もう少し、サマセット・モームに寄り道してみましょう。
 実は、先月の回で1冊とばしたモームの短編集があります。『一人称単数』という1931年の短編集がそれです。6編の収録作はみな邦訳がありますが、1冊の短編集として全訳されたものはないようです。刊行の順番としては『アー・キン』に先立ち、執筆時期は、おそらく『コスモポリタンズ』と同じころか、やや後と思われます。題名のとおり一人称の作品集ですが、そのうちのいくつかは、一人称ながら、語り手がその場には存在しない場面をも描いてあって、当然、そこは三人称のような形態となります。こういう一人称を指し示すテクニカルタームがあるのかどうか、私は知りませんが、仮に、なまくら一人称としましょう。これは、三人称小説の中に、突然作者が「私」という形で出てくるものではなく、また『コスモポリタンズ』にいくつか見られた、「私」は存在するものの、その「私」は小説の中には登場しないといったものでもありません。「私」は登場人物として、他の登場人物と出会い話し、しかし、自分の立ち会わない場面も描くのです。
 ホントのことを言えば、私は、この短編集収録作のうち3編しか入手できなくて、半分しか読んでいないのですが、越川正三という研究者による『サマセット・モームの短編小説群』を読むと、この特殊な一人称が、短編集全体の特徴としてあげられています。越川正三という人はモームの研究書をいくつも出していて、とくに『サマセット・モームの短編小説群』は、全作を丹念に吟味した労作です。
 さて、なまくら一人称の話ですが、これは、ありそうでない形なんですね。たとえば、ヴァン・ダインの小説は、登場人物ヴァン・ダインの一人称であることを、しばしば読者は忘れてしまいますが、すべての場面にヴァン・ダイン氏は立ち会っていたはずです。ワトソン博士はさすがに登場人物として、しっかりと印象づけられていますが、これがヘイスティングズになると、作品を重ねるにつれて、登場人物としては負担になってきています。それでも、なまくら一人称には、なかなかならないもので、クリスティが『ABC殺人事件』でカストを描いた章を律義に区別したり、栗本薫が『ぼくらの時代』でわざわざ弁明をつけたりと、相応の配慮がなされるものなのです。
 蔑称ぽく、なまくら一人称なんて呼びましたが、こういういい加減さを許すのは、小説の美点でもあると、考えないわけではありません。そう。10日のうち4日くらいは。ただし、だからといって、この「私」が、あるいは「私」の書き方が、都合のよいインチキくさい存在や方法であることは、否定できません。モームの場合は、私小説の約束事のように、この「私」をモームと決めてかかり、「私」の価値観や人柄が現われるのを楽しむという人もいるようですが、そう考える理由は、たかだか、作中の「私」の見解が、他のモームのエッセイにそっくり出てくるといった程度のことです。この立場はちょっと採用しがたい。この立場からすると、前回触れた「ルイーズ」で、彼女と対決するのは、モームということになります。だったら、ポイズンヴィルを血まみれの混乱に陥れるのは、ハメットだということになるんですかね。それでいいのかな。いささか信じがたい。
 この、なまくら一人称の作品のうち、「創作衝動」という1編を、今回はとくに取り上げることにしましょう。というのは、この作品そのものはミステリではありませんが、この作品と、この作品の背景には、ミステリがおおいに関係があるからです。