灰色の物語(グレイ・サガ)
――節義と血讐と家族を描くアイスランド生まれの警察小説

(12年6月刊『湿地』解説[全文])

川出正樹 masaki KAWADE

 

「いま自分がいるのは新しい世界なのだ」――ヘニング・マンケル『殺人者の顔』

「それには良い面もありますが、当然悪い面もあります」――カリン・フォッスム『湖のほとりで』

 これは灰色の物語(グレイ・サガ)だ。全篇を通じて曇天から降り注ぐ雨は、暗く痛ましい作品世界から一切の色彩を洗い流し、ただでさえ陰鬱なトーンを増幅する。そしてジレンマをもたらす真相は、単純明快に正邪を断じることを許してはくれない。
 北極圏にほど近い北大西洋に浮かぶ島国アイスランドで生まれた本書『湿地』は、彼の国が誇る世界的な文化遺産サガの遺伝子を色濃く受け継ぐ、節義と血讐と家族の物語だ。と同時に、刺激的な展開で一気に読ませるサスペンスに満ちた警察小説でもある。

 舞台は、例年にない長雨に見舞われる2001年10月のレイキャヴィク。物語は、北の湿地(ノルデュルミリ)と呼ばれる住宅街で、レイキャヴィク警察のベテラン犯罪捜査官エーレンデュルが老人の死体を調べているシーンで幕を開ける。
 被害者の名前はホルベルク。死体の頭部には大きな傷があり、かたわらには血糊のついた分厚いガラス製の灰皿が落ちていた。現場には争った痕跡も物色された形跡もなく、ドアは開けっ放しで証拠隠滅をはかった様子もない。二階建て集合住宅の半地下にあるアパートで、近所づきあいもなく暮らす老人殺しは、典型的な“アイスランドの殺人”に思われた。即ち、麻薬中毒者や強盗による杜撰で不器用、単純明快で場当たり的な殺人に。
 だが、一つだけそぐわない事実があった。メッセージが残されていたのだ。死体の上に置かれたA4判の紙に記された三つの単語は何を意味するのか? なぜ、三番目の単語の〈あいつ〉だけが太字で強調されているのか? そもそも誰に向けて発せられたものなのか?
 突発的な犯行と計画的な殺人という相矛盾する真実を示唆する現場に戸惑いながらも、同僚のシグルデュル=オーリ、エーリンボルクとともに捜査を進めるエーレンデュルは、殺されたホルベルクの机の引き出しの奥から古ぼけたモノクロ写真を発見する。
 それは1968年にわずか四歳で死んだウィドルという少女の墓石を撮ったものだった。被害者は、一体どうしてこんなものを持っていたのか。不審の念を抱きつつ死亡届書を調べたエーレンデュルは、少女の母親も娘の死から三年後の1971年に亡くなっていることを知る。そして二人の死因も。少女は悪性脳腫瘍、母親は自殺だった。
 この二人との繋がりを調べるうちに、徐々に明らかになっていくホルベルクの隠された過去。四十年近く前に果たして何が起きたのか。やがて、いくつもの“埋もれた事実”を掘り起こした末に、エーレンデュルは何ともやるせない真相にたどり着く。

「ホルベルグは年寄りだ。なぜそんな彼がいま殺されたのか? 殺した人間はホルベルグの過去に関係しているのか? もしそうなら、なぜいままで殺さずに、いまやったのか?」。捜査中ずっとエーレンデュルを悩ませ続けたこの疑問に対して、終盤ついに解が得られたときに彼が感じるやり場のない怒りに、思わず胸が塞がる。
 遠く遡れば、誰もがどこかで血の繋がりのある小さな島国アイスランド。そんな特異な環境ゆえに起きた殺人事件の真相は、実に重い。暗い。しかも厄介なことに事件の誘因自体は白でも黒でもなく“灰色(グレイ)”なのだ。正であると同時に邪でもあり、安易にすべての責任を負わせるというわけにはいかない。
 真相を追い続けてきたエーレンデュルに、隠滅された過去に光を当てることが同時に現在の悲劇を引き起こすというやるせないジレンマを見せつけた上で作者が提示した結末は、物議を醸すに違いない。まったく共感できないと憤る人もいれば、どうしようもない悲劇として受容しようとする人もいるだろう。いずれの立場を取るにせよ、この灰色の物語(グレイ・サガ)は、簡単には昇華しきれないまま長く心に止まることだろう。

 とはいえ『湿地』は、堅苦しくて鈍重な社会派ミステリでも、ましてや声高にテーマを叫ぶ告発の書でもない。〈マルティン・ベック・シリーズ〉や〈八七分署シリーズ〉といった警察小説の金字塔に影響を受けたと語るアーナルデュル・インドリダソンが、北欧ミステリのお家芸――高度に発達した福祉国家の内面を照射して社会システムの欠陥を剔出し、批判的な検討を試みる――を会得した上で生みだした、刺激的な展開で一気に読ませるサスペンスフルなエンターテインメントなのだ。
 実際、本書はテーマの重さとは裏腹に驚くほど読みやすい。その理由は、作者がサガの伝統に則り、くだくだしく細部を描写することなく簡潔な文章を連ねて、テンポよく物語を展開しているためだ。アイスランドの社会情勢や歴史的なバックボーンといった背景をみっしりと書き込んだり、シリーズ・キャラクターの私生活にたっぷりとページを割くことで、作品世界にムダな厚みをもたせるようなことはしていない。エーレンデュルを中心とする三人の捜査官のプロフィールも、必要にして十分な筆遣いで描くに止められている。主役は、あくまでも事件とそれに巻き込まれてしまった人々の人生なのだ。
 その結果、単行本で約三百ページと、最近のミステリとしては珍しく短めのボリュームに仕上がっている。しかも全篇が四十五章に細かく章立てされ、ほぼ毎回、新たな展開を示唆する形で結ばれているために、先が気になってページを繰る手が止まらない。
 謎のメッセージをキーにして次々と開かれる秘密の扉、掘り起こされて白日の下に晒されていく隠滅されていた過去。典型的な“アイスランドの殺人”に思われた発端からは想像もつかない全体像が浮かびあがってくる、この捜査過程のなんとスリリングなことか。

 こうしたメインストーリーに並行して、エーレンデュルと娘エヴァ=リンドの不安定で緊迫した関係を要所要所で描くことで、作者は真相の究明者であるエーレンデュルの立ち位置を明確にすると同時に、物語に適度な深みと潤いを与えた。
 五十歳になる今日まで昇進の誘いを断り続け、三十年近くにわたって現場にとどまり、裏の世界に潜む悪事の数々を見続けてきたエーレンデュル。レイキャヴィク警察で最も経験豊かな捜査官である彼は、一言で言って古いタイプの警察官である。
 作者が、「いかにもアイスランド的な人物にしたかった」と語るように、アイスランドの伝統文化や風習を大切にするエーレンデュルにとって、新たな潮流――アメリカの大学で犯罪学を学んだ若き同僚シグルデュル=オーリが信奉する最新式で組織だった捜査、アメリカ製の朝食用シリアルに代表される非伝統的な食べ物、エヴァ=リンドが会話の端々に挟む英語のスラングなど――は、忌むべきものにほかならない。
 個人生活は悲惨を極め、別れた妻とは二十年以上会っていない。離婚時のごたごたから二人の幼子との関係は完全に絶たれ、成長した彼らが探し当ててきてようやく再会を果たすものの、娘は深刻な麻薬中毒になっていて、金をせびるときにしか寄りつかず、息子はアルコールの問題を抱え少年更正施設から三度目の出所をしたばかりだ。
 しかも、幼少時に体験した悲劇のせいで住み慣れた土地を離れ、新たな地レイキャヴィクで再スタートをきらなければならなかったエーレンデュルは、アイスランド語で“異質の(foreign)”を意味する名前にふさわしく、長年暮らしている都会にも職場の同僚にも溶け込めていない。一人孤独に鬱屈した日々を送る彼は、常にアウトサイダーとしての立場から、この二十年間でヨーロッパの最貧農業国から裕福で近代的な社会へと急激に変化した母国をしっかりと見据える。そして、大きな変革の影で、ごく普通の人々が引き起こしたり巻き込まれたりしてしまった悲劇の解決に尽力し続けるのだ。
 そんな安寧とは無縁の人生を歩んできたエーレンデュルが、ついに耐えきれずにエヴァ=リンドに対して怒りを爆発させるシーンは、真相解明の瞬間と並ぶ本書のクライマックスだ。そして捜査を進めるに従って明らかになる、あまりにも悲惨で理解したくもない事実に押し潰されそうになり、「この話はすべてが広大な北の湿地(ノルデュルミリ)のようなものだ」と激白する父に対して娘が示した反応は読む者の胸を打つ。

 本書『湿地』はアーナルデュル・インドリダソンの出世作だ。アイスランド警察の犯罪捜査官エーレンデュル・スヴェインソンを主役にしたシリーズの三作目として2000年に刊行されたこの作品は、2002年に国際推理作家協会の北欧支部であるスカンジナヴィア推理作家協会からガラスの鍵賞を授けられた。
 これは北欧五カ国(デンマーク、スウェーデン、ノルウェー、フィンランド、アイスランド)の作家が書いた最も優れた推理小説に対して毎年贈られるもので、1992年にヘニング・マンケルが第一回の受賞者となって以来、スティーグ・ラーソン、ヨハン・テオリン、ユッシ・エーズラ・オールスンといった、最近日本でも次々と紹介され始めた実力派作家が受賞している。
 アイスランド・ミステリとして初の受賞作となったこの作品は、世界各国で翻訳され数多くの賞の候補となり、フランスのミステリ評論家や作家が選出するミステリ批評家賞を始めとしていくつもの賞を受賞した。
 ちなみに2006年には映画化され、東欧最大級のフィルム・フェスティバルであるチェコのカルロヴィ・ヴァリ国際映画祭でグランプリを受賞している。アイスランドの荒涼とした自然美を背景に、枝葉を切り落とし、大胆に展開をアレンジしつつも原作の魅力を十二分に引き出した見応えのある作品に仕上がっている。
 こうして、突如注目を集めるに至ったアーナルデュルの名声を確固たるものにしたのが、2001年に発表されたシリーズ四作目『緑衣の女』(東京創元社近刊)Grafartogn[英版タイトル Silence of the Grave]だ。
 本書に続き二年連続でガラスの鍵賞を受賞するという前代未聞の快挙を成し遂げたこの作品は、2005年に英国推理作家協会(CWA)賞ゴールド・ダガー(最優秀長篇賞)を受賞。かくて、アメリカ探偵作家クラブ(MWA)賞と並ぶミステリ界のメジャー・タイトルを手にした彼の作品は、これまでに世界四十カ国で紹介され、〈レイキャヴィク・スリラー〉と銘打たれたシリーズは、全体で七百万部を突破するメガ・ヒットとなった。

 ミステリ新興国のローカル作家から一気に世界的なベストセラー作家となった事態に対して、作者自身は、2011年にフランクフルト・ブックフェアのゲストとして招かれた際に行われたインタビューの中で次のように答えている。「常にアイスランド人の読者のことを念頭に置いて書いており、他の国々で売れたからといってこの姿勢を変えることはない。なぜならアイスランド的なるものこそが世界中の読者を楽しませていると思うからだ」と。
 変わらぬ姿勢とは、即ち、アイスランドの厳しい環境や社会が抱える問題を背景に、リアリズムと簡潔さを心がけ、銃撃戦より人物造形を重視し、犯罪が人々の人生に及ぼした影響を描いていくということだ。こうした姿勢は作家となる以前にアーナルデュルが歩んできた人生に負うところが大きい。
 高名な文学者インドリディ・G・トーステンソンの息子として、1961年にレイキャヴィクで生まれたアーナルデュル――アイスランドにはファミリーネームという概念はなく、インドリダソンとはインドリの息子という意味――は、大学で歴史学と映画を専攻。アイスランド最大の日刊紙モルグンブラーディット紙に就職する。その後、フリーランスの記者となり映画評論家として活躍する一方で、1997年にシリーズ第一作のSynir duftsinsで作家としてデビュー、以後現在までに〈エーレンデュル警部シリーズ〉十一作を始めとして十五の小説を発表している。
 先のインタビューで、「犯罪小説は社会の諸相を描くのに適している」、「物語作りに関しては、数多くのつまらない映画から多くのことを学んだ」、「アイスランドの大地の力が人々の創造力を導き出す」と述べているように、ジャーナリストとして培われた問題意識と、自作を批評家として冷静に見る目、そして文学者の裔(ちすじ)としての誇りが、旗幟鮮明な創作姿勢の礎となっているに違いない。

「犯罪小説は“人間の条件”(human condition)を描く文学、即ち、ある人物が自分や周りの人々の人生を良くしようとしてしたこと、ないしはしなかったことを描く文学であり、常に自作ではそれを心がけている」と語るアーナルデュル。広大な北の湿地(ノルデュルミリ)のように、一見平穏で堅固に見える土台の下に隠された悲劇の種に蝕まれ、呑みこまれてしまった人々が織り成す、この灰色の物語(グレイ・サガ)をぜひ味わってみて欲しい。重厚長大で読み応えたっぷりな反面、コンディションによっては胃もたれしてしまう最近の北欧ミステリとは明らかに異なる味わいが、ここにある。


(2012年6月)

川出正樹(かわで・まさき)
書評家。現在、雑誌〈ミステリーズ!〉上にて評論「ミステリ・ライブラリ・インヴェスティゲーション」を連載中。著書に『ミステリ・ベスト201』『ミステリ絶対名作201』『ミステリ・ベスト201 日本篇』(すべて共著、新書館)がある。



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