『世界短編傑作集』をアタマから読み進んでいった人は、ごく自然に、ミステリはこういう形のものだという、形式の感覚を身につけるかもしれません。ミステリというのは、まず事件が起こり(事件の大小はあるにしても)、そこに生じた不可思議を、ある人物が解明する。
 そんなことは当たり前だ。なんて言いっこなしですよ。そういう観点からすると、最初の2編「人を呪わば」「安全マッチ」は、それこそ、いささかオフビートな印象を与えはしませんか? ところが、次の「レントン館盗難事件」以降の作品を読むと、それが、ひとつの形式として、確固としたものになっていることが分かります。これがシャーロック・ホームズが登場した効果だと、私は考えます。もちろん、ポオのミステリ短編は、そういう構成でした。ガボリオもそうです(各務三郎編『クイーンの定員』に収められた「バチニョルの小男」を読んでみてください)。しかし、圧倒的な数の模倣者を生み、謎解きから冒険まで包摂できる、同一主人公の活躍する形式として、小説のひとつのフォルムを完成させたのは、コナン・ドイルの手柄でしょう。「ミステリはドイルからはじまる!」と各務三郎が宣言したのは、この点を見ています。もう一点、ワトソンという語り手の造形も功績としてある(なんたってワトソン役という言い方まで生まれた)のですが、それはいつか触れましょう。

 さて、では、謎解き小説ではない、クライムストーリイやサスペンス小説は、1~5巻のどのあたりで出てくるのでしょうか?
 謎と探偵がセットとなった形式からはずれるものは数えるほどしかありません。第1巻のジャック・フットレル「十三号独房の問題」がその例外のひとつです。十代のころ、この短編は5巻中の私のベストでした。ハウダニットなら、こういうゲーム感覚のものがすっきりしているように感じていたのでしょうか。そう。この短編はハウダニットの非常に巧妙なヴァリエイションになっています。また第2巻のオースチン・フリーマン「オスカー・ブロズキー事件」は、ご存じ倒叙ミステリですが、倒叙という言葉が示すように、まず謎があるという形式の感覚が先にあって、それを倒立することで成り立った構成法でした。もう1編、第2巻のクロフツ「急行列車内の謎」は探偵がいないという点で破格ですが、謎とその解決という形式は守られています。

 すなわち、これら3つのヴァリエイションはあっても、基本的には謎と探偵の物語という形式からはずれることはありません。奇妙な味という乱歩の造語が用いられるときに、必ずといっていいほど引き合いに出される、第1巻ロバート・バーの「放心家組合」や第2巻ロード・ダンセイニの「二壜のソース」でさえ、この形式が守られていることに着目してください。奇妙な味という概念は、必ずしも謎解きミステリという形式と対立するものではない。この点は、うっかりし そうですから、アンダーラインが要りますね。

 この形式から離れた短編が、『世界短編傑作集』に登場するのは、なんと第3巻の終わりごろ。アガサ・クリスティの「夜鶯荘」です。扉裏の解題にも、ちゃんと「すぐれたクライム・ストーリー」と書いてあります。
 正直言うと、第2巻第3巻あたりの謎解きミステリ、とりわけハウダニットは、いま読むと退屈ですね。少々名高い作品も、私には欠伸ものでした。むしろ、第2巻モーリス・ルブラン「赤い絹の肩かけ」みたいに、謎の投げかけ方が巧いと、魅力を感じてしまう。

 それにしても「夜鶯荘」は良かったな。40年近く前に一度読んだきりで、今回再読しました。この小説の結末なんて、12か13のガキだった初読の私でも見当はつくわけです。しかし、窮地に陥ったヒロインが、時間稼ぎの出任せを、次から次へと口にするうちに、「的を射あて」てしまう。この感覚がいいんだな。こういう、些細だけれど、小説好きを惹きつけるフェロモンみたいなものに、このオバサンは終生敏感でした。クリスティは小説がヘタという俗説を、私はちょっと疑っていて、セイヤーズより巧いんじゃないかと思うことが、かなりある。少なくとも「疑惑」と「夜鶯荘」を比べると、小説の巧さも後者に軍配をあげたくなります。パズルストーリイの女王の書いた短編で、謎解き小説の形式を逸脱してみせるというのは、アンソロジーの企みとして洒落ていますが、意図したものかどうかは分かりません。
 「夜鶯荘」は、クイーンの『黄金の十二』では圏外だったものの2票入っていて、定評はあったわけです。事実、『黄金の二十』に増補したときは、加えられたようです。第一、この短編が史上初のサスペンスミステリだとか、クライムストーリイ(この違いは難しいのですが、幸い、この短編はどちらでもありうる)だというわけではありません。

 たとえば『クイーンの定員』で、♯29にあげられている、リチャード・ハーディング・デーヴィスの「霧の夜」を読んでみましょう(世界大ロマン全集第4巻『緑のダイヤ』所収)。題名通りの霧の夜、ロンドンのとあるクラブで、大物政治家がいまにも探偵小説を読み終えようとしている。奇譚好きのこの政治家のために、居合わせたひとり――アメリカ人の外交武官――が、昨日体験したばかりという奇妙な殺人事件の話を始めます。
 霧の中を迷い込んだ屋敷で、男と女が殺されている。アフリカ帰りの冒険好きな伯爵家の兄とその弟、殺された謎のロシア美女、同じ家にいながら事件に気づいていなかったらしい怪しい召使など、登場人物の謎めいた姿は、どうやら事件の背後になにかを抱えているためらしい。武官の話は一応の解決をみますが、謎は解明しきれていない。すると、それに続いて、今度は別のイギリス人外交官が、殺された美女にかつてロシア皇后に贈るはずの首飾りをあやうく盗まれそうになったと言い出し、その顛末を語り始めるのです。その次は、ある弁護士という具合に、三人の語り手が順に物語り、終ったところには、ある解決が待っている……。

 怪談の百物語を連想させる語り口で、奇妙な事件を綴っていく。こういう構成法もあるんですね。ただし、ここには探偵役はいません。1901年のこの小説は、やはり『クイーンの定員』に選ばれた、ある連作を私には連想させましたが、そのことについては、次回書くことにしましょう。


小森収(こもり・おさむ)
1958年福岡県生まれ。大阪大学人間科学部卒業。編集者、評論家、小説家。著書に 『はじめて話すけど…』 『終の棲家は海に臨んで』『小劇場が燃えていた』、 編書に『ミステリよりおもしろいベスト・ミステリ論18』 『都筑道夫 ポケミス全解説』等がある。