こうしたクライム・ストーリイの背後には、読者に提出する犯罪には、それを企み実行する人間がいるという点を無視しないという考え、つまり犯人の人間性に着眼するという発想があります。ここまでで触れた、セイヤーズのクライムストーリイには、なんらかの形の意外性が設けられていましたが、「血の犠牲」に到っては、そうした意外性も用意されていません。
ジョン・スケールズは小説家ですが、一本戯曲を書き、ヒット・メイカーである大物俳優兼プロデューサーの目に留まります。小説が始まった時点で、すでに芝居は当たりをとっていますが、そのためには、スケールズは通俗的な内容に書き直さねばならず、契約上からもそれを拒めないのでした。金銭的には潤ったが、スケールズはそのことを後悔している。仲間うちからは金に転んだと思われているのです。出来ることなら、大物俳優を殺してでも芝居を打ち切りたいくらいなのに、ロングランしているものを止める人はいません。そんなとき、目の前で彼が事故に遭います。大量の血が流れ、居合わせた彼と大物俳優のドレッサーが、輸血できるかどうか調べられることになります。当時はABOといった呼び方はなかったようですが、2種類の血漿を凝固させることで型を判別するのは、現代と同じです。ありあわせの皿で、ふたりの血液で凝固するかどうか調べられます。結果は、一方が凝固し、一方は凝固しません。ドレッサーではなくスケールズが輸血に適していると出たのです。しかし、スケールズは、自分だけが気づいているあることが起きたのを知っていました。血液を垂らしたのち、皿が回転して、ふたりのサンプルが入れ替わってしまっていたのです。
小説の後半は、スケールズの心理描写で終始し、大物俳優は死んでしまいます。サンプルが動いたことを心の内に秘めることで、スケールズは完全犯罪を成し遂げます。犯罪とは言えないかもしれませんが、殺したいと思った相手を死に到らしめたのです。しかし、葛藤のうちに沈黙を守るスケールズの頭は、次第に混乱して、本当はどちらの血液が血漿を凝固させたのか、自信がなくなってきます。もしかしたら、サンプルが回転したのは、血液を垂らす前だったかもしれない。そうした揺れを孕みつつ、それでも、彼は、自分は大切なことに気づいていて、それについて口を閉ざすことで、ひとりの男を殺そうとしている(その可能性に賭けている)と自覚しているのです。
消極的と言ってもいい犯罪ですが、その犯行の一部始終を、犯人の内側から描いた「血の犠牲」は、まぎれもないクライム・ストーリイでした。ここには、いかなる意味でも意外性というものがありません。しかし「殺人法を知っていた男」「骨皮荘」「豹の女」といった、なんらかの形で意外性を盛り込んだクライム・ストーリイにはないものが、ここにあったのも事実です。それは、セイヤーズがピーター卿もので何度となく用いた、最新の科学を利用した殺人方法です。凡庸なシャーロック・ホームズのライヴァルたちならば、剥き出しのトリック小説を書いたかもしれないアイデアで、セイヤーズはクライム・ストーリイも書けることを示して見せたのです。
ここで、前回書いた「証拠に歯向かって」の犯人の異常性について思い出してください。犯行方法が犯人の性格を映す鏡であるならば、ハウダニットは、ある領域に達することで、なによりも雄弁に犯人の人間性を描きうる。「証拠に歯向かって」には、そうしたパズルストーリイの方向性を示す萌芽があったように思います。逆に、ハウダニットを構成しうるアイデアを用いながら、パズルストーリイにしないことで、ミステリとしてのサスペンスを、より強烈にするという、クライム・ストーリイの方向性を、「血の犠牲」は示唆しているように、私には思えます。
こうした特徴は、実は、セイヤーズひとりのものではありません。同時代のアガサ・クリスティにも似たような面はあるのです。以前、クリスティについて書いたときに、短編集『検察側の証人』(『死の猟犬』)が、怪奇現象をあつかいながら、怪談とパズルストーリイを両端に、さまざまな料理の仕方をしていて、それらを一冊の短編集に混在させていると、指摘しておきました。とくに「赤信号」の人物と事件の配置が、後年のクリスチアナ・ブランドの傑作「ジェミニイ・クリケット事件」と似ていることは、非常に重要です。「ジェミニイ・クリケット事件」は、それだけで、この連載の一回を費やすことになるでしょうが、小説巧者のクリスティは、シリーズ探偵の単調さを、20年代中に卒業していたと思われます。
たとえば『クィン氏の事件簿』(『謎のクィン氏』)に顕著なのは、秘められた人間関係を解決の決め手に使おうとする意識です。巻頭の「クィン氏登場」は、以前、自殺した男の動機が謎となっていましたが、そこに大胆な偶然を持ち込むことで、集中随一のパズルストーリイに仕立てていました。しかし、やはり、大胆な偶然と隠された人間関係を、最後の決め手としながら、「ある賭場係の心情」は、落語を思わせる人情噺となっていました。
「窓にうつる影」は、密室ものの変形ですが、この作品が、いかにもパズルストーリイらしく仕上がったのは、密室ものであるためというより、ミスディレクションが巧みなためで、そのミスディレクションは、人間関係上のものでした。「空に描かれたしるし」は、例外的に普通のパズルストーリイとなっていますが、題名となった「しるし」がチェスタトンの『木曜の男』ばりの視覚的イメージで、サタースウェイトがわざわざカナダへ赴くのが、お伽噺的雰囲気を助長していることもあって、浮き上がった感じは与えません。逆に、「海から来た男」になると、さすがに、偶然もここに極まれりという気がしないでもありませんが、パズルストーリイとしては難ありかもしれないものの、小説としては、必ずしもそうは感じさせないのは、読み手に、登場人物たちの過ごした時間の重みを意識させるからでしょう。
『クィン氏の事件簿』は、パズルストーリイとして間然するところのないものから、逸脱していそうなもの、パズルストーリイではないものまで、様々な作品を、クィン氏という風変わりな人物とサタースウェイトのコンビを出すことで成立させています。ただし、このふたりがいるために、クライム・ストーリイにはなりえないという縛りがかかっていることも確かです。また、これはクリスティの資質のためだと思いますが、ここでの行き方が真に開花するのは、『ゼロ時間へ』
ドロシー・L・セイヤーズとアガサ・クリスティという、大戦間のイギリスを代表するふたりの女流ミステリ作家は、短編においては、やや屈折した貢献をミステリ史に刻んだように、私には見えます。パズルストーリイの雄(女性ですが)と見られながら、『世界傑作短編集』には「疑惑」「夜鶯荘」という、クライム・ストーリイが選ばれたのは、そのことを象徴的に示しているように思うのです。
■小森収(こもり・おさむ)
1958年福岡県生まれ。大阪大学人間科学部卒業。編集者、評論家、小説家。著書に 『はじめて話すけど…』 『終の棲家は海に臨んで』
ミステリ、SF、ファンタジー|東京創元社




