本題に入る前に、江戸川乱歩編『世界短編傑作集』全5巻の、とりわけ、その前半の同時代に、他にどんな作家がいたかを拾いながら、その時代の短編ミステリ(あるいは短編小説)の世界を把握する。その作業を、もう少し続けてみましょう。
『世界短編傑作集』と並んで、基本的かつ著名なアンソロジーが、実は、創元推理文庫にはあります。『怪奇小説傑作集』全5巻がそれです。収録作の執筆年代も、両アンソロジーで、かなり重なっています。ただし、怪奇小説はミステリの一部ではなく、歴史的に見ても発展の仕方を見ても、異なったジャンルではあります。ただ、ミステリの一部、とくに短編では、怪奇小説に傾斜していったり、その味わいを持ったりした作品が、常に書かれ続けてきたという事実があります。同じ作家が、双方を書くことも珍しくないわけです。ただ、ここで怪奇小説に触れるのは、いささか時期尚早なので、怪奇小説との係わりには、もう少し後で踏み込むことにしましょう。このジャンルには、風間賢二さんの『ホラー小説大全』
さて、19世紀末から20世紀初頭にかけて、ジャーナリストから出発し、短編小説の名手として名を馳せた作家が、イギリスに一人、アメリカに一人います。ともに、苦いユーモアで知られ、人の口の端にのぼるような劇的な最期をとげました。
誰だか分かりますか?
イギリスの作家はサキ。アメリカの作家はアンブローズ・ビアスです。前回のスティーヴンスンは、まだミステリの範疇と言って共通理解が得られなくもありませんが、サキとビアスになると、そろそろ、これは違うんじゃないか? と首を傾げる人が現れるかもしれませんね。
日本において、サキは「開いた窓」(「あけたままの窓」の訳題もあり)が圧倒的に有名です。この作品のおかげで、ミステリの読者にも、ビアスよりは馴染みがあるかもしれません。「開いた窓」はハヤカワ・ポケット・ミステリの『幻想と怪奇』
クローヴィス・サングレールという、絶妙のシリーズ・キャラクターを用いた、度の過ぎたいたずらを連発するような短編群を読むと、はるか後年、ブラックユーモアという言葉が流行した60年代にテリイ・サザーンが書いた『怪船マジック・クリスチャン号』
私のお気に入りのひとつは「乳しぼり場へ行く道」という短編ですが、これなどは、モームばりの人間観察が光っています。突然の遺産相続で、にわか金持ちとなった老嬢に、三人の姪が近づいていきます。もちろん、おこぼれにあずかりたいのですが、他方、競馬好きで浪費家の甥を、この老嬢はかわいがっていて、これを遠ざけたい。そこで、実際にギャンブルで浪費しているところを見せれば、甥に対する見方も変わるだろうと、彼の行きつけのフランスのカジノへと連れて行くと、あにはからんや……という話。ちょっと、デイモン・ラニアンの風味もしますね。このお婆さん、元コンパニオンだったから、フランス語も三人の姪より堪能で、なんでも自分ひとりでてきぱきやってしまうというのが、まず愉快で、しかも、贅沢とは無縁だったはずのそんな老嬢が「ボーイさん、ポンテ・カーネを一本。おや、このワイン、ワインリストの七番だよ。ひとつ今夜は七番で行くとしよう」なんて、のたまうようになってしまう。
といったふうに、ひとつひとつ読んでいくと、ヴァラエティに富んだ短編群なのですが、とはいえ、「開いた窓」が新しいタイプの怪奇小説、ないしは奇妙な味のミステリとして日本に紹介され、その作者としてサキの名が知られたことも事実です。都筑道夫は「『開いた窓』を怪談あつかいしたことは、間違っていない」とも書いています。このほかに、ロアルド・ダール『あなたに似た人』
恐怖の源泉を超自然的なものに見るのではなく、人間の中に見ようとするのが、このときの基本的な態度でしょう。また、そうした見方があったために、ミステリとホラーが接近したとも言えます。このことは、40年代半ばのミステリにおけるニューロティックサスペンスの隆盛とも関連して、後日もう一度考えてみることになるでしょう。また、〈ミステリマガジン〉編集長として、幻想と怪奇の特集を8月号恒例として定着させた各務三郎さんが、かねて、怪奇小説がアニミズムを切り捨てたと不満をもらしている(氏はオーガスト・ダーレスの「淋しい場所」がお好きだったと記憶します)ことも、私には気になるところではあります。