ドロシー・L・セイヤーズの短編集は、『ピーター卿の事件簿』として創元推理文庫に入っています。第3巻も出るという話を以前耳にしましたが、いまだ2巻止まりです。3巻めが出れば、ピーター・ウィムジーものの短編は、おそらく全作収録されることになるのでしょう。『ピーター卿の事件簿』(第1巻です)は、70年代の後半に、東京創元社が力を入れていた、〈シャーロック・ホームズのライヴァルたち〉のひとつとして刊行されました。20年代半ばに登場し、40年代にはミステリの実作から離れたセイヤーズを、ホームズのライヴァルと呼ぶのが適切なのかどうかは、異論もあるところでしょう。セイヤーズの短編集は、生前、三冊が出版されていて、刊行年はそれぞれ、28年、33年、39年で、収録作品の半数ほどが、雑誌初出ではなく、短編集に書き下ろされているのが特徴です。
セイヤーズがミステリを書いていた時期に、アメリカではヴァン・ダインとエラリー・クイーンによって、謎解きミステリの形が整い、それが短編においてはどのような展開を見せたかは、ここ何回かで見てきました。同時代のイギリスに目を転じると、かつて触れたクリスティと、セイヤーズが目につくところです。ともに、パズルストーリイの作家ながら、『世界短編傑作集』には、クライムストーリイが選ばれている点も共通しています。
さきほど、ホームズのライヴァルと見ることは異論もあるだろうと書きましたが、長編はともかく、ウィムジーものの短編を読むと、逆に、ライヴァルのひとりに数えたくなる気持ちは分かります。むしろ、ヴァン・ダインやクイーンと同時代にあって、あえて、ホームズ譚を(当時の)新しい革袋に盛ろうとしていたのではないかと、私などは考えてしまいました。たとえば「銅の指を持つ男の悲惨な話」は、クラブに集まった人々の間で奇譚が語られるという構成ですが、この連載の最初で触れたリチャード・ハーディング・デーヴィスの「霧の夜」を思い出す人もいるでしょう。都市の影で、あるいは闇の中で進行する、グランギニョールそこのけの犯罪に、ピーター卿が解決を与える。大陸を旅行中のピーター卿が、フランスで突然、旅行を切り上げる「文法の問題」は、わずかな手がかりから犯罪の可能性を感じ取った卿が、それを未然に防ぐ物語でした。「趣味の問題」(「二人のウィムジイ卿」)に到っては、旅行中も人目につかないわけにはいかないイギリスの大貴族ウィムジー卿が、これまた謎の青年(の正体は、丸わかりですが)の前に、ふたりも現れる。事件の背景には、欧州の軍事バランスを揺るがす兵器の開発と、その売買取引があって、本物のウィムジー卿であることを証明するために、ワインの利き酒(卿は当代随一のワイン通なのです)が始まります。これなど、ホームズのライヴァルというよりは、イギリス版のルパンものではないかと私は考えました。
これらは、いずれも第一短編集から採られた、つまり20年代の作品ですが、その後の作品にも、そういった傾向のものは見られます。「ピーター・ウィムジー卿の奇怪な失踪」がそうで、スペインのバスク地方に隠棲するアメリカ人夫婦の妻の方が、奇怪な呪いのために廃人となっているという話で、作品の前半、夫妻の友人であるイギリス人の民俗学者が、彼女の姿を見て愕然とする。村の人々は恐れて近づこうともしません。後半、登場する魔法使いの正体も、これまた丸わかりですが、秘められた陰謀をウィムジー卿が阻止します。
ウィムジー卿の短編に特徴的なのは、作家の関心が、解決の推理の面白さで読ませるフェアなパズルストーリイを志向するというよりは、ウィムジー卿の観察や知識が、誰も気づかない犯人の企みを白昼の下にひきずり出す、その活躍の仕方の方に向かっていることです。この在り方はホームズ譚の直系といってもいいでしょう。そこに装いの新しさを加えるのがセイヤーズの行き方といってもよく、その好例が「鞄の中の猫」で、オートバイの追跡劇という、新奇なアクションを導入部に、切り取られた死体の発見、そこにウィムジー卿が盗難の被害者として登場するというひねりもあって、良い意味でセイヤーズの新しもの好きな軽薄な面が活きています。「因業じじいの遺言」は、セイヤーズが流行のクロスワードパズルを作ってみせたという、そのことだけが取り柄のような話です(バンターがクロスワードパズルに凝っているというオマケが楽しい)。後述しますが、医学に代表される科学の専門知識に依拠することが多いのも、新しいもの(この場合は新しい知識)を取り入れることで、ミステリを書こうという姿勢の表れでしょう。あるいは、登場人物に、会社員(と名乗る人物)が目立つことも、都会人ピーターを主人公にしたミステリを書きたいというセイヤーズの嗜好が、期せずしてもたらしたものでしょう。
ミステリ、SF、ファンタジー|東京創元社