『ピーター卿の事件簿II 顔のない男』の解説で、真田啓介さんは「セイヤーズ・ミステリの基本がハウダニットにある」と指摘しています。実際、ピーター卿の短編を見渡しても、それは当てはまっています。もっとも、そこにセイヤーズの弱点もあって、ハウダニットの陥りやすい罠がある。往々にして、方法に凝る作家の手つきのみが目立つのです。
「幽霊に憑かれた警官」「化かされた巡査」)は、郵便受けから覗き見た死体が、その家ごと消えてしまうという、不可能興味の横溢する短編です。ジョン・ディクスン・カーが書いてもおかしくないような話で、クイーン、カー、クリスティの三人と並べると、セイヤーズはカーにもっとも近いでしょう。事件のすべてをある特定の人間に語らせるという設定を、しばしば好んでセイヤーズは使いますが、そのこともカーを連想させます(『盲目の理髪師』とか)。それはともかく、このトリックは、三、四十年前になるでしょうか、望月三起也だったと記憶するのですが、監禁された主人公が脱出するためのトリックに使っていたことがあって、漫画向けだと、そのときも思いました(セイヤーズのこの短編をパクったものかどうかは分かりません)。映画でもいけるかもしれません。小説で用いると、そんなにうまくいくものだろうかと、考えないではありません(漫画のときも、実はそう考えました)が、謎の深まっていく感じが巧く描けているので、佳品といってもいいでしょう。
「盗まれた胃袋」は、ハウダニットの手つきのみが目立つというのとは、ちょっと異なりますが、作家が思いつきに酔っているところは、そうしたハウダニットの陥穽に似たところがあります。そもそも、なぜ、こういうことをしたのか、実はよく分からない。奇を衒ったと言われても仕方がないでしょう。
「銅の指を持つ男の悲惨な話」は化学を用いた犯行でしたが、「白のクイーン」は、光学的なトリックというか、人に錯覚をもたらすような、あるシチュエーションが、光学的なメカニズムで発生してしまいます。トランプカードやチェスの駒といったゲームにちなんだ仮装をした舞踏会での殺人を描き、多数の、それも極端な仮装をした登場人物を、わずかな枚数でさばく困難は、乗り越えていますが、肝心のトリックが生じる状況に到るまでが複雑すぎるのは否めないでしょう。さらに、その点は譲るとしても、ピーター卿がふとしたことからある知識を得て謎を解決する、つまり、ピーター卿をもってしても知らなかった知識を、とっさにこの犯人が利用するというのは、さすがに、いささか不自然でしょう。
 30年代に入ってからの「鏡の映像」「ピーター・ウィムジー卿の奇怪な失踪」「証拠に歯向かって」といった作品は、いずれも医学的な知見が作品の核となっています。この中では「証拠に歯向かって」が、注目に値しますが、犯行を解明するピーター卿にはもはや魅力があるとは言えないでしょう。むしろ、その強引な解決は、こじつけと紙一重です。この作品で目を向けたくなるのは、こういう犯行を行った犯人の方で、解説の真田さんが「〈奇妙な味〉に通じる一種グロテスクな味わい」と書いているのは、そのことを指していると思われます。ハウダニットのハウが行きつくところまで行くと、こうした可能性が拓けるという意味で、現代にあっても示唆に富むと、私は考えますが、それは、この作品の強引な仕上がりのマイナス面とともに存在しています。
「ピーター・ウィムジー卿の奇怪な失踪」は、「証拠に歯向かって」と、広い意味で同趣向と言えます。前者のウィムジー卿が、ホームズ的な行動の人であるのに対し、後者がHM卿的な解決の人であるという違いはあります。しかし、真の相違はそうした点ではなく、犯人の異常性の強弱でしょう。それくらい「証拠に歯向かって」の能動的な異常さは、際立っています。
 このふたつに比べて「鏡の映像」は、かなり出来が落ちます。そもそも、根本の発想がすでに古びているというか、いまとなっては迷信としか言いようがないのですが、その点が「何かで読んだことがあるが、臓器の位置が入れちがっている者がいたら、一卵性双生児の片割れとみてまちがいないそうだ」という、当時にあっても、はなはだ頼りない根拠から決めつけられているだけなのです。細かいことを言えば、問題の右胸心の男が、子どものころに「プラハの大学生」を見るのは不可能で、作り込み方が雑と言わざるを得ません。

 こうしたハウダニットが陥りやすい、より危険な陥穽は、作家が犯人に対してもっとも肩入れするという危険性をはらんでることです。なぜなら、作家が苦労し手間をかけたトリックを実行するのは、犯人だからです。高木彬光の『人形はなぜ殺される』を思い出してほしいのですが、見事なまでに構築された犯行があり、中盤には見事な論理のアクロバットがあり、最終的には解決の論理も鮮やかでありながら、とても神津恭介が名探偵には見えない。その一点で、どうしようもなく、いびつなパズルストーリイになってしまっている。誤解されると困るのですが、『人形はなぜ殺される』を、高木作品の中で、私はもっとも買っています。にもかかわらず、そのいびつさに目をつぶることは出来ません。
 石上三登志が、犯人の築く犯罪世界の方が先に生まれ、名探偵はそこに同居する存在だと指摘し(『男たちのための寓話』)、都筑道夫が、明快に「探偵よりも、犯人を重視しがちな欠点も、ありました」と断言した(『黄色い部屋はいかに改装されたか?』)、日本の本格ミステリのある傾向が、もっとも端的に表れた例が『人形はなぜ殺される』だと、私は考えます。けれど、ハウダニットからついに抜け出すことのなかったセイヤーズには、そんな落とし穴に落ちる気配が、微塵もありません。理由は簡単です。セイヤーズは、ウィムジー卿の活躍する物語を書くのだという大前提を、揺るがす気がまったくないからです。
 しかし、貴族の次男坊というヒーローの設定は、当時でさえ、おそらくはロマンティックであり、すぐに時代遅れとなる運命でした。その他の部分で新奇なものを求めたセイヤーズは、この点だけは、すぐに古めかしくなることを受け入れざるをえませんでした。自らの探偵がロマンティックな存在だと気づいていたから、小説の中に、新しい風俗を求めたのかもしれません。少なくとも、第一次大戦を難民として潜り抜けたベルギー人と、どちらが、名探偵としてのちのちまで活躍出来るかは明らかでした。私には、ウィムジー卿が第一次大戦で特殊な経験をしたとは、どうしても思えないのですが、それは、そもそも、自分たちが代々そうである貴族というものが、ひとたび戦となれば生命をかけることが常態だったからではないかと、秘かに考えているのです。
 それはともかく、50歳を超え、子どもたちも成長したウィムジー卿は、しかし、相変わらず、子どもに桃泥棒の疑いが生じると、自ら地べたを這いつくばって、犯行現場を調査します。「桃泥棒」は、有閑貴族が探偵として社会に出ていくことが無理になろうと、〈日常の謎〉は解くことが出来ることを示した、気持ちのよい小品です。セイヤーズが家庭人ピーター・ウィムジーを描いた、この作品は、当然のことながら、ハウダニットでした。


小森収(こもり・おさむ)
1958年福岡県生まれ。大阪大学人間科学部卒業。編集者、評論家、小説家。著書に 『はじめて話すけど…』 『終の棲家は海に臨んで』『小劇場が燃えていた』、編書に『ミステリよりおもしろいベスト・ミステリ論18』 『都筑道夫 ポケミス全解説』等がある。


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