも、探偵小説では成功できるという結末です。そうかもしれませんが、フォレスター夫人は、本当に文学的才能のある人かもしれない。だから、すばらしい探偵小説を書いて成功したのかもしれない。そのどちらかは、分からない。それが私の考えです。越川氏は、夫人のフランスに関する文章についての記述から、夫人の著作の実態がいかがわしいものであることを指摘しますが、忘れてならないのは、それは「私」の記述であって、暴露された実態が真実だと、「私」が判断できた根拠は、残念ながら与えられないのです。これは、なまくら一人称の限界というものでしょう。
越川氏によると、「私」はモームであり、同時にフォレスター夫人のエイジェントも、モームの分身ということです。フォレスター夫人の姿を見る目が曇っているかいないかで登場人物を分けて、フォレスター夫人とフォレスター氏に、それぞれを代表させるものだから、この小説には「この二人しか登場しない」という乱暴な発言に至ってしまいます。エイジェントのシモンズ氏の言動など、ごく当たり前のエイジェントのそれではないでしょうか。それを、結末の言動をフォレスター夫人のためにしたものと英雄視するに至って、無理もここに極まっています。しまいに「モームは高踏派の文学を否定し、娯楽的な小説を奨励している」としますが、その実態たるや、高踏派のニセモノ(というのが氏の立場なのでしょう?)が書いたミステリが「『非の打ちどころのない英語』で書かれた、芸術性の高い作品なのである」というですから、お郷が知れるというものです。
こういう無理の背景には「私」をモームと考える、最初の誤った前提があるとしか思えません。モームは語り手の「私」をも含めて皮肉っている(いったい、なんのために、「私」はこのサロンに出入りしていたのでしょうか)。そう考える方が、どれほど自然でしょう。越川氏は、フォレスター夫人のサロンにおける夫の立場を「屈辱的な待遇」として、モームが「理由もなくこんな境遇に甘んじさせているわけではない」と書きますが、その理由というのが「やがて彼がみせる名誉回復を読者に印象づけるための一種の仕掛け」だと言うのです。このような意図でのみ書かれた人物を、ミステリの批評では、プロットに奉仕するためのあやつり人形のような登場人物と、否定的に呼ぶのです。そういう作劇上の都合ではなく、そのような待遇に甘んじなければならなかった、そして、そこから逃げ出した人間として、フォレスター氏は彼の愚かさや俗物性も含めてしっかりと描かれている。そこを見ないのは、作家に失礼ではないでしょうか。
都筑道夫の引用に戻ってみましょう。都筑道夫は、これがモームの皮肉であると同時に、クライム・ストーリイの本質をいいあらわしていると、真面目に考えていたようです。もっとも『推理作家の出来るまで』の終わりころでは、少なくとも日本においては、この比喩は現実的には無効であるように判断していたようです(下巻「子どもの心」の項参照のこと)。それでも、奇しくもモームのこの短編集が幕開きを告げた1930年代は、そうしたミステリの知的向上の試みが、顕らかになっていく時代でした。また、ストレイトノヴェルの作家が、お金目当てに意識してミステリを書く事例(たとえばウィリアム・フォークナー)も現われるようになりました。「創作衝動」は、ミステリと文学との対立を、最初に意識にのぼらせた小説作品だと、私は考えますが、すでに、このときから、ことは双方を皮肉にながめるしかない問題として提示されていて、これは、それを書いたモームの資質のせいだけとは、私には思えないのです。
■小森収(こもり・おさむ)
1958年福岡県生まれ。大阪大学人間科学部卒業。編集者、評論家、小説家。著書に 『はじめて話すけど…』 『終の棲家は海に臨んで』『小劇場が燃えていた』、編書に『ミステリよりおもしろいベスト・ミステリ論18』 『都筑道夫 ポケミス全解説』等がある。
ミステリ、SF、ファンタジー、ホラーの月刊Webマガジン|Webミステリーズ!