第二短編集『百万に一つの偶然』は、第一短編集の傾向を引き継いでいて、旧弊な登場人物の振る舞いが、微妙に絡み合った人間関係を形作って、それが殺人事件に向かっていく様が描かれています。「絹糸編みのスカーフ」は、母性的な保護(その裏側には、女性は妻になることで、家庭に籠る以外に道がなくなるという社会の在り方が張り付いています)が、殺意の対象となるに到るまでを周到に描き、スカーフの象徴性は、平凡とはいえ効果的でした。「ワニ革の化粧ケース」は、妻の暗黙の了解のうちにその夫を愛人が殺します。暗黙の了解というところに、女は愚かであるという社会の前提と男の思い込みを込めていて、たとえば『郵便配達は二度ベルを鳴らす』と英米の比較を試みてもいいでしょう。そして、それがあってこそ、この解決と、その後のオチが秀逸です。これらの作品が持つ女性観、あるいは、背景にある社会の持つ女性観や、「相場に賭ける男」の犯人の女性が、三十一歳で中年の美しさと描かれるところなどに、作品全体の基調となる古めかしさが出ています。
 一方で、常識的に考えられる倒叙ミステリの書き方に、ヴィカーズがさほど拘泥していないことも見てとれます。「けちんぼの殺人」「九ポンドの殺人」は、まず、犯人を伏せた中立的な(まるで事件報道のような)筆致で事件が描かれ、しかるのちに、犯人側が描かれます。邦訳ではアンソロジーにしか入っていませんが、おそらく同時期の執筆と思われる「ベッドに殺された男」に到っては、ふたりの容疑者がいて、犯行を直接犯人側からは描かないことで、倒叙というよりもパズルストーリイに仕立てています。この手法を洗練させたのが、のちにEQMMコンテストで第一席を獲る「二重像」です。もっとも怪しい容疑者(彼には幼いときに死んだ双子の兄弟がいる)と、彼の周囲に出没する妻も取り違えるほどそっくりな男。常識的には、無論、彼が成りすましての犯罪なのでしょうが、いわゆる倒叙を避けた書き方は、決め手が与えられないままに、謎めいた状況の霧は深まるばかりです。「二重像」を倒叙と呼ぶことに、私は賛成しかねます。作品の構造上もそうだし、そもそも、それはネタばらしではないでしょうか。
 迷宮課シリーズは、第二次大戦後も、EQMMの求めに応じて書き継がれます。しかし、第三短編集の『老女の深情け』は、迷宮課シリーズではない作品も含まれていました。ヴィカーズの場合は、これをして、一冊作るための寄せ集めとだけは考えづらい。殺人に到るまでの殺人者の肖像を丹念に描くという一点は、どこも変わりがないからです。付け足しのような捜査は、むしろ邪魔になる。シリーズ外の作品が増えたということは、パターンが時として書きづらさを生んだのかもしれません。そして、時代が進むにつれ、シリーズの持っていた古めかしさ旧弊さは、薄れていきます。もちろん、第三短編集にも「老女の深情け」のような、古風な人間関係の綾の上に成り立った犯罪や、「いつも嘲笑う男の事件」のような、人のコンプレックスが人間関係に影響を与えた事件を描いたもの(しかも、犯人ではなく、被害者のそれ)もあって、そして、そうした作品が佳作となっているように思います。しかし、すでに第一短編集にみなぎっていた、そうした古めかしさと、そんな古めかしさの中にいる人間を心理(学)的に把握しようとする気概は、見当たりません。
 いつの初出か分かりませんが「二人分の夕食」のように、軽いジョークみたいな着眼が身上(フレッド・カサック『殺人交叉点』の冗談版とでも言いましょうか)のものも、それなりに面白いと言えますが、おそらくは最後の迷宮課と思われる「真実味」は、なんの変哲もない、そして面白みのない、倒叙の形式だけが残った作品でした。
 迷宮課シリーズに先行するヴィカーズの作品『フィデリティ・ダヴの大仕事』が、一年ほど前に翻訳されました。私は「一四〇〇パーセント」「評判第一」のような、作戦ものふうの、ニヤニヤ笑って読めるクライムストーリイが好きでしたが、一編の長さも短く、作品としては軽量級です。それでも、尼僧のようなダヴを男どもがなめきっていて、そのおかげで痛いめにあうところに、迷宮課と底でつながっている古めかしさを感じます。同じ二十年代に、アメリカのハードボイルドは、男を破滅させる女を見つけ始めましたが、そこにあるのは、男は女を守らねばならないという古風さに、自分たちは裏切られているという感覚(フェミニストのみなさんは、無論、大きなお世話と言うでしょう)ではなかったでしょうか?

 迷宮課シリーズの代表作を選ぶのは、私にはたいへん難しい。さしあたり「赤いカーネーション」「黄色いジャンパー」「ワニ革の化粧ケース」「老女の深情け」といった作品が浮かびますが、どれも決定的ではありません。結局、ヴィカーズでひとつなら「二重像」ということになりそうです。解決に膝をうつような推理があれば、文句なしなのですが、中盤の決め手を与えずに引っ張っていくところが、抜群の面白さだからです。
 ヴィカーズは迷宮課シリーズ(と、その他のいくつかの作品)で、注目すべき倒叙ミステリを書きました。しかし、ヴィカーズの倒叙ミステリは、クライムストーリイへの過渡的な形に思えてなりません。杉江松恋さんのように「『倒叙』とはミステリ叙述にまだそれほど多様性がなかったころの、歴史的な呼称」と断言する気にはなれませんが、少なくとも、犯行動機を含めた、犯人が犯行に到る道筋を描くために、ヴィカーズがこの形を選んだことは間違いないでしょう。アイルズの長編が倒叙と呼ばれたのも、松本清張がヴィカーズを好んだのも、そのためだったに違いありません。そして、倒叙ミステリは衰退期を迎えます。
 以前にも書きましたが、鮎川哲也が『七つの死角』という倒叙短編集を出したとき、瀬戸川猛資がミステリマガジンに書評を書きました。鮎川哲也は倒叙にはふたつの傾向があって、クロフツのそれとアイルズのそれで、自分は前者だと規定した上で倒叙ものを書くとしています。それに対し、瀬戸川猛資は、後者のサスペンスの上に前者の謎の解明はなされるべきで、倒叙の行き方はひとつしかないとして、例に江戸川乱歩の「心理試験」をあげました。瀬戸川猛資のこの考え方は、その後くり返されたところを見ないので、瀬戸川猛資がその後もこの考えのままだったのかどうかは分かりません。しかし七〇年代初頭の日本では、あってもおかしくない考え方でしょう。
 倒叙ミステリの決定的な転換を呼び起こしたのは、ひとつのテレビシリーズでした。そう。刑事コロンボです。このシリーズがオンエアされ、評判になったとき、倒叙ミステリの面白いシリーズと言われていましたが、そのころ、すでに倒叙ミステリという形が廃れていたことは、あまり言われていませんでした。倒叙ミステリで名があがるのは、当時でさえ30年から40年前の作品だったのです。コロンボの新しさは、犯行動機やそこに到る経緯ではなく、犯人と探偵の一対一の対決を描くことで、クライムストーリイが吸収してしまったかに見えた倒叙ミステリに、謎を解明する面白さを持ち込んだところにあったのです。そこには映像というメディアの力、とりわけテレビドラマという器の影響も大きく与っていて、倒叙ミステリがこのテレビドラマというものに向いていることが大きかったと、私は考えています。
 ひとつだけ例を出しておきましょう。マーチン・ランドーが犯人を演じた「二つの顔」です。これは財産目当ての殺人で、甥が叔父を殺す(殺害方法はカーター・ディクスンのある作品のそれで、すでにひとつのクリシェです)というものなのですが、この甥が仲の悪い双子なのです。なにしろ同じ顔かたち(当然ですね、どちらもマーチン・ランドーなんだから)だから、殺しのシーンが出て来ても、それがどっちだか、視聴者には分からないわけです。つまり、この回だけは、単純な倒叙ではなく、フーダニットにもなっているのです。もちろん、冒頭から伏線が張ってあって、だから真相が分かるがゆえにフーダニットではないという議論は成り立ちません。おれは犯人が分かったから、これは謎解きミステリではないなんて議論が成り立たないのと同じです。
 この作品に、ヴィカーズの「ベッドに殺された男」「二重像」を透かして見ることは、容易なことでしょう。そして、その上で、「二つの顔」の意外性としゃれた解明に、膝をうつミステリファンが多いのも納得できることです。その魅力は「二重像」のもつ魅力とは異なります。「二重像」は、明らかに怪しい容疑者がいながらも、ほとんどありえない幻の男の怪しさとの、絶妙な揺らぎゆえに、サスペンスが盛り上がったのです。それに対して「二つの顔」は、犯行が画面で描かれながら、双子という設定ゆえに、どちらであるかが分からないという、極めて単純ながら謎を設定し、そこに盲点となる解決を持ち込んだのです。この魅力の違いからも、刑事コロンボが、倒叙という形式に、名探偵が謎を解くという魅力を持ち込んだことが理解されるでしょう。
 しかも、この回を観ただけでも分かるように、それは映像的な趣向に満ちていました。犯人に業師的俳優のマーチン・ランドーを持ってきて、容疑者の二役をやらせるというのが、そもそも叙述トリックのようなもので(関連して、スパイ大作戦の「欺瞞作戦」も一見の価値ありです)、二役を演じるマーチン・ランドーは颯爽としています。また、そういう腕を撫す感じは役者に伝染するのか、ピーター・フォークも、風呂場の場面で、事件が他殺であることをコロンボが疑い始めるくだりを、一言の台詞も言わずに、長いひとり芝居で見せてしまいます。
 倒叙ミステリがクライムストーリイに流れ込む橋渡しとなったのがロイ・ヴィカーズであり、クライムストーリイとして戸棚の奥にしまわれた倒叙ミステリを、再度取り出して、埃を払ってみせたのが、刑事コロンボだったのです。


小森収(こもり・おさむ)
1958年福岡県生まれ。大阪大学人間科学部卒業。編集者、評論家、小説家。著書に 『はじめて話すけど…』 『終の棲家は海に臨んで』『小劇場が燃えていた』、編書に『ミステリよりおもしろいベスト・ミステリ論18』 『都筑道夫 ポケミス全解説』等がある。


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